第11話 夏子を見つけた場所

 2階から上はたぶんマンションになっているんであろうと思われる12階建てビルの1階に喫茶店ラフ・ブルーはある。

「たぶん」「思われる」には理由がある。

 まずこの建物にはベランダってのがない。外側がレンガ色のコンクリートと遮光ガラスだけで覆われていて、その縦のラインが上に行くにしたがってすぼまっているように見える。だから店の前まで来て、空を見上げるとなんとなく、グレーとレンガ色にカラーリングされたロケットを見上げてるような気分になる。でももちろんそれはロケットなんかじゃない。エレベーターホールに続く建物の入口には個人の苗字の書かれた12階分のポストがあって、やっぱり二階から上はマンションなのである。一体どんな国のどんな時代の感覚で設計されたマンションなんだろう、と俺は時々思うことがある。そういう建物なのだ。

 喫茶店ラフ・ブルーの入口近辺は打ちっ放しのコンクリートの壁になっている。開店の時にそこだけ新しくしたらしい。白っぽいグレーの壁に縦一メートル、横50センチってところの窓がある。その右に、ここだけ建物全体に合わせたと思しきレンガ色の重々しい木のドア、そのまた右、コンクリートに直接金属の板が埋め込んである。店の看板だ。シルバーの板に青い文字が刻まれている。


              coffee

             ROUGH BLUE

           open 10am close 10pm


 10ヶ月前、この看板を夏子は見つめていた。


 俺は生まれて初めて腰を落ち着けられるかと思った会社を自分から飛び出して、ただ歩いていた。

 ゴールデンウィークってやつが目の前に迫っていた。レストランやホテルにいた頃はまったく関係なかった、それどころか逆に絶対に休めなかった期間だ。他のバイトをやってる時だって、ただ単に「仕事が切れる期間」でしかなかった、そんな国民的大連休を、施設から出て初めて「楽しい期間」として過ごせそうだったところに「社長の奥さんの罠」は待っていて、国民的大連休直前のその朝、俺はただ歩いていたのだった。

 7連休だからといって別に特別な楽しみが待っているわけじゃなかった。予定と言ったら部屋でギターを弾くこと、書き溜めていた「詞のようなもの」に曲をつけていくこと、なんてぐらいだった。しかしそんな「いつもやってること」に、食べる物にも困らず、先の収入の心配もせずに七日間も没頭できるのだ。そんな晴がましい七日間が自分にも訪れるのかと思うと嘘みたいだったが、実際、嘘だったわけだ。

 ただ歩く俺に5月の乾いた陽射しはまっすぐ、雨あられのごとくバラバラと降り注いでいた。ジージャンは重く、それでも体の奥が冷えて、暑いのか寒いのかわからないまま、首の後ろをじっとり濡らしていた俺の世界に、その風景は忽然と現れたのだった。


 俺も初めて見るから、数メートル先の風景の中の彼女が見つめているシルバーの看板が小さなブティックのものなのか、パーマ屋のものなのか、その時はまだ知らなかった。

 膝を隠す長さのグレーのスカートにグレーの長袖のジャケット、そんな大学生の就職活動って感じのきっちりした服に身を包んでいるのに、彼女の額には一滴の汗もなかった。頬から首筋まで透き通るように真っ白で、火照ってる様子もない。まるで、心頭滅却すれば火もまた涼しって感じだ。

 そんな彼女が肩から下げたバッグも1ミリも揺らさず、目の前のものに何かの気を送り続けるが如く微動だにせず、ただひたすら看板を見つけ続けていた。

 火もまた涼しと言うよりは、と俺は思った。完全にイッちまってる。

「大丈夫?」

 それが自分の声だと気づいて俺は驚いた。なんでこの俺がこんなに自然に初対面の人間、しかも女性に声をかけてるんだろう。そこには何の気負いもなかった。どんな力みもなかった。ただ声がすっと出たのだ。何の迷いもなく彼女の左背後に歩み寄り、一切のためらいなく言葉は出ていた。

 直後、顔面に衝撃があった。一瞬、何が来たのかわからなかった。でもすぐに判明した。風景の中の彼女の左手が動いたのだ。バッグを下げた彼女の左腕がさっと回転し、俺の顔面中央に左裏拳を食らわせたのだ。痛かった。

「痛え……」

 俺は鼻を押さえた。

 俺に飛んできた左手をまたバッグの横に垂らし、彼女はまた風景の中に戻った。大丈夫じゃない、と俺は思った。こいつ、大丈夫じゃない。でも、こいつの大丈夫じゃなさはきっと、時が経てば治まる。それに比べて、こっちの大丈夫じゃなさときたら。

 完全に食らっちまった。

 この風景に最初に触れたその瞬間、俺は食らっていたのだった。彼女を中心とした風景全体から放たれる、静かな散弾を体全体に食らっちまっていたのだ。胸のど真ん中に開いたでかい穴から自然と最初の言葉は発せられ、音のない散弾に俺は自ら飛び込み、そして肉体的衝撃を受け、相手の非常事態を知ることになった。

 それがどんなことなのか、俺には完全にわかっていた。こんなことが道ばたに落ちてていいのか? ここまで完全な恋が。

 そんな風景に出くわしてから5秒もかかっていなかっただろう。風景には早くも、もう一つの顔が加わっていた。白シャツに胸当てつきの黒いエプロンを巻きつけた渋味二枚目のおっさんが、銀看板の横のレンガ色のドアから顔を出していたのだ。

「何だか知らないけど入って。ほら、とにかく中に」

 怒ったような顔でおっさんはこっちに向かってそう言った、その時だった。音なき散弾を発する彼女の体が揺れた。

 俺の反応は早かった。右に倒れようとしていた彼女の下にすぱっと、仰向けで倒れ込んで彼女の下敷きになったのだ。裏拳を受けたばかりの鼻っ柱に、彼女の頭がガツンと激突してきたが、まあ名誉のダブル・パンチってことで。


 マンションの3階の超二枚目おっさんの部屋まで、俺が彼女を背負って運んだ。この体のどこにこんな質量がつまっているんだろうってぐらい、倒れた彼女は重かった。エレベーターがなかったら二人で運ぶことになったに違いない。それじゃまるで拉致監禁だ。

「30分も見て何もなかったら大丈夫だろ」

 おっさんはそう言って部屋を出ていった。見ず知らずの人間に部屋をまかせて出ていっちまうなんて、相当に何もない部屋なんだな、なんてことを思ったのは一瞬だけだった。あとは三十分、しっかり彼女の顔を見つめていた。

 出会ってすぐに寝顔を30分。ありえない、と思いながら俺はその時間を微動だにせず味わった。

 どんだけ完璧な出会いなんだ。

 もちろんそんなのは俺の勝手な感慨でしかない。なんつっても目の前の人は、目覚めても何も覚えてないに違いないんだから。それにこの状況は普通かつ冷静に考えれば、誘拐や監禁に近い。でもまあ、と俺は思い直した。世の中に完璧なんてものはないのである。完璧なものほど、一見やばそうに見えたりするのだ。

 額に置いた濡れタオルを三回交換した頃、ベージュにもグレーにも見える壁にゴキブリみたいにへばりついた掛け時計を見たら十一時を少し過ぎていた。三十分たっている。これ以上ここにいたらあのおっさんに変に思われる。そう判断し、俺は最後に小声で数を数えながらもう一度、彼女の半開きになった口元と化粧っけのない長いまつげを見つめ、二十八になったところで立ち上がり、預かっていた鍵を小さなテーブルから拾い上げてドアに向かった。

 レンガ色のどっしりした木製ドアを開けると、渋味二枚目のおっさんはカウンターの中で雑誌を読んでいた。喫茶店だったんだ、と俺は思った。客は一人もいなかった。

 四方の真っ白な壁には1メートル弱の間を置きながら、カウンターの中には解散直前のビートルズ、結構最近のボブ・ディラン、何キロも先に明るい笑みを向けたボブ・マーリー、ドアから入って真正面にテーブルに肘をついて意味ありげにニタついているキース・リチャーズとユニオンジャックに包まれたザ・フー、カウンターの反対側に映画「ラストワルツ」のザ・バンド、バイクにまたがったジャニス・ジョプリン、横向きのジミ・ヘンドリクス……そんなポスターがポンポンと配置されていた。BGMはボブ・ディラン――あとから教えられたところによると「ブルーにこんがらがって」だった。

 一番奥のカウンター席に腰かけると、雑誌を後ろの棚に置いてこの店のマスターと思われる渋み満点のおっさんが立ち上がり、言った。

「名前は?」

「荒木ガメラ」

 この時ほど簡単に、自分の名前を口にしたのは生まれて初めてだった。何が俺をそんなに無防備にしたのか。

 理由はそれまで目に入っていなかったもう一枚のポスターにあった。名前を訊かれたその瞬間、ドアから入ってすぐには目に入らない場所、すなわちドアの裏側のポスターがずきんと目に飛び込んできたのだ。

 ブラックレザーの上下に、たぶんレイバンのサングラス。そのジム・モリソンはまっすぐ立って真横を見ていた。

 この時ほど盛大に笑われたのも、やっぱり生まれて初めてだった。

 そして俺はラフ・ブルーに通い始めた。

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