第15話 ママは去り、Little Wingは鳴る
一応は階段と外廊下の出来具合ぐらい確かめてったほうがいいんだろうか、それともそんなことはしないでこのまま踵を返してしまおうか迷って立ち尽くしたソーヤに、肩幅のしっかりした女の子は言った。
「わたしジーバ」
見たこともない女の子に聞いたこともない名前、それも日本人の名前とは到底思えない名前を名乗られたにもかかわらず、ソーヤにはその逞しい体格の女の子が奈美恵の妹、奈良巴だということがわかった。
きっと、とソーヤはその時の不思議を自己分析した。
「きっとあの当時の、すべてがマヒしてふにゃふにゃに柔軟になるしかなかった心身の状態が、わかるわけがない事実をわからせてくれたんだと思うんです。平常時ならたぶん、なんだこいつって思って無視してたんじゃないかって」
ウチに奈美恵、キミのお姉さんが避難してるからついてきてくれないかな、とソーヤはジーバに言った。
「奈美恵ちゃん!」と体に似合わない奇声を発し、あとは一切口を開かずに、ジーバはソーヤのあとについてきた。泥のこびりついたギターを抱いて。
ジーバの叫び声にソーヤは、自分の胸が暖まってくるるのを感じた。姉と妹が再会しようとしている。たったそれだけのことで熱い涙が溢れてきた。
二人が1時間とちょっとかけてたどり着いた部屋では小さな黒猫が一匹眠っているきりだった。ママはどうしたの、とソーヤが訊くと、奈良巴! という大声とともに奈美恵が現れた。
「わたしジーバ」と奈良巴は言った。奈美恵はまた世界が終わってしまったのかと思った。
自分の何十倍も現実的な思考回路の持主で、だから「わたしみたいなのが大学や専門学校なんかに行っても結局は何にもなれないと思うんだよね」そうはきはきと言いきってとっとと自衛隊に志願し、相馬家の家計のかなりの大きな部分を支えてくれていた、奈美恵の知っている妹――奈良巴が、完全にこの世から消えてしまったからだ。中学高校の6年間で鍛え上げた逞しい体だけ残し、まともな会話さえできそうもない「ジーバ」と成り果てて。
奈美恵は奈良巴の手を握った。かつては柔道で、ここ数年は仕事でガチガチに固くなった手は、冷凍庫に入った石みたいだった。それから一度しっかり抱きしめ、それはどちらかというと抱きついているように感じられたけれど、とにかくしっかり姉として抱きしめ、毛布や布団が幾重かかけられたこたつに入れた。
斜め横に座った奈良巴を見つめて、いつも男みたいに短く刈っていたのに今は肩よりも伸びてぼさぼさになっている髪を、頭にじわっと押しつけると、奈良巴は初めぼんやり奈美恵を見つめ返していたけれど、ふっと明るく花が咲くように笑った。
何が奈良巴を変えてしまったのか、奈美恵にはなんとなくわかるような気がした。この3週間、自衛隊の隊員たちがどんな活動をしていたのかラジオで散々聞かされ、時々ソーヤが手に入れてくる新聞で見たりもしていたからだ。大震災後の活動の中の何かが奈良巴を壊してしまった。奈美恵はそう確信した。
電源の入っていないこたつの中で妹の手を握った。姉は黒猫。妹は頭の中の何かが飛んじゃった。なんか、泣く気にもなれない。
それにしても、と奈美恵は、妹の膝の上にネックをのせた汚れたギターを見つめた。このアコギは何なんだろう。どこでどんなふうに手に入れたもので、奈良巴にとってどんな意味があるんだろう。どこで見つけてきたものかぐらいは、訊けば答えるかもしれない。でも聞かなくてもわかるような気もする。
そんなことより……ママは?
まさか。
なんとなく感じてはいた。ママはそろそろどこかに行ってしまうんじゃないか、と。なんだかここ――ソーヤの部屋に来て、マメにあっちこっちに買い出しにいってくれるソーヤに、お腹いっぱい食べさせてもらっているうちに、どんどんママはよそよそしくなってきていたのだ。もうあの時の、しっかと奈美恵を守ってくれたママじゃなくなってきていた。
「あんたはこいつと生きていくんだね」なんていうことを真剣な目つきで言ったりもしていた。別に爽也とはそんな関係じゃないのに。
世の中の深刻な空気をよそに、季節は着実に進んでいた。春が来て、ママは自分の人生に戻っていったのだ。奈美恵はそう理解した。
ソーヤが「ママ、出てっちゃった?」と訊いてきたから、奈美恵は「そうみたい」と笑った。
自分の顔がタンポポみたいになっているように思えた。咲き始めのタンポポだ。子猫みたいにしょぼくれてる。
世界がすっかり悲しくなった。急に優しい曲が聴きたくなった。
「ジミヘンってある?」
奈美恵はソーヤに言った。
ベストならあるけど。
「リトル・ウィング」って入ってる?
入ってなかったらベストじゃないよ。
かけて。
そうして「リトル・ウィング」はこたつの上の、単二電池を六個も入れてやっと動くCDラジカセから流れ、奈良巴は生まれて初めてジミ・ヘンドリクスを耳にしたのだった。
2分半もない「リトル・ウィング」はあっという間に終わってしまったから、奈美恵は次の曲に移る前にすぐにストップボタンを押し、もう一度、さらに何度も、繰り返し同じ曲を聴いた。ジミ・ヘンドリクスは何度も、僕から何でも奪っていいよ、と歌ってくれた。
5回目の「リトル・ウィング」が終わった時、ストップを押す手は伸びてこなかった。その手は一匹の黒猫の顎の下に収められていた。
「オール・アロング・ザ・ウォッチタワー」が流れてきた。
その時、奈良巴の背中がぶるっと震えたのを見ていたのはソーヤだった。
自分が「リトル・ウィング」の次にセットしていた曲にやっと移ったのに気づいて二人のほうを見たら、太ったゴールデン・レトリーバーがくしゃみでもしたように、奈良巴が素早く震えたのだ。
奈良巴がギターを弾くのを初めて見たのもソーヤだった。
ジミヘンが左利きなのを知ってか知らずか、奈良巴はギターを逆さにかまえた。
そしてビシビシピンピン、錆びかけている弦を一本ずつ鳴らし始めた。
その音を聞いて奈美恵が目を覚ました。
あんた、と姉は妹に言った。あんたそれ、ギター弾けるの?
妹は答えた。
「これ、大好き」
ジーバはジミヘンなんて知らない。
ロックだってほとんど聞いたことがないはずだ。
でも今は、どこかの浜辺で拾ってきたに違いないギターでジミヘンを弾きたがっている。
ソーヤはキッチンのカセットコンロでお粥を作っていた。
お粥をカセットコンロでなんて、無謀なぐらいガスを大量に使うものを作っていたのは、もちろん奈良巴の体を考えてのことだった。お粥なんて作ってなけりゃさ、とソーヤは言った。すぐに俺も弾いたんだけど。
他の部屋の住民がみんな、どこかに帰るか避難するかしてくれててほんとにラッキーだった、なんて不謹慎なこともソーヤは言った。加減知らないもんなあ、それに体力も半端じゃないし、上でも横でも誰か残ってたらどんだけ怒鳴られたかわかんないよ。ジーバはそれぐらい思い切りアコギをかき鳴らしたってことだ。カラスの大合唱のほうがまだマシだったかな、とソーヤは言った。
奈美恵は奈良巴を奈良巴と呼ぶのをすっぱり諦めた。ジーバと呼ばないと振り向いてもくれないってのもあったけれど、まるで初めて見た生き物を母親だと思ってしまうヒヨコのようにジミヘンに馴染んでいき、どんどんギターの音を覚えていく妹は、もう完全にジーバとでも呼ぶしかない存在になっていこうとしているように見えたからだ。
ソーヤは毎日、とっくに新入社員として加わっていたはずの仕事場へ顔を出しに行ったり、買い出しに出たりとけっこう外に出ていたが、部屋に戻ってくると、一日中ギターを弾き続けているジーバの向かいに座ってテレキャスターで、ジーバが一人では知りようがないものを弾いて見せた。コード・カッティングをしてみせたのだ。ジーバはそれをすぐに「盗んだ」。あっという間に覚えちゃったからすぐに役目は終わったけどさ、とソーヤは苦笑した。
ジーバが来てから奈美恵は、眠る以外のほとんどの時間を人間として過ごせるようになっていた。ジーバが自主開講の「ジミヘン教室」にどっぷり浸かっているあいだ、彼女は細かい活字の並んだ歌詞カードに何度も目を通した。何かぶっ飛んでるね、と奈美恵が言うとソーヤには自分たちのいる部屋の中のことかと思えたけれど、奈美恵はただ単にジミヘンの歌っている歌詞のことを言ってるだけだった。
ジーバのギターは着実にジミヘンに近づいていった。今、世界で一番不謹慎なのはこの部屋だな、とソーヤは思いながらジーバの「ジミヘン教室」に付き合い続けた。
会社の機器の調整等で遅らされ、そして本人側からもありもしない「実家の事情」でぎりぎりまで遅らせてもらっていた入社期限も使いきり、ソーヤが新社会人として働きに出ることになると、奈美恵はジーバを連れて自分のアパートに帰ると言い出した。
水道も電気もガスも停っている中、一度も苛ついた表情を見せなかったソーヤが「ストレンジ・デイズが一番」の頑固さを顔に浮かび上がらせ、言った。
「どうやって食べていくの?」
それきり黙って見つめてきたソーヤに奈美恵は、
「そりゃあどうにでも……」
とまでは言ったが、あとが続けられなかった。
「アパート引き払いなよ。合宿だ」
それ以来、ガメラと同じぐらい貧乏ってわけ、とソーヤは急に俺のほうを見て笑った。俺はただ見つめ返した。逃げないバンド、という言葉が頭に浮かんでいた。
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