第12話 ドアーズの夜

 左側からのハイハットを多用したジャズ風のドラムで曲は始まり、ベース替わりのフットペダルが重なる。右からギターとオルガン、そして真ん中から、呪術師の呪文のようにジム・モリソンの声が響いてくる。「ブレーク・オン・スルー」のオープニングだ。

 ジムのヴォーカル以外、楽器の音はすべて左右に分けられている。モノラルから2段、3段上がった程度のステレオ録音技術ではこれが精一杯だったのだ。それぞれの楽器はかなり窮屈な空間でひしめき合っている。でもそんな未開発で窮屈な、不遇で劣悪な音環境こそが、実はドアーズには幸福な結果をもたらしていたりする。

 同じ時代の音楽でもジミ・ヘンドリクスになると「不遇で劣悪」はそのまま「不遇で劣悪」だ。何しろやたら弾きまくる男のギターが何本分も一度に聞こえてくるんだから、そのぐちゃぐちゃな世界ったらたまったもんじゃない。ジミヘンはきっとこう思っていたに違いない、といつも俺は思う。

 もっと! 宇宙まで突き抜けていくような音を!

 ジーザスにストレートに突き刺さるような音を!

 ジミヘンの音楽自体は特に、時代に対して早過ぎてなんかいなかった。録音技術が彼の体内の音に追いついていなかっただけだ。もしジミヘンの手元に21世紀の録音技術があったら、どんだけすごいものが出来ていたか、だ。そしてもしそうだったら、彼はまだ生きていたに違いないと俺は思う。


 ドアーズには1960年代後半の録音技術が――そこから立ち現れてくる、光と影がともなう音の世界が似合っている。それはジムが死んでしまって40年以上たった今でも変わっていない。彼らの生きた時代の録音技術こそが、彼らにとってはアラジンのランプだったのだ。

 でもそんな幸福なめぐり合わせも2枚目の『ストレンジ・デイズ』までだった。3枚目のアルバムの『太陽を待ちながら』あたりから録音技術の向上が音に現れ始め、4枚目の『ザ・ソフト・パレード』では広がりのある空間にすっかりきれいになった音が解き放たれ、そうなったら不思議なことに、彼らの世界にあった肝心の何かがどこかに去ってしまった。

 なんてふうに思ってるのは俺だけかもしれない。『太陽を待ちながら』にも「名もなき兵士」や「ファイヴ・トゥ・ワン」が入ってるし『ザ・ソフト・パレード』にだって「ウィッシュフル・シンフル」が入ってるし『モリソン・ホテル』にだって「ロードハウス・ブルース」が入ってるし『LAウーマン』にだって「ライダーズ・オン・ザ・ストーム」が入ってるって感じで、素晴らしい曲はこの他に何曲もそれぞれに収められている。でも俺の愛する「ドアーズの世界」はもうそこに再現されてはいない。ファーストの『ザ・ドアーズ』やセカンドの『ストレンジ・デイズ』のようにアルバム一枚を通して、ああドアーズだった、と思えるような、全部がすごいドアーズはいなくなってしまったのだ。


 だから俺はマスターにこう言って手を合わせたのだった。

「俺たちがいるあいだだけ、ドアーズのファーストとセカンドをかけてて欲しいんだ」

 奈美恵が俺と同じ意見の持主かどうかはわからない。でもやっぱり3枚目以降のアルバムはどうしても危険に思えた。だからソーヤから、土曜の夜でいいかな、と連絡が来た日の帰り、俺はラフ・ブルーに寄って、ドラマーがかなり偏屈な女なんだよね。だから……とマスターを拝んだのだった。

「かけてて欲しいって、ずっと繰り返しか?」

 俺は合わせた手をぴんと立てた。

「どうやら荒木ガメラくんとやらは俺の店を潰したいようだ」

 マスターはひねた声を出した。

「店の名前を取るだけじゃ事足りず」

 手を解いて顔を上げると、その顔は笑っていた。変に突っ込んだことを訊かれても困るから俺はまた手を合わせた。拝み倒しってやつだ。

「すぐ終わるからさ、たぶんセカンドの真ん中ぐらいまで済むと思うんだ」

 俺的には一言、「一人は黒猫なんだ」と言ってしまいたかった。でもそこまで何もかもをマスターに受け入れてもらうのも図々しい話だ。それで黒猫抑え込み作戦としてはドアーズを使うしかないと思ったのだった。一種の賭けではあるが、他に方策が見つからなかかった。まさかスネア持参で来させ、店で叩かせてるわけにもいかない。

「話の長短は俺が決めることじゃないかね」

 マスターは言った。

「あ、はい、そうでした」


 土曜の夜、雪でも降りだしてきそうな妙な静けさが街にベールをかけていた。あんな3人のことだから別々に現れるわけはないと思ったが、一応ソーヤ以外の2人のために店のほうに曲がる手前の角で、ポケットに手を突っ込んで待っていた。するとやっぱり街の中心部方面、アーケードのある方向から三人は並んで歩いてきた。ソーヤが前を歩き、そのあとに今夜は背中にアコギを背負ったジーバが続き、そのアコギをタカタカと叩きながら、奈美恵は完璧に人間だった。

「考えたね」

 俺はソーヤに言った。

「ジーバが邪魔臭がるかと思ったんだけど、そうでもないみたい」

「だからって背負いっぱなしってのもなあ。ちょっとは気にしないと」

 ジーバにそう言うとジーバはきょとんとしてこっちを見て、そして言った。

「あんた、ガメラ?」

 なんだよ、いきなりあらたまって、とは思ったがお互いに握手をして名乗り合ってるわけでもない。

「そうだよ」

 と俺は答えた。

「荒木ガメラ。あんたはジーバだよな」

「そうだよ」

「何やってんの、早く入ろうよ」

 いきなりジーバの後ろから声がした。

 奈美恵はずっと、ジーバの後ろで逆さになっているアコギを叩き続けていた。そういや、と俺は思った。猫はこたつで丸くなる、だ。早くあったかい場所に入れてやらないと。つうか絶対丸くなったりすんなよな。

 店に入るといきなりジム・モリソンの声が耳に飛び込んできた。「ファイヴ・トゥ・ワン」の歌いだしだった。俺一人だと「いらっしゃい」で終わるところを「いらっしゃいませ」とマスターは言い、夏子の声の同じ言葉がそれに続いた。


 今夜のコーヒーはいつもの四倍はうまいってわけだ。目の前で黙々と、でかいドリッパーでコーヒーを淹れているマスターを眺めながらそう思った。

 この大きいドリッパーで淹れるとなぜか一番うまいコーヒーが入るんだよな、と珍しく客がたて込んだ夜にこの人は言っていたのだ。米をたくさん炊くのと一緒なんだろうな、と俺が思いついたままを言ったらこの人の反応は「そんなもんかな」だった。

 そして俺はなるほどと思った。

 マスターの「なぜか」は、本当にきれいさっぱりの「なぜか」だったのだ。言葉の綾とかリズムでなにげに、さした意味もなく挟まれた「なぜか」なんかじゃ決してなくて、本当にこの人には不思議なのだ。どうして一番大きいドリッパーで淹れると一番うまいコーヒーになるんだろう、と途方にくれた人の顔でそう思っていて、それで「なぜかうまいのが入るんだよなあ」と言っちまっているのだ。喫茶店の店主のくせして。

 マスターは「そんなもんかな」のあとも、ひたすらでかいドリッパーでコーヒーを淹れ続け、一口ずつの味チェックをするたびに本当に不思議そうな顔で首を傾げ続けた。そんな顔してたら客に、うまく入らなかったのかなとか思われるだろ、とは思ったが、10才以上も年上の人間にそんなことを助言するのもどうかと思ってやめといた。そしてそのうち思い始めた。この人が正しいのかもしれない。米をたくさん炊くのとなんて一緒にせずに、なんでだろうと不思議がり続けるほうがもしかしたら正しいのかもしれない。

 そんな謎の旨さを秘めたコーヒーを初めての来店で飲めるのだ、こいつらは。そしてたぶんこいつらはそれを、まったく大したことだとも思わずに当り前の顔であっさり飲み干すのだ。さらにその中の一人は、そんなこともあんなことも知らずにバンド名をラフ・ブルーにしようとしていたのだ。誰にも断らずに。

 まったくとんでもない野郎だ。

 どうしてソーヤを年上の人間に見られないのか、あらためてその理由を確認した俺の前のあたりに、夏子が4組のカップとソーサー、スプーンを並べた。「ファイヴ・トゥ・ワン」が終わり、夏子はデッキのほうに向かう。あらかじめ用意してあったんだろう、『ザ・ドアーズ』のジャケットをマスターのほうに見せてマスターが黙って頷くと、夏子はそれをデッキにセットし、そしてジャズ風のドラムが聞こえてきたのだ。


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