第13話 本当のロック・バンド

 俺の隣りでソーヤは、蟻の巣に潜り込んだ夢でも見てるんじゃないかってほど存在感をなくしていた。しかしそんなふうに神妙でいるのは悪いことじゃない。姿勢も悪くない。それならマスターはおろかクマさんだって、黙って話を聞いてくれるだろう。

 よかったじゃねえか、と俺は思った。俺がここの常連で。

 じゃなかったらきっと、ソーヤは黙ってここの店名をバンド名にしちまっていたはずだ。そうしたらどうなってた? ソーヤは絶対にバンド名にコンプレックスを持ち続け、いざとなった時にでかい声でバンド名を言えなくなっていたに違いないのだ。でも俺が常連だからこういう交渉の場を持てる。そしてきっと、正々堂々とラフ・ブルーを名乗れる。ほんとーによかった。

 でも問題は今夜だ。俺が何回も聞かされてきた話を、4人でがっちり聞かされるのだ。ジーバは耐え切れるだろうか。奈美恵は寝ちまわないだろうか――丸くなって。

 4杯分のコーヒーがやっとサーバーに落ちた時、ジーバが顔の前のギターをポンローロンと鳴らした。俺のほうまで漂ってきたコーヒーの香りに目を細めつつ、聞いたことのあるフレーズだと思った。そうだ、ジミヘンだ、と気づいた。「風の中のマリー」の前奏だ。どうやら彼女もコーヒーが嫌いじゃないようだ。よかった。ほんとーによかった。

 ジーバが何を弾いたかわかったんだろう、マスターがほほぉって感じにほろ苦笑い顔になった。いつもより4倍うまいコーヒーを、俺はジーバには許した。

 まず奈美恵の前にカップは置かれた。それからジーバ、ソーヤ、俺。

「なんかチョー久しぶり」呟いたのは奈美恵だ。「コーヒーなんて……」

 両手でカップを持ち、ブラックのまま少し啜り、また啜り、そしてそのまま立て続けに啜りに啜って、奈美恵はついに一気に一杯のコーヒーを飲みきってしまった。よしよし、と俺は思った。あとはソーヤくん、キミだけだ。

 初来店の一人からはジミヘンのワンフレーズを引き出し、次の一人には一気に飲み切らせ、さぞやご機嫌なことだろうと思ってマスターを見たら、意外なぐらい無表情な顔がそこにあった。

 その顔はゆったり3人を眺めていた。確かにそこに見るべき情景はある。それを自分はしっかり見ている。でもその情景が自分とどう関わっているのかがわからない。その関わりの意味を知るべきなのかも、はっきりとはわかりかねる。そんな顔だ。その顔の表わしているものを言葉に変えれば――ただ単にぼんやりしてるわけじゃない、ってとこだ。

 時々この人はこんな顔をする。「俺は誰にも何も悟られやしねえぞ」という意志の元に鍛錬された表情だったらたいしたもんだが、どうもそこまで深いものとは思われない。ただの癖である可能性が最も高い。でもまあ確かなのは、この人は今、それほどご機嫌ではない、ってことだ。予想した通りの顔ってわけである。

 ジーバはなにげに想像できた通り、胸の前のギター越しに砂糖とミルクをたっぷり入れ、ふうふう息を吹きつけながらコーヒーをずるずる啜った。4倍うまいコーヒーというよりは、シジミのたっぷり入った味噌汁でも啜ってるみたいだ。そしてついにジーバも一気に飲み切ってしまった。まさか、と俺は思った。おかわりとか言うなよな。一人2杯ずつなんて飲まれたら……CD1枚分だっつの。

 二人に比べたらソーヤはごく当たり前な作法だった。ブラックでまずは少し啜り、ああ……と、美味いからなのか、ただあったかさにホッとしただけなのか、誰もが発するような小さな感嘆の声を漏らしてすぐにまた2口目を啜り、ソーサーにカップを静かに置いたのだった。

 こんなに普通で大人しい、俺から見たら少々臆病っぽく見えなくもないやつの、どこに「ドアーズはセカンドだ」なんていう偏屈さが収まっていて、どこからあんな扇情的な演奏が出てくるのか、と俺はまたちょっとばかり上から目線になった。

 でも、あの1時5分前に出会った日の1時間を思い出してみれば、こいつらは三人ともそうなのだ。こんなやつのどこからこんなものが、の3人なのだ。そんな人間的内容で見たら、俺なんてほんの見掛け倒し、ガメラどころかミドリガメだ。

 タバコに火をつけて俺も一口啜った。やっぱりいつもより少しうまい気がした。なんか、コクがある。濃いわけじゃないのに、味に密度を感じる。

「どんなバンドにするんだい」

 結城さんがいきなり口を開いた。当然だが目線はソーヤに向いていた。ソーヤはまるでその質問を予想してたかのようにほとんど間を置かずに答えた。

「本当のロック・バンドに。……もうほとんどなってますけど」

 あまりに真面目な顔でソーヤが答えたからだろう、結城さんはふっと笑った。そして「そうなんだ……」と短く言い、小さく頷きながらソーヤを見つめた。

「はい」ソーヤが面接官の前に座ったウサギのような顔で答えた。

 結城さんの視線がジーバ、奈美恵へと流れていく。そしてふっと俺のほうに戻ってくる。そしてまたソーヤを見つめた。始まるぞ、と俺は思った。あれが。

 奈美恵は大丈夫だろうか、と思う。あんな退屈な話が始まったら戻っちまわないだろうか。

「なるほどね」

「はい」

 結城さんはソーヤの短い返事に満足したかのように微笑むと、後ろを向いて棚の前にしゃがみこんだ。再び立ち上がるとペーパーフィルターがその手にある。さっきと同じ大きなフィルター紙だ。誰のためとも知れないコーヒーを淹れ始める。

 ソーヤがカップを持つ。数秒後、がちゃんとソーサーにカップは置かれる。あ、とソーヤが小さな声を発した。何あわててんだか、と思ってその手元を見たらコーヒーは飲み干されている。一気に飲み干したらしい。マスター、ここの味大人気です。俺はゆっくりハイライトの煙りを吐いて少しだけコーヒーを啜った。

 ベテランの黒子みたいに音もなく、夏子が俺たちの後ろに回り、俺以外の3人の空になったコーヒーカップを下げていった。戻ってくると浄瑠璃人形に着物を着せかけるようにコップの水を足す。

 マスターの口から出るはずのあの話は全然始まらない。始まりそうな気配がどんどん遠ざかっているようにも思える。

 新しいコーヒーが入った。そのコーヒーを俺以外の3人の前に差し出す時、マスターはそれぞれに一言ずつ声をかけ、そして一瞬だけ、けれどしっかりとそれぞれの目を見た。

「さっきよりちょっと薄めね」

 奈美恵はそう言われるとおどけたように首をすくめ、さっそくカップに手を伸ばした。今度はゆっくり時間をかけて熱い液体に息を吹きかけ、こっちが心配になるぐらい幸福そうに目を閉じた。まるで黒猫が、ふうっと大きくため息をついて目を閉じるように。

 奈美恵が目を閉じた時にはすでに、マスターはジーバに言っていた。

「そのギター、どこか後ろの席に置いたっていいんだぜ」

 この時マスターに向かってジーバが見せたものを、俺はもしかしたら一生忘れないかもしれない。なんとジーバは、頬っぺたを大きく横に膨らませ、マスターにニターッと笑ってみせたのだ。ご機嫌なガマガエル、という言葉が俺の頭にドカンと落ちてきた。

 言っちゃ悪いがかわいい分だけ気持ち悪い、そんな笑みを見せただけで、ジーバはしっかりアコギを抱いたまま、すぐにたっぷりの砂糖とミルクをコーヒーに入れ始め、マスターの提案は却下された形になった。

 ぶっ壊れた笑みを見せられたマスターはかわいい赤ん坊に笑いかけるように、ジーバに微笑み返した。さすがに21の俺とは違う。やっぱちょっとは大人なのだ。

 ソーヤは2杯目のコーヒーを差し出され、「いただきます」とマスターに頭を下げた。両手は膝に乗せられていた。

 マスターは、どうぞ、と声にならない呟きを返し、こっちに来ると、俺の前のまだ半分残っているコーヒーのカップを覗き込み、顎をつっけんどんにしゃくって無感情に俺を睨んだ。とっとと飲めってことだ。俺は無言で命令に従った。すぐに2杯目のコーヒーが目の前に出てきた。

 店にはぎこちないながらも、どこか豊かなものがゆったり詰まった空気であったまっていた。ふと俺は、ソーヤの口から「本当のロック・バンド」という言葉が出た時、この「面接」は終わったのかもしれない。

 が、そう思ったのも束の間、マスターがカウンターの中の低い椅子に座り、タバコに火をつけた。なぜかいつもと違うタバコだ。俺と同じ、ハイライト。濃いにおいの煙りを俺のほうにゆっくり吐き、結城さんはソーヤを見上げた。「で、本当のロック・バンドってのは、一体どんなバンドなんだろうな」

 怪しい雲行きになってきた、と俺は思った。と同時に思い出していた。この人は「本当のロック」なんて言葉を使う人間を信じないのだ。自分の好きなアーチストがいる、それだけのこったろ、というのがこの人のいつもの言い分だ。

 本当のロックなんてどこにもない、本当に好きなバンドがいるだけだ。そう言いながらこの人は、この店の壁に貼ってあるポスターの面々だけを「本当のロック」だと思っている。そこには明らかに何かねじくれたものが存在している。俺はそう感じている。そのねじくれをこの人は「本当のロックなんてどこにもない」とか笑い飛ばすことで自分の中に封じ込めている。

 はて、と俺は口を尖らせた。そうするべきはソーヤであって、俺は何も口なんて尖らせなくてもいいんだが、自然とそうなった。はたして結城さんは、この問いに正解を準備してるんだろうか。答えによっては決裂もありえるんだろうか。空気が真っ白に戻っていくのを、薄いベールのこっち側で眺めている自分を俺は感じ、口をすぼめてコーヒーを一口啜った。

 ソーヤは一瞬も口を尖らせたりせずに即答した。

「逃げないバンドですね」

 今度は結城さんが口を尖らせる番だった。

「逃げない、バンド?」

 結城さんは口をすぼませ、眉間にしわを寄せた。

 俺には目の前に現れた難しい顔の理由がわかるような気がした。

 ピンチでホームランバッターに出くわしたピッチャーでもあるまいし、ロック・バンドに逃げるも逃げないもありゃしない、もしかしたらポール・マッカートニーの『バンド・オン・ザ・ラン』が大嫌いだったりするのかもしれないが、つうかそれよりこいつ、一見まともそうに見えて実は、まともに相手にしちゃいけない人種なんじゃないのか?

 そんな疑惑的方向に、結城さんの頭はきっと向かっているのだ。

 でも絶対に、その思考はいずれ正しい方向に向きを変えるだろうと俺には予想できた。

 男女二人ずつのこの面がまえを見て、何も感じない結城さんとは思えないからだ。でもいつも結城さんは思った以上に方向変換に手間取る。今回もちょっと間に合わなかったようだ。

 ソーヤが説明を始めた。

「目の前の音から絶対に逃げない、目の前に投げ出された音に真正面から突っ込んでいく、そうやって睨むか微笑むか蹴飛ばすか抱き合うかしながら絶対に逃げない、そんな感じに音を紡いでいくバンド……一言で言えばこれ、です」

 そう言いながらソーヤは、右手の人差し指を上に向けた。

「ドアーズ……」

 短い呪文を唱えるように結城さんが呟く。

「はい」

 まるですべてを許された人のように自信たっぷりに、ソーヤは頷いた。

「マジかよ」

 結城さんが眉間にしわを寄せる。

「ずいぶん大きく出たもんだな」

 しかしすぐに、その顔は晴れた空の下の向日葵みたいにほころんだ。

「いや、何て言うか」

 ソーヤが首をひねり頭に手をやりながら言う。

「初期のドアーズは間違いなく本当のロック・バンドですから。一言で言えばってことで」

 深く煙りを吸い込んで吐き、灰皿でハイライトをもみ消すと結城さんは「で……」と言った。

「そのバンドの名前を『ラフ・ブルー』にしたいわけだ」

 はい……とソーヤが背筋を伸ばす。

「使わせてもらえたらと思ってます」

 うんうん、と結城さんは腕を組んだ。

「こりゃあ、断わったらオーナーに怒られそうだな」

 ソーヤが怪訝そうな顔になる。

「オーナーさん、ですか?」

 出てきた! と俺は思った。ここで止めておかないと面倒なことになる。慌てて俺は割って入った。

「オッケーってこと」

 急に口を挟んだらタバコにむせた。むせたままソーヤに大きく頷いてみせた。まじまじ俺を見てからソーヤはカウンターの中に向き直った。「そうなんですか?」

 ソーヤがそう言って見つめると、片目に力を込め、片眉を上げ、という面倒臭い顔をさらにしかめ、結城さんは何度も頷いた。

 ジーバのギターが鳴った。サスティン4を混じえたAを派手にかき鳴らす。「ライク・ア・ローリング・ストーン」だ。なんでいちいち、と俺は思う。なんでいちいちこいつは、BGMと違う曲を弾きたがるのか。



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