第9話 トムの教えてくれたもの
トムと俺は、そんなばあちゃんが仕切る青葉聖陵園で双子の兄弟同然に育った。
日陰育ちのごぼうみたいな細い体つきのトムが、なんで富岡岩男なんていう名前だったのか、それは永遠の謎だ。もしかしたらバスタオルに「いわお」と書かれてたのかもしれないし、見つかった時には岩みたいな顔をしていたのかもしれない。でもスタート地点がどこであれ、何がそこにあったにせよ、まったく似合ってない名前のかげに潜んでいた意外な「理由」はやがて、トム自身によって掘り起こされることになった。
俺たちは揃って中学に進学した。学校なんてものはどこだって同じで、小学校で俺に1しかよこさなかった音楽はやっぱ1以外よこさなかったし、トムは3より下にはならなかった。それ以外では俺とトムはほとんど2か3という五分の成績を保っていた。
そんなトムが中学生になって新たに、俺に絶対負けない教科を増やすことになった。英語だ。俺が辛うじて2にしがみつき続け、たまに3もあったこの教科で、トムは4と5を交互に取り続けることになったのだ。何がトムにそんな得意教科を与えたのか。
ロックだった。
リトルリーグから上がってきたやつらがでかい顔をしてる野球部にも、どこの中学にも勝てないサッカー部にも興味を抱けない俺たちは、授業が終わるとすぐに帰宅するのを日常にしていた。
当然、日曜なんて何もない。
そんな休日のほとんどを、俺は一人でサイクリングして回っていた。クマさんの自転車を無断借用して勝手にあっちこっち乗り回していたのだ。トムとなら並走してやってもよかったが、トムは自転車や10キロ先の海や山には全然興味を示さなかった。たまに近所の路地でキャッチボールぐらいはしたけれど、それも中学最初の夏休みが始まる頃にはほとんどしなくなっていた。
その頃にはもう、トムはすっかりラジオに夢中だったのだ。日曜ともなればずっと部屋にこもって、どこが面白いのか俺にはさっぱりわからないような雑誌を見ながらひたすらラジオを聞いているのだ。見ている雑誌は、同級生のお兄さんから借りてきたとかいう古い音楽雑誌だった。
ある日、どこから調達してきたのか、トムの机の下にラジカセなんてものが置かれているのに俺は気づいた。CDも聞けない、ただのラジオカセットだったが、そんな物を俺たちのこづかいで買えるわけがない。万が一買えたとしたも、その時は絶対にCDも聞けるのを買うってもんだ。
どこから持って来やがったんだ、あいつ。
しかしもちろん、この泥棒疑惑の証拠物件の存在は誰にも言わなかった。もとから俺はそんな性質じゃないのだ。人間同士のちくり合いなんてガメラとは無縁ってことだ。
そんなことが判明して半年もたった春休み、遠出が完全可能な晴天なのに自転車はクマさんが使っていた。いつまでたっても帰ってきやしない。ああ、とか言いながら、俺は部屋でその言葉の通り部屋でごろごろ転がっていた。そしてごろごろ、トムの机のそばまで転がると机の下のラジカセを引っ張り出した。
これがあるってことはあれだな、と俺はたぶんここだろう、と一番下の大きな引き出しを引っ張った。ここだ、ここだ、と俺は古い参考書やノートの下をまさぐった。
「まったく……」
トムのわかりやすさを笑いつつ、俺はそいつらをがさごそと引っ張り出した。出てきたカセットテープには福山、サザン、ドリカム等々、音楽に関心があるわけもない俺にさえ見なれた名前が、トムの筆跡とはまったく異なった文字で書きなぐられていた。
「こんなもんどっからギッてこれるんだよ……」
ぶつぶつ言いながら、俺は福山と書かれたカセットをラジカセに突っ込んだ。ラジカセの上にたごまっていたコードの長いイヤホンをまっすぐに伸ばして耳に入れ、PLAYボタンを押した。直後そいつは、俺に、まっすぐ飛び込んできた。
オルガンが勢いよく曲を引っ張っていた。オルガンの音は幼い頃から聞きなれている。その聞きなれた音色が伴奏という役割から解き放たれていた。完全に自由で、盛大に何かを祝福している。そんな祝福の音色がギターを従え、ドラムを引っ張って、やがて一人の男を迎え入れた。そいつは全然、福山なんとかなんかじゃなかった。
男は闇の向こうからかすかな、けれどまばゆい光をバックに現れて、優しく歌い始めた。優しい、でもやけに生々しい。獣じみてる。人間的な生々しさとは別種の、野性的な鋭さを男の歌は感じさせた。
繊細な野獣の彼も、力強いオルガン同様に何かを祝福していた。
カモンベイビライトマイファイア、カモンベイビライトマイファイア、と歌いながら。
生きてる、と俺は思った。
その時まで一度も感じたことのない、バカでかい穴が俺の前にあいていた。俺は生きてた。こんなに生きてた。
初めは断片的にしか聞こえてきていなかったギターの音も、よく聞けば一音一音が力強かった。命をジャンプさせていた。そして他の3人と一緒に祝福の形を整えていく。
なんなんだよ、こいつら、と思った。なんでこんなにでかい穴をあけやがるんだ?
どんなに泣いたって感じないであろう熱をまぶたと頬に感じた。
何かが自分の中で壊れていた。固い何かが崩れて、これまで大嫌いだった柔らかい何かを俺は許していた。
これがロックだ。これがロックってやつだったんだ。
なんか……やばい。
生まれて初めて聴いたロック――祝福の歌は、最後もまたオルガンで感動的に盛り上がり、パシッと潔く終わった。一瞬の静けさ。自分の鼻をすする音。そしてドアの閉まる音。
「知ってたの?」
トムが言った。
次の曲が始まり、耳の中がまたオルガンの音で一杯になり、直前に聞いたトムの声が空耳だったような気がした。次に始まった曲も、繊細な野獣がオルガン中心の演奏をバックに歌っている。
空耳じゃない。そんなことはわかっている。でも俺は振り向けない。涙で濡れた顔なんて見せられるわけがない。でも顔を覗き込まれるのはもっとご免だった。俺はトムの机の一角にあったティッシュの箱から何枚かまとめて抜き取ると、それで盛大に鼻をかんだ。両手で顔をぐるぐる何度も撫で回して涙を拭い、そこまでやってからやっとイヤホンを耳からはずして振り向いた。
「こんなの聞いてたのかよ」
俺の真っ赤な顔を見て、トムは怯えた。見ちゃいけないものを見たと思ってるのだ。でも声は強がっていた。
「悪いかよ」
今でも覚えてる。トムはかすれた声でそう言ったのだ。そしてぷっと吹き出した。俺が笑ったからだ。誰にも見せたことのないような顔で俺は笑っている。それが自分にもわかった。絵に書いたようなくしゃくしゃの笑顔ってやつだ。だからトムもつられて笑ったのだ。でなけりゃ俺の泣きはらした顔でトムが笑えるはずがないのである。なんで俺はこんなにあったかい気分になってんだ? と思いながら俺は言った。
「行きも帰りも俺がガードしてやってるよな」
また吹き出しそうになりながらトムが否定した。
「ガードって言うか、ただ一緒に登下校してるだけじゃん」
俺はちょっとだけ声を張った。
「俺や誰かが一緒じゃねえとすぐにつかまっちまって、やられちまうだろ」
「やられないよ」
「何度も助けてやっただろ」
「まあ、そうだね」
「なんでそんなお前が一人で、なんで一人でこんなの聞いてんだよ」
「だってほら、それ」
「ラジカセか……」
「拾ってきたやつだから」
なるほど。拾ってくるぐらいなら盗んでくる――俺がいつも言ってるホラのせいでこいつはこれを俺から隠していたのだ。実際には一度だって何かを盗んだりはしていない。
「ラジカセは腐らねえからいいんだよ」
俺は適当なことを言って、トムを見上げ、で? と訊いた。
「なんていうやつらなんだよ、これ」
トムの顔が俺と同じぐらいくしゃくしゃになった。
トムは机の引き出しを開けると一冊の雑誌をそこから出した。それは古い音楽雑誌で、表紙も中味も見たこともないほど紙が変色していた。これこれ、と言ってトムはすぐに、とあるページを開いて俺のほうへ向けた。
開いたページの右の上半分が写真になっていた。真っ黒な空間をバックにした四人の男の写真だった。一人だけが顔のアップで写真の左半分を占め、右側に小さく三人の男が並んでいた。
怪しげな表情をたたえた、顔だけの男を指さしてトムは、
「ヴォーカルのジム・モリソン」
と言った。それから右にいって
「キーボードのレイ・マンザレク、ドラムのジョン・デンズモア、ギターのロビー・クリーガー」
と指を下ろしていった。キーボードとギターの二人はジャケットにネクタイを締めていて、外人の真面目な大学生という雰囲気、ドラムは暗闇に顔だけが浮かんでいた。
「ザ・ドアーズ」
トムはそう言うと、そばにあった裏が白くなっているチラシを引き寄せ、机の上にあったペンで「the doors」と書いた。
扉……と胸の内で反芻した俺に、トムはなぜかちょっと口をとがらせ、目線を落として言った。「いつか……高校にいるあいだに絶対、ギター買ってやるんだ、バイトしてさ」
は? 思わず俺は眉間にしわを寄せた。ギターを買うだって?
何言ってんだよ、だ。いくらバイトしたって、そんな物が買えるわけない。つうか明らかにそれ以前の問題だ。
ギターなんてのはオンガクテキサイノーってのが人の何倍もある、いわばギタリストとなるように生まれついた、それにふさわしい手と指を持った人間のためにだけある物で、トムはオルガンも少しは弾けるぐらいでまあ確かにハーモニカも吹けない俺よりはずいぶんマシなんだろうが、でもやっぱり俺たちはどう考えてもオンガクテキサイノー的世界にいる人間とは思えない。
それにギターという物はきっと10万円以上はするはずで、もしバイトで10何万の金を貯められたとしても、そんな大金を、そんな苦労して貯めに貯めたいわば汗と涙の賜物を、ポンと、あっさりポンと、まともに使い切れるかどうかもわからない物――ギターとやらにつぎ込んでしまうなんて、それはあまりに無謀だ。
やめとけ。
トムの頭の中が全然理解できないでいる俺の胸の内も知らず、トムはこう言ってふっと笑った。
「バンドで稼いでさ、ばあちゃんに何か美味しい物を食べさせてやりたいんだ。一回でいいからさ」
トムの笑顔によく似たあったかいものが、この時、ふっと胸に灯るのを俺は感じた。その時がきっと、と俺は時々思い出す。その時がきっと、俺が初めて希望ってものがこの世界にあるのを知った瞬間だったのだ。
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