第17話 Rough Blue vs. ROUGH BLUE

 週に一度、俺たちの新しいバンド、ラフ・ブルーは弾薬庫で練習を重ねるようになった。ほとんど毎週土曜の深夜1時から1時間、ぶっ続けでドアーズの曲ばかり演り続けた。

 当然のこととして、3人と俺が弾薬庫の前で合流するのは午前1時5分前ということになった。

 なぜかいつも、俺が3人よりも先に着いてしまう。ドアにくっつけられたままの小さな時計は0時50分をたいがい1、2分過ぎたあたりだが、3人が先に着いていることはない。

 ジーンズの裾がびしょ濡れになるぐらい雨が降っていても、季節遅れの冷たい風が吹きつけても、俺は必ずドアの前で、ソーヤが奈美恵とジーバの姉妹を、時にはジーバと一匹の黒猫を連れてやって来るのを待つ。

 中の赤ベンチでタバコをふかして待つよりも、このほうがなんとなく俺に合っているような気がする。3人の姿を闇の中に見つけて片手を上げる瞬間を、俺は毎週待ち続けているような気分がしてくる。


 そして俺は重いドアに手をかけながら四角いアルミの小箱の中を見る。針が1時5分前を指している。必ず指している。いい加減にしろよ、と俺はそのたびに苦笑いする。どんだけ信じてんだ? 誰が作ったとも知れない、宣伝でしかないかもしれない話を。

 でもたいがい2時間ずつで回っているスタジオの予約表に、俺たちみたいな1時間しか予約をとらないバンドが割り込めば、ほとんど毎週、日曜の午前0時から1時のあいだが空いてしまうことになる。ということはスタジオからしたら、弾薬庫で午前1時5分前に出会ったら……などという噂は迷惑でしかないはずだ。あまりいい宣伝文句だとは言えない。


 ある日、仕事しながらなにげにそのことを考えていて気づいた。やっと気がついた。弾薬庫の番人が怪しい、と。

 俺たちが入っていくと必ず、弾薬庫の番人――スタジオのお兄さんは必ずコンビニの弁当をビールで流し込んでいる。土曜の夜に一人なんだから予約がたてこまない平日だって一人に違いない。

 噂を流したのは弾薬庫の番人の中の誰かに違いない、と俺は睨んだのだった。ソーヤみたいに噂にひっかかるやつが出てこれば、お兄さんたちはその日の午前0時から1時のあいだを好きに使える。たいがいは俺たちが見ているようにビールとコンビニ弁当のパターンだろうが、平日なんかでもっと空きが出るようなことになれば、コンビニで立ち読みだってできるだろうし、うまくすれば自分のバンドを呼んでタダで練習することだって可能なはずだ。

 なるほど。そうだったのだ、きっと。  

 そうとは知らず、ソーヤときたら……なんか、かわいい。


 そんなことに気づいた週の週末の夜から、俺はそれまでとは少々違った気分でちっぽけな四角い時計をのぞき込むことになった。苦笑いからは皮肉な気分が消え、微笑ましさがこみ上げてくるように なったのだ。土曜深夜の午前1時5分前があったかくなった。


 喫茶店のほうのラフ・ブルーに行った次の週に集まった、2度目のスタジオ入りの夜、黒猫が赤ベンチに乗るなり奈美恵に戻ってドラム・スティックを軽く振りながら乾いた目つきで俺を見上げた。

「あそこのコーヒー最高だね」

 3回目の顔合わせで、奈美恵の言葉はとにかくストレートなのだということはわかっていた。口から出た言葉以外の何も含んでいないのである。つまり奈美恵が最高だと言えば、仙台で一番とか日本一だとか世界一だとかいうんじゃなく、とにかくガツンと満月の輝きの如く最高なのだ。そこに否定や懐疑の余地はない。

「うん、最高」

 と俺は言った。

「あのコーヒーぐらい、いい音にしなくちゃかぁ」

 奈美恵の視線は、壁に貼られたメンバー募集の貼り紙のほうにぼんやり投げ出されていた。もう誰も何も見ていない。


 誰もが略して「ジャズフェス」と呼ぶ定禅寺ストリートジャズ・フェスティバルの持ち時間は、確か40分だったはずだ。こないだみたいにジーバにやらせっ放しにしたら、5曲もやれないことになる。でもまあ別に俺たちからしたら、それでも充分に楽しめるし、充実感も得られるだろう。いとも簡単に。でもそんなんじゃダメなんだ。

 奈美恵の言葉を思い出すたびに俺は思う。「ラフ・ブルー」になった以上、そんなんじゃダメなのだ。


 カウンターの中で意味ありげにニタついている結城さんの目が、奈美恵の言葉の向こうから俺を見つめる。決して切られることのないボブ・マーリーの真のドレッドヘアー、つながりをなくしてただ一緒にいるビートルズ、無関心を装いながらすべてを見ているボブ・ディラン――結城さんの後ろの連中が、投げられっぱなしだった奈美恵の視線の先にあったものを見ろと、鋭く俺に呟く。

 はみ出さなくちゃダメだ。


 ドアーズの曲にジーバのギターは反則で、その点ではしっかり、俺たちのラフ・ブルーは正式路線からはみ出てる。でもそれはただの個性――演ればすぐに誰の耳にも明白な、少なくともドアーズを知っている人からすれば単純すぎるほどに明白な、飾り的な個性でしかない。

 そんなんじゃ何一つはみ出していることにはならない。どんな子供だろうが年寄りだろうが、まともな感受性を持っている人間の皮膚の下に――なんか違う、突き抜けてる――そんな感覚を植え付けるようなバンドにならなけりゃダメなのだ。


 どうしたらそんなバンドになれるのか、何をどうしたらはみ出せるのか。

 つうか、はみ出すって何だ? 違うって何だ? 突き抜けてるって何だ?


 わかってる。

 そんなのは、本当のロックを聴いたことのある人間だったら誰だって知ってる。知ってなくても、きっとわかってる。皮膚の下にその感覚が植え付けられているからだ。自由ってやつの肌触りが。

 バンドは、誰かを勇気づけるためにやるんじゃない。バンドをやるってことは、自由の肌触りの拡散なのだ。俺がトムのラジカセで初めて「ライト・マイ・ファイア」を聴いた時みたいに、誰かを自由にしたくてやるのだ。それまでとは違うどこかに飛ばしてやるのだ。 

 それには個性だけじゃ足りない。

 女がドラムを叩きながらジム・モリソンの代わりに歌い、アコギを抱いた女ジミヘンがバリバリ弾きまくるなんてのじゃ全然足りない。

 ソーヤはどうなんだろう、と思う。何か策はあるんだろうか。


 気がつけばそんなふうなことを考えている俺の前で、ソーヤは相変わらずだ。何度スタジオに入っても、ただその日やると決めていた曲を演奏していくだけ。

 ただ、そんな練習を淡々と続けているうちにレパートリーはどんどん増えていった。「ライト・マイ・ファイア」の次に世間に知られている曲――「ジ・エンド」以外の主要な曲はほとんどやったと言っていい。

 やっぱり、と俺は思う。ソーヤと奈美恵もさすがに「ジ・エンド」にだけは手が出ないんだろう。まあ当たり前だ。あれだけはジム、レイ、ロビー、ジョンの4人にしかやれない曲なのだ。それに第一、野外で演れるような曲でもない。青空の下では、この曲の繊細さは絶対に伝わらない。


 なんてふうに決めつけてた俺の背中に、5月3日の深夜、ソーヤの声は降ってきた。弾薬庫のドアレバーに手をかけた時だ。

「ガメラ、『ジ・エンド』のギター大丈夫かな」

 1時5分前の針の角度が奇妙に広がって見えた。

 向日葵が歪んでやがる、そう思いながら俺はドアレバーを押した。


 これで終わりだ、美しい友よ

 これで終わりだ、僕の唯一の友よ

 終わりなんだ

 僕が君の瞳を見つめることはもうない

 ――曲の骨格は奈美恵とソーヤが完全に把握していた。


 俺は、なにげに覚えているフレーズを奈美恵の歌に合わせて弾いていった。

 ジーバは、レイ・マンザレクのオルガンを真似たわけでもないだろうが、CDで聴くとドラムの奥のほうでずっと通奏低音的に鳴り続けているキーボードによく似た音を、弦の上に空き缶を滑らせて鳴らし続けた。


 この曲は明るい、と俺は思う。軽い、とも思う。タイトルが何だろうと、歌詞の下地になっているのがどんな神話で、歌われている言葉がどんなにショッキングだろうと俺には関係ない。俺にとってこの曲は、まるで雲のあいだに浮かんで進んでいるかのような浮遊感に満ちた、ゆったりした白昼夢みたいな曲なのだ。

 そんなことは、俺よりずっと以前からこの曲を聴き続けていて、何倍もこの曲に馴染んでいる奈美恵やソーヤにとっては、生まれる前からの明白すぎるほどの事実でしかないようだ。奈美恵は、派手にドラムを鳴らしながらも時おり気持ちよさそうに目をつぶったりしつつ、口にすっかり馴染んだ歌詞を子守唄のように歌い続ける。ソーヤもにこにこしながら、10分以上もある曲のベースとなる部分をジーバと二人で鳴らし続ける。


 主役は完全に奈美恵だった。奈美恵だけが躍動していた。そういう曲なのだと、俺は実際に演奏してみて初めて確信することになった。歌の後ろではドラムだけが激しく動き、その上で他の楽器がゆったり流れ続け、ヴォーカルが全体を支配していく、「ジ・エンド」はそういう曲だったのだ。ドラムとヴォーカルさえしっかりしていれば、それほど難しい曲でもない。ドラムとヴォーカルさえしっかりしていれば。



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