第16話 Light Each Other's Hearts
奈美恵の食事はほとんどキャットフードで済んだ。間違えてドッグフードをやっちまったこともあったが、それも案外うまそうに食った。ジーバは体格の割には小食だった。昔の半分も食べないね、と奈美恵は口を尖らせてソーヤに言った。
「でも全然やせないから不思議。音楽を食べ始めたのかなぁ」
ジミ・ヘンドリクスに育てられたジーバは、ドアーズにほとんど口をつけようとしなかった。そのことでソーヤと奈美恵は一年あまりのあいだ無駄に悩み続けることになった。
奈美恵も「リトル・ウィング」に優しさを求めてしまうくらいで、ジミヘンも大好きだった。でもいくらジーバがジミヘンしか聴きたがらないからと言って、ジミヘン専門のバンドにはできない。ドアーズを演るということは、ソーヤ&奈美恵の歴史から言って曲げようのない、核とでも言うべきところだったのだ。
何より、ドアーズを歌う時に出せる何かを、「リトル・ウィング」や「エンジェル」、ましてや「パープル・ヘイズ」なんかでは、奈美恵には絶対に出せない。
奈美恵にとってそれは、空や海の存在みたいに確かなものだったのだ。
ソーヤは奈美恵に比べたら波のように柔軟で、俺は何だってできないことはないんだけど、と言った。
「でも揺り戻しも大きいんだよね。特別思い入れのない曲ばっかりやってると急にやめたくなるんだ。その曲を選んだやつを憎んじまったこともある」
あのタコ指カツマタとは、それ以前の問題だったんだろうと俺は思った。ストレンジ・デイズ爽也があれとやりたがるのはよっぽどのM気質か、不感症か、無神経か、小学校の音楽で5ばっか取ってたようなやつだけだ。
ソーヤがジーバをギタリストとして自分たちの音楽活動に加えようとしている、きっとジーバが初めて錆びた弦を鳴らした時にそれは決まっていた、合宿なんて言葉を使ったのもだからだ、そう思わせてくれるソーヤのハートが奈美恵には何より嬉しかった。奈美恵がそんなふうなことを言った時、ソーヤは鳥の声を聞く一本の木のようにその言葉を黙って聞いていた。
奈美恵のそんな話から浮かんでくるソーヤの横顔は、俺にクマさんを思い起こさせた。
ジーバが自分からジミヘンを卒業し、ドアーズの曲にも興味を持つようになるまでスタジオには入らないと奈美恵は決めた。そこには確かにスタジオ代を出すソーヤへの気遣いもあったが、それ以上に大きかったのは、無駄なことや無謀なことは絶対にしないという彼女の信念ゆえだった。ところがジーバは、3ヶ月たっても半年たっても年が明けても、ジミヘン以外の音はまったく聴こうとしなかった。
自然にまかせてたら「合宿」を続ける気力が萎えてしまう、と思ったのはソーヤだった。このままじゃただのダラけた共同生活でしかない。それにギターホールを段ボールでふさいだとは言え、アコギの音はでか過ぎる。アパートの住民からいつ苦情が出たって全然不思議じゃない。
奈美恵がママに助けられてからちょうど1年目の日、ソーヤは奈美恵に「1時間だけ入ってみよう」と言った。
産むが易しとはこのことだった。
スタジオに入って何が何だかわからずに目をむいてスタジオの中をじろじろ見回すジーバの前で、ソーヤが肩から下げたテレキャスターをバカでかい音で鳴らした時だ。ジーバは嬉々として、ソーヤに合わせてアコギを鳴らし始めたのだった。
ソーヤが弾いたのは「ライト・マイ・ファイア」のオープニングだった。キーボードで始まるイントロとしてはロック界で最も有名な、中学生の俺をロックというまばゆい闇に放り込んだ、あのフレーズだ。
ジーバに予習は必要ない、それぐらいジーバは弾けるようになっている、そうソーヤは確信していた。確信は的中した。何度か聴かせてはいたから記憶はしていただろうけれど、一度も自分で弾いたことのないフレーズを、ジーバはソーヤに合わせて、ソーヤよりも数段も表情豊かに弾いてしまったのだ。ピックアップを付けてアンプにつないだ、拾い物のアコースティック・ギターで。
やがて曲はどんどんジミヘン版「ライト・マイ・ファイア」になっていった。確信犯的なロビー・クリーガーのギターフレーズの代わりに、海をかき回し、空中に花を咲かせ、空へ突き抜けていく力強いギターが「ライト・マイ・ファイア」を彩ったのだ。
これはロックだ、間違いない。そうソーヤは思った。頬が緩んでしょうがなかった。
なんてこった、と奈美恵は思った。私の妹、天才になっちゃったんだ。……じゃあ、あとはキーボードか。
しかしまた障害は現れた。奈美恵だ。どうしてもスタジオでは1時間と人間のままでいられない。音楽に集中できてればソーヤんちでは保てるんだけど、スタジオではなぜかダメなんだよねぇ、と奈美恵は言った。
「全ッ然、自分がわかんない」
3人で何回か野外コンサートに出たりしつつ、何人かのキーボーディストと一緒にスタジオに入ってみたりしていたが、どうしても、1曲か2曲終えたあたりでスタジオに黒猫が登場してしまう。そしてそいつがまた人間に戻ってドラムを叩きだす。当然、驚かない人間はいなかった。
最初に試した女の子はソーヤを見ながら「あの、これは」と、奈美恵に震える指を向けた。2人目のおばちゃんは眉間にしわを寄せ、口許を石のように固くしてスタジオから出ていってしまった。3人目の男子はジーンズの前をあっという間に濡らしてしまった。
いきなり見せるからそういうことになるんだ、申しわけなかった、とは思ったが、前もって言えることじゃない。結局、3人試したところでスタジオの廊下の貼り紙は外し、人づて作戦でいくことにした。担当楽器もギターにまで広げた。どうせジーバのギターでオリジナルの域は完全にはみ出してるのだ。キーボードにこだわる必要なんて全然なかったのだ。勝俣なんてのに付き合ってみたりしたのも、この人づて作戦の一環だった。
そして初めて3人でスタジオに入ってから3年の時間が流れ、ついにちょっとは使えそうなやつが現れた。荒木ガメラさまだ。
「それが本名だと聞かされて、なぜか『やった!』って思えたんです」ソーヤは真面目な顔で言う。「なぜかは、自分でも全然わかんないですけど」
ほとほと自分がわかってないやつばっかだ。
俺にはなんとなくわかるような気がする。と同時に感じる。胸の奥に何か、ズシンと重いものが落ちていくのを。
その何なのかわからない重い物体は、胸の中を深く深く落下していく。いつまでもいつまでも落ち続ける。空洞は俺に胸の中にあるが、それは実はソーヤの穴だ。ソーヤの穴は、俺がいつも自分の中に感じる穴なんかよりもずっとでかくて、遥かに底が深い。俺の中に映ったソーヤのがっぽりとでかい穴を、俺が落ちているのかもしれない。
なんか……と俺は思う。なんかとんでもないやつに関わっちまったのかもしれない。
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