第7話 ROUGH BLUE
この店に初めて来た時――正確には初めてここの前を通りかかった時――俺は夏子と会った。それはこのへんじゃかなり有名な出来事だ。このへんってのは喫茶店ラフ・ブルーのカウンター近辺のことだ。
夏子は今、カウンターの中でカップを磨いている。あの日の次の日の夕方から磨いている。
あの出来事からもう10ヶ月も経ってる。30代のマスターにとっちゃ全然昨日みたいなものらしいが、俺にとってはほとんど永遠に近い。今の職場に、身も心も就職できたと言えるのもあの日だからってのも、深く関っている。
10ヶ月という地球の表と裏が引っくりがえったような時の流れのこっち側で、夏子はカウンターの中から時々こっちを見るだけだ。でも必ずその瞬間には微笑みがそこにあり、俺の胸の中には南国の風が吹き抜けていく風穴が開く。
いつだってすぐ行ける場所に夏子は暮らしている。いつでも来てと夏子も言う。だからこんな風穴にいたぶられ続ける必要なんて全然ないのだ、とわかっていても俺はその場に立ち続けている。なぜかは自分でもわからない。
コーヒーを淹れているマスターは、10ヶ月前のあの時俺に見せた顔をそのまま再現した顔で言った。
「ふざけんなよ」
気持ちはわかる。俺だってそう思ったんだから。
「だから……それは俺じゃなくてソーヤってやつだって言ってんだろ」
「なんでそんなやつとバンド組むんだ?」
「いや、そんなに悪いやつじゃないんだって。ただラフ・ブルーってバンド名にしたいってだけで」
「何回も言ったはずだよな、この名前は俺のいわば師匠って人からもらったもんだって。だからここの店名は、言っちまえば俺のものでさえないんだ。永遠に俺のものにさえならないかもしれない、そういう重くて意味深い、ありがてえ名前なんだぞ」
「それは100回聞いた」
「バカにしてんのか?」
「単なる事実。……夏子なんて1000回は聞いてんじゃない?」
マスターの後ろでカップとソーサーを用意している夏子に俺は声をかけた。1000回は……と夏子の口がほころんだところでマスターが睨んでくる。
「うちの店員をなんでキミは呼び捨てにするんだ? なんでだ? なんでキミが呼び捨てにできるんだ?」
マスターと俺のあいだにあるコーヒーサーバーに視線を向ける。
「ね、それ、もういいっしょ」
ん? とマスターは眉をひそめた。
「ああ……。なっちゃん、カップ……は来てたか」
夏子が5秒前に目の前に置いていたカップに、マスターはコーヒーを注ぎ入れる。こっちにちらちら目を向けて言う。
「俺のものでさえないってことはどういうことなのか、わかるか? ガメラくん」
「誰にも触れられない、神棚の世界のものなんだろ」
「棚じゃない。ワザだ。神業の範疇にあるもの、だ」
実際にこの話は、100回は大げさにしても何回も聞かされている。熱いコーヒーに口をつけながら、なんでそんなに何度も聞かされることになったんだろうと思う。それだけここに通ってるってことだ、とすぐに答えは出る。
この店に通う習慣がついてからきっちり3ヶ月後だから、夏子の部屋の鍵を貰った頃だ。やっと気が合いそうなドラマーと知り合い、そいつにベースとキーボードも見つけてもらって、久しぶりにバンド活動を始めていた。
ROUGH BLUE
初めてこの9つのスペルを見た時から、次にバンドを組む時は、そいつらがこの名前を気に入ってくれるならこれをバンド名にしたいと思っていた。しようと決めていた。それで俺は訊いたのだった。
「なんでラフ・ブルーなんすか?」
結城さんは答えなかった。
「そういう時はな、荒木ガメラくん」
クンって何、とは思ったが、「はい……」自分でも驚くぐらいの真面目さでカウンターの中の人を俺は見つめ返した。
「こちらのお名前の由来を、もしよかったら聞かせてもらえませんか、と訊くものなんだな」
「はあ……」
なんでこんな人にこんな名前が思いつけたんだろう、と俺には心底不思議に思えた。
「まあ、いいや。その人は俺に特効薬を教えてくれたんだ」
「その人……特効薬、すか」
「その人ってのは俺の師匠だ。採用条件に食事付きって書いてあったからってだけの理由でバイトに入った店のオーナーでさ、コーヒーの淹れ方はもちろん、店のやり方、従業員の扱い方、そして何より男のあり方ってのを教えてくれた人なんだよ。自分がとんでもない畜生に堕ちてる時、俺はその人に出会ったんだ。その人に出会えなかったら、そしてあんなふうに甘やかされなかったら、今ガメラともこうして会えてないだろうな。つまりこんな店を持つなんて絶対にありえなかったってことさ」
あまりにも暇な日、例えば週初めの夜なんかは夏子は早めに帰されたりすることがあるが、その真夏の夜も夏子はすでにアパートに帰っていた。
普段の俺だったら間違いなく、ここに夏子がいないのを確かめたら速攻アパートへ向かうところだった。でも自分のバンドが持てそうだという興奮が勝った。実際に音合わせをしてどうにかやれそうだとなった時にはバンド名を俺から提案したくて、その下準備として俺はその夜、夏子とのことは二の次にしてカウンターに腰を落ち着け、この話題を切り出したのだ。
話を聞き始めたら早くも、やっぱりな、の展開になったから俺はその夜、夏子の部屋に行くのを速攻あきらめた。夏子とのこともすべては俺自身の生き方が基本にあるはずで、その俺の明日あるべき姿をかなえるためにはこの人の人生に大いなる意味を持つ九つのアルファベットがどこから発生したのか、俺には聞いておく義務があるのだ。
「甘やかされたの」
「いや、そのあたり飛ばしてくれていい。ただの感傷だ」
結城さんのタバコはキャメルだ。こんな紙臭いだけの煙りのどこがいいんだとは思うが、黙ってにおいを嗅ぐ。
「店の名前を付けて欲しいってその人にある夜俺は頼んだんだ。オーナーは喜んで引き受けてくれた」
結城さんが微笑んで俺を見る。その人の話をするのが楽しいんだ、この人は、と思いながら、俺もタバコに火をつけた。キャメルの三十七倍はうまいタバコ――ハイライトに。
「それから2、3日オーナーは店に来なくてさ、人に頼んどいてって話だけど俺もなんとなく店の名前候補を、まあ遊びでさ考えたりもしてたんだけどな、もう店を閉めるって時間にふっとオーナーが来てカウンターに座ったんだ。今のガメラみたいにね、なんとなく言いたいことがあるようなふうを漂わせてね」
何あてずっぽう言ってんだよ、とは思ったが、ニタッと反応するにとどめた。
「夜の空のよ、雲がな……」
言って結城さんは俺の頭のあたりに視線を漂わせた。
「夜空の雲、ですか? って俺は聞き返したさ」
最初の言葉は師匠の言葉だったわけだ。なにげに俺は確認する。合いの手みたいなもんだ。
「ふっと店に来たお師匠さんがカウンターに座って結城さんを見上げた。で、夜の空のよ、と言ったわけだ」
「そうなんだ。夜の空のよ、雲がな、ってな」
「で、結城さんが、夜空の雲ですか……?」
結城さんはまた俺の頭のあたりを見つめる。そしてちょっとほんの少し首を傾げて言った。
「夜空の雲がな、俺の特効薬なんだ」
「夜空の雲が、特効薬……」
「お前もたまには空でも見ろ、夜のな……星じゃなくて雲だ。きっとお前にも効くと思うんだよな」
夜空の、星じゃなくて雲。ああ、と俺は思った。そして大きく頷いた。深い群青色の夜空、そこに雲が浮かんで青はまだらになって、粗い青。ラフなブルー。ROUGH BLUEだ。
「ガメラは答えを知ってるからなあ。俺はそこからまた一週間待たされたんだ。それが新しい、自分の店の名前の由来だって知らされるまでさ」
自分勝手なぐらい回りくどい話し方も、もしかしたら「師匠」の影響なのかもしれない。やけに緩んだ自分の顔の筋肉を感じながら俺はそう思った。でも案外、話は短かった。
その後、同じ話をこれほど何回も聞かされるとは思わなかった。誰でもそう思うのだ。この店の名前はなんか気になる。由来はどんななんだろう。
あのソーヤのバカ野郎も。
マスターのこの話を一回も聞いてない、どころかマスターのブレンドを飲んだことさえない、なのに「ROUGH BLUE」をバンド名にしようとしていたあのバカはぶっ殺されてしかるべきだと俺も思う。でもあくまでもぶっ殺されてしかるべきなのはあのステッカー好きのベーシストであって俺じゃない。
「もし、だ。もしだぞ。何かの間違いでそのバンドの名前が世に出たりしたらどうする、ガメラくん」
ほら、クンときた。夏子がカウンターの隅でふっと笑う。まるで3分で終わる兄弟喧嘩をそばで見てる母親みたいだ。
「それでもし、オーナーがそれを目にしたり耳にしたりしたら、ガメラくん、キミはどう責任をとるんだ? まさか自分で夜空を見てて思いついたなんて言い張ったりするつもりじゃあんめえな」
「どうしてもダメなのかな」
「そうは言ってないさ」
まったく面倒臭い。こっちのどんな言葉やその場のどんな空気がそうさせるのかは知らないが、この人は突然その心向きを変える時があるのだ。まるで風がふいに向きを変えるように。今はまさにその瞬間だった。もしかしたら俺が徹底して下手に出てるからかもしれない。
「他でもないガメラの頼みだからなあ、とは思うわけよ」
クンが取れた。
この人と俺のつきあいは喫茶店の店主と客というところからほんの少しはみ出してはいる。でも、多少個人的な色合いを含んでいるとはいえ、そのつきあいは十才以上年の離れた同士という関係だし、知り合ってからまだ一年もたっていない。なのにこの人はこんな口の利き方をする――他でもないガメラの、などと。
こんな言い方をされて気分が悪くなるわけがない。でも正直なところ俺にはさっぱりわからない。この人の一体何が、まだ知り合って1年もたっていない、10才以上年下の人間にこんな言い方をさせるのか。ほんの少し「穴」をのぞく感覚を覚えながら俺の口は動いた。
「最初の予定が半年先のジャズフェス。それまでこのバンドがもったらラフブルーで出させてもらいたいんだ。もたなかったらこの名前は絶対にあいつには使わせない。そう約束させる。そういうことでお願いできないかな」
動いた口が閉じるより先に、俺の両腕は膝に乗っていた。そのままカウンターの上で頭を下げた。
「一時間の練習がよっぽど楽しかったと見える」
「まあ、なんて言うか、楽しかっただけってか、全部これからだね」
「ともあれ、これからをどうにかしたいと思えるほど、楽しくはあった。だからこんなふうにわざわざ頭を下げに来てるんだろ?」
「どうかな」
結城さんの頬に笑みが浮かんで、消える気配をなくしている。俺は自分の言いたいことを考える。何かをどうにかしたいという観点で言えば、ラフ・ブルーという名前の無断借用を阻まなければならない、という目的で今日はここに来ている。でもそれはやつらとスタジオにいた一時間が楽しかったからじゃない。あくまで無断借用を阻止したいからだ。
なぜ阻止したいのか。ここに一度も来たこともない、マスターの顔さえ知らないやつにここの名前を使われたくないからだ。そこには、結城さんという人と俺との関係が大きく関わっている。
無断借用を阻止して、あとはどうしたいか。使いたいのだ。やつらと組むバンドの名前として。つうか早い話、自分のバンドの名前として。
つうことは、どういうことなのかと言えば、俺はやつらと当分は一緒に活動することを決心したってことだ。そんなことはとっくにわかっている。そう俺に決心させるぐらいにはあの一時間は魅力的だった。一言で言えば、楽しかった。
「一体何をそんなに悩んでんだよ、俺の店で」
結城さんはもう完全に、いつもの結城祐介さんに戻っている。ニタニタ笑いが顔に定着している。
「いいやつなんだな……」
気づけば俺は呟いていた。
「なんだよ、いきなり」
目の前のおっさんが反応する。
「それを言うなら『いい人』じゃないのか?」
違う、と思いながら俺は自分の思考に戻る。俺が言ったのはソーヤのことだった。荒木ガメラをこんな気分にさせるなんて、あいつはかなりいいやつなのだ。
今日わざわざここに頭を下げに来てる俺は、なんてこたない、ソーヤを無思慮なバカ野郎にさせたくない俺だ。俺はとっくに気づいてることを胸の中で確認する。そういう俺は、早い話、ソーヤを友達にしようとしている俺なのだ。無思慮で無遠慮でバカなだけの野郎には、俺はそんな感情は抱けない。でもソーヤは抱かせる。友達になったろうじゃねえかと、ソーヤは俺に思わせている。
やつのどんな点がどんなふうに作用してこんなことになるのかなんて、はっきりとはわからない。でももしソーヤがただの無思慮で無遠慮なバカ野郎だったら俺はこんなことにはならないのだ。
すなわち……ソーヤは名前無断借用未遂事件では無思慮で無遠慮なバカだった。でも、悪いやつじゃないのだ。いいやつなのだ。俺にこんなふうに作用するってことは、かなりいいやつなのだ。
で? と結城さんが俺を自分の目の前の世界に引き戻そうと声を発した。何かが解決したような妙にすっきりした気分で、俺はおっさんの顔を見た。
「いつ連れてくるんだ、そのお友だちは」
ああ、俺は結城さんの後ろのボブ・ディランのポスターを仰いだ。いつ連れて来れるだろう。一人で考えても答えられないことをじっと考えていたらマスターが言った。
「もしぶん殴りたくなるような、くだんねえやつだったら話はチャラだからな」
その点は大丈夫だ。俺は答えた。
「きっちり全員、そのうち連れてくる」
「そうしてもらおうか」
言われてから、あ、と思った。ドラマーはどうだろう。来れるのか。
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