第14話 ソーヤ、奈美恵&ジーバ

 奈美恵はさっきとは打って変わり、両手でカップを包み持ってじっくりのんびり、2杯目のコーヒーを味わっている。 「やっぱファーストだよな」ふっと呟く。店には「ライト・マイ・ファイア」が鳴っている。ほんとーに真面目でわかりやすいお姉さまだ、と俺は思う。


 奈美恵の叩くドラムは亀みたいに真面目である。一つ一つの段階を経て確実に身に付けてきたテクニックだけを使って、一曲一曲を叩いていく。そこには背伸びも無駄もない。派手さはないが、もたついたりしない。

 そんなだから「ブレーク・オン・スルー」のジャズっぽいドラミングからロックのビートに急変する部分では、ジョン・デンズモアに追いつけなくて一発か二発足りなかったりもする。でもその「みんなの前では背伸びしない」的な不器用さは、やっぱり真面目さからきているんだと思う。

 そんな性格が、ドアーズの代表曲「ライト・マイ・ファイア」で「やっぱファーストだよな」なんて言わせてる。ほんとーにわかりやすい。

 そんな奈美恵に比べたら、セカンドが一番だなんて言うソーヤはひねくれ者以外の何でもない。


 ジーバは2杯目のコーヒーもずるずる、あっという間に飲んじまった。あとはただ、満腹になった動物園のゴリラのようにアコギを抱いて座っている。時々椅子をきしませているのは、その視線がちょっとずつ動いているからだ。店の中のポスターを一枚ずつ順番にじっくり見つめ、体の角度を少しずつ変えていっている。

 その頭には、と俺は思う。俺がそれぞれのポスターから得る何倍もの画像情報が刻み込まれているに違いない。木々の中に佇んでいるビートルズ4人の、誰が立っていて誰が座ってるかなんて、ここから出たら数秒後には全然思い出せなくなってる俺だが、ジーバには絶対にそんなことはないだろう。彼女の見つめ方はそういう、網膜にすべてを刻みつけようとしている見つめ方だ。


 カウンターの中では、今では結城さんも夏子もコーヒーを啜っている。そして笑っている。夏子は時々にっこりと、結城さんは妙におっとり目を細めて。

 いつも俺には、憎たらしい弟の相手でもしてるような表情しか見せないくせに、なんだか今日はやけに柔らかい。バンド名をラフ・ブルーにしたがってるやつがいると言った時の「ふざけんな」や「なんでそんなやつと組むんだ?」的空気はイトトンボの吐息ほどもも漂っていない。ただひたすら「ライト・マイ・ファイア」の世界であったまっている。

 その曲が終わり、奈美恵が小さくため息をついた。

「ドアーズを何曲かやったんだってね」結城さんがソーヤに言う。

 不気味な前奏のブルースをドアーズが演奏し始める。

 ソーヤが、こないだスタジオで演った4つの曲名をずらずら並べた。それを全部彼女が歌ったの? いえ、この子も「グロリア」を。へえ。ジーバがジミヘン版「グロリア」のベースラインをちょっと弾く。面白い子だな、みたいに結城さんが微笑む。3人の顔の向こうに、俺はジムのポスターが貼られたドアを見る。ジム・モリソンはもちろん今夜も海のそばで左を見ている。縦長の窓の外を見る。商店街の延長線上にある道の、さらに裏道に面している道路には車1台入って来ないから山奥みたいに真っ暗なままだ。

「3人はずっと一緒に演ってたのかい」結城さんがソーヤに訊き、カップに口をつけた。

「俺とそっちの奈美恵が大学時代から一緒で。それでこいつが奈美恵の妹なんすけど、あとから」ソーヤが言うと、ジーバがぼそっと差し込んでくる。

「わたしこいつ、ジーバ」

 結城さんは、ああ妹さん、とふむふむしただけだったが、俺は驚いて煙草にむせちまった。ジーバが奈美恵の妹? 嘘だろ? ……全然気づかなかった。つうか気づけってほうが無理だ。全然似てねえし、どっからどう見ても質量が、姉の倍はある妹なのだ。

「あの時はほんとにこいつにいて欲しかったぁ」

 奈美恵がジョン・デンズモアが叩いているロールを手首だけで真似ながら呟いた。目は一瞬、ジーバに向けられていた。

 それから結城さんの話し相手は奈美恵に移っていった。


 奈美恵の口からこぼれ出てくる言葉は、前後の脈絡を微妙に欠いていた。マスターが「ってことはつまり」と時系列に沿ってまとめ直すのだが、「て言うか」でまたばっさりと解体され、全貌が固まるのに、ドアーズのアルバム2枚分以上の時間を要した。つまり『ザ・ドアーズ』の「ライト・マイ・ファイア」が終わったところからラストの「ジ・エンド」をあっという間に通り越し、『ストレンジ・デイズ』を全編使い、またファーストに戻ってきて再び「ライト・マイ・ファイア」が終るまで続いたのだ。

 3人の歴史物語のとっかかりになった奈美恵とジーバの関係は、ジーバの本名は相馬奈良巴、23才で、奈美恵と三つ違いの姉妹だということだった。一度聞いてしまえばなんてことはない、俺の頭の中のこの二人もしっかり姉妹となり、すぐに切っても切れない関係になった。

 田村爽也と相馬奈美恵は仙台の大学のサークルで知り合った。二人は同い年だったのだ。現在26才。軽音楽部みたいなところで知り合った二人は、奈美恵がヴォーカル、ソーヤがギター、それに同学年のドラムとベースが加わった4人で、大学生活最初のバンドを組んだ。

 当初そのバンドは、ローリング・ストーンズやザ・フーのカバーバンドだった。しかしなにげな会話の中で、奈美恵の一番好きなアルバムが『ザ・ドアーズ』、ソーヤを「本物のロック」に目覚めさせたのが、『ストレンジ・デイズ』だということがお互いに判明して、ストレートな曲しかやっていなかったバンドのレパートリーに少しずつドアーズの曲も潜り込ませるようになっていった。「ブレーク・オン・スルー」、「ラヴ・ミー・トゥ・タイムス」、「ファイヴ・トゥ・ワン」、ドアーズのカヴァーが3曲になった頃、リズム隊が拒否反応を言葉にし始めた。「なんかおめえら違うんだよな、ビートがな」とか言い始めたリズム隊の二人は他のバンド優先で動くようになったのだった。夏休み前には、講義に出てたり他のバンドの練習で来ている二人にしか会えなくなっちまった。

「つうかおめえらのビートがイモなんだよな」と奈美恵は強がったりもしたが、それ以降サークル内でのメンバー補充もままならなくなった二人は、結局ヴォーカルとギターという形態でドアーズを演り続けることに決めた。しかし「やっぱなんかねぇ」と言い出したのは奈美恵だった。「せめてドラムは欲しいよねぇ」

 あいつがいればなあ、と奈美恵は実は思っていた。どれだけパワフルなドラマーになってくれるかわかんないんだけどなあ。

 あいつってのは高校まで柔道をやっていて、その頃は自衛隊に入っていた妹――奈良巴のことだったのだ。しかしまさか、バンドでドラムを叩いて欲しいから除隊してくれなんて言えるわけがない。しかも充分に裕福とは言えない相馬家の、奈良巴は重要な働き手でもあったのだ。奈美恵が大学に通うための金の一部は、奈良巴が家に入れている金だと思って間違いなかった。

 奈美恵とソーヤの二人は大学にいるあいだずっと、二人だけでドアーズを演り続けるしかなかった。奈美恵はドラムを覚えることにした。

 そんな音楽中心の大学生活を送っていたある日の午後2時46分、地面が激しく揺れた。それが3分間続いた。

「本性が出ちゃったのかもねえ」奈美恵はしみじみ口にした。

 とにかく奈美恵は地震が苦手だった。それでその3分のあいだ、アパートに帰る途中の公園の東屋で膝を抱えて小さく、丸くなっていたのだった。

 その時、バカでかいトラ猫が駆け寄ってきた。なぜだろう、奈美恵は「助かった!」と思った。

 駆けてきた猫はまっすぐ奈美恵のところまで来ると、首の後ろをガブッと噛んだ。そしてそのまま奈美恵をくわえて公園の入口ちかくの大木の根元まで運び、奈美恵の上に4本の足を踏ん張ってしっかと立ち尽くした。

 もうその頃には自分が猫になっていることに奈美恵は気づいていた。猫になって、助かったんだ!


 ここまで聞いた時に驚いたのは、初めて奈美恵の秘密を聞かされた結城さんよりも、むしろ俺だった。いーのかよ、だ。それを話しちまって! である。

 一瞬どきっとして、一気に汗をかいちまった俺の前で、結城さんは闇夜の湖面みたいに冷静だった。黙って奈美恵の話を聞いている。でもやっぱり話が一段落したらさすがに、頭を抱えちまうんだろう、と思っていたんだが、そんな素振りもない。まぁねぇ、そういうこともあるんだろうねぇ的に話を大人チックに丸く収めるでもない。あくまで真剣フェイスで話させ続けている。

 つまり、結城さんは宗教信者が神の存在を信じるように、奈美恵の話を信じたってことだ。奈美恵の言葉を一個も疑ってないし、人格もうたがっていない、この顔はそういう顔だ。

 なるほど、と俺は思った。思わざるをえなかった。

 なるほど、そういう人もいるのかもね。

「ママにはすごく感謝はしてるし、猫の暮らしに憧れてもいたけど、やっぱねえ」

 奈美恵の頭には自分より大きいメス猫の姿が浮かんでいる。

 あの頃、海に近い町はともかく市街地は、ライフラインが寸断されている以外は、例えば道を歩くなんてことに関しては普段と変わりはなかった。仔猫でも安全に歩けた。だから奈美恵は「ママ」に助けられた日、すっかり「ママ」に暖められて眠り、陽が昇って目が覚めるとすぐにアパートを目指した。

 10分もかからずにアパートに着いた。奈美恵の部屋は2階だった。部屋のドアを見上げて、奈美恵は鳴いた。何度もミャーミャー鳴いた。2階に上がるための外階段と外廊下が崩れ落ちていたのだ。

 いくら猫でも3メートル頭上のドアまでジャンプなんて無理だし、よじ登れるわけもない。もしよじ登れたとしても、鍵のかかったドアを開けられるわけがない。

 奈美恵はママに相談した。あいつの部屋まで一緒に行ってくれる? と。ママは行くしかないでしょ、と言ってくれた。そこは10キロ近く離れたソーヤの部屋だった。でもそいつは私にサンマの一匹ぐらいくれるんだろうね、それぐらいの思いやりは持ち合わせたやつなんだろうね、でなきゃやっぱり行けないよ。ママは言った。それは全然大丈夫、と奈美恵は笑顔で答えた。

 ソーヤのアパートは階段が左右の部屋のあいだにあるタイプで、しかも目指す部屋は一階にあった。ミャーミャーあんまり泣き続けると他の住民を怒らすかとも思ったが、とにかく奈美恵とママは鳴き続けるしかなかった。喉をからす覚悟で鳴き始めた。ミャーミャー。すぐにドアは開いた。

「俺、実家で猫飼ってたんで」ソーヤは言った。「テレビもインターネットも見られないしって時に猫の声がしたから、すぐにドアを開けたんです」

 微笑んだ顔が輝いている。その時の様子を思い出してるのだ。

「そしたら奈美恵が大きな猫を抱いて立ってて、ママに何か、って」

 そうそう、と奈美恵がしみじみ頷いた。

「ママと二人で爽也に1ヶ月? お世話になって、その3週間目ぐらいにうちの様子も見に行ってもらって。ね?」

 ソーヤが頷いた。

「そしたらこの子が来てたんですよ」

 ジーバがなぜか「パープル・ヘイズ」の前奏を鳴らす。

「わたしこの子、来てた」

 アパートの階段はペンキも塗られていない金属がむき出しの状態だったが、2階の部屋に入れるようにしっかり直されていた。でもソーヤはすんなりと2階に上がることができなかった。階段の1段目に一人の筋肉質な体格の女の子が座っていたからだ。泥で汚れたアコギを抱いて。


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