第5話 黒猫の免許証
ナミエがラストのフレーズを、ジム・モリソンよりストレートに張った声で繰り返し、ジーバ7割、俺が3割ってところのギターソロが10分以上続いた「ブレーク・オン・スルー」はびしっと終わった。すぐにソーヤがベースを弾き始める。ナミエが単調なリズムのスネアを叩き出す。
何の曲かわからない。ジーバのアコギがギャンギャンと入った。
「グローリア」――ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス版の「グローリア」だった。
ジーバがぼそぼそと歌い始める。とても人に聞かせられたもんじゃない。でもともかくこれは彼女の持ち歌なんだろう。
俺の目は気がつけばナミエを見ていた。ドラムを叩き続ける彼女は、リズムを完璧にキープする優秀なドラマー以外のどんな姿も見せない。でも俺の中では、絶対に「その瞬間」を見逃すまいとする気持ちがふくらみ、彼女のほうを見る秒数は徐々に伸びていく。
ジーバが間をあけた瞬間に滑り込ませる俺のギターのフレージングが、ただ指を動かしてるだけになっていた。そんな俺の出す音に苛つきでもしたのか、ジーバが急に叫び声を発した。
「グローーーリア!」
ベースを弾きながらソーヤも、ドラムを叩きながらナミエも声を張り上げた。
「グローーーリア!」
そのまま無茶苦茶なエンディングになだれこんでいく。シンバルとスネアとタム――自分を取り囲むすべてを叩ききるナミエの炸裂の連打。それに合わせて俺とジーバが大きなストロークを振り落とす。ソーヤはエントウィッスル張りのアルペジオ風のリード・ベースでからみつく。そんなふうにジミヘン版「グローリア」は大団円を迎えた。
自分たちだけで聴いてるのが実にもったいない「グローリア」……自分がやってることにもったいなさを感じるなんてどんだけぶりだろう。最初のバンドで初めて、最後まで間違わずに演奏し切った時以来かもしれない。
静寂がスタジオ全体を包んだ。みっしりした熱い満足感が狭いスタジオに充満している。誰も口を利かないからわかる。そう感じてるのは俺だけじゃない。
ナミエが金具をカチャカチャ言わせてスネアを締め直す。ジーバは合わせてるんだか、ずらしてるんだかわからない奇妙なチューニングを速攻ですませると、目の前にアコギを立てて抱く。なるほど、と俺は思った。この二曲だけはあらかじめ決めていた二曲なのだ。俺がどの程度弾けるかを見るための。もしかしたらソーヤが。もしかしたらソーヤとナミエが。もしかしたらジーバも入れて三人で。はてさて……俺はこのオーディションに合格したんだろうか。
「ガメラ、実はね」
ソーヤがマイクのそばで言った。ほれきた、結果発表だ。
マイクから少し離れてソーヤが俺を見る。
猫のせいでナミエに気を取られてたからもしかしたらここまで――失格かもな。それならそれでしょうがない、と思った俺にソーヤは言った。
「奈美恵が猫に見えたんだよね? 黒い猫に」
一辺5メートルの、ほぼ正方形の部屋の中にドラムセット、ベースアンプ1台、ギターアンプ2台、それに俺たちは使っていないが、薄っぺらな電子オルガンが置いてあり、その隙間を埋めるように俺とソーヤはストラップで肩からギターとベースを提げて立ち、ジーバはパイプ椅子に座っている。
ドアを開けてすぐにパイプ椅子、そしてギターアンプが並んでいて、その先、左回りにドラムセットが置かれていて、次がベースアンプ、またドアの近くに戻ってきてキーボードがある。
つまり俺の左にはジーバ、右にはナミエがいて、真正面にソーヤは立っていた。笑わずにソーヤは俺に向かって確認の短い言葉を発した。
「そうなんだよね?」
俺はソーヤを見つめた。それしかできなかった。頷いたらバカだ。そうとしか思えなかった。
ソーヤの頬がゆるむ。変な笑みだ。なんでこいつはこんなふうに笑うんだろう。これは一体何のオーディションだったんだろう。ソーヤがふいに視線を外す。そして視線の先のナミエにソーヤは言った。
「奈美恵が自分から言う?」
ナミエは口をへの字にひん曲げ、うーん、と唸った。それから指にスティックを挟んだ手の平をソーヤに向け、頭をうなだれるように下げた。ソーヤがまた俺を見る。
「本人が言うには気が緩んでる時? 俺たちからしたらドラムを叩いてない時や音楽以外のことを考えてる時、奈美恵は猫に戻っちまうんだ」
午前1時7分前に俺は自転車でここまで来た。そして公園の銀杏に寄りかかってタバコを吸い、そしたら1時5分前――ファイヴ・トゥ・ワンにこの男は現れた。
初対面のその男はソーヤという名前で、先週の水曜の夕方に俺が見習いとして通っている設計事務所に電話をかけてきて「弾薬庫で午前1時5分前に」と待ち合わせ場所と細かい日時を告げ、だから俺たちは暗闇の中で初めてお互いの姿を確かめ合ったのだ。
「弾薬庫」の建物の重いドアを開けると真っ赤なベンチが置いてあり、そこに一人の、オリンピック柔道代表みたいな女がアコースティック・ギターを縦に抱えて座っていた。彼女の隣りには、本来でかい音が鳴っている場所が苦手なはずの生き物が寝そべっていた。黒い猫だ。そいつがこいつだったのだ。ナミエという名前の女ドラマーだったのだ。ドラマーでいようとする気持ちを緩めちまうと真っ黒な猫に戻っちまう、実は人間だったんです……。
という事態を現実として受け入れろとソーヤは言っているようだ。
確かに、と俺は思う。この目で見たものは現実だ。現実は受け入れるしかない。生まれ落ちた時からそれは叩き込まれている。でも本当に受け入れていいんだろうか。
「戻っちまうって、ゴヘーない?」
ナミエがソーヤに言う。ちょっと笑っている。
「だって猫の時間のほうが圧倒的に長いからさぁ。で、何て言うか……」
俺のほうを見る。
「気にするなとは言えない。なにしろこれは現実だしね。でもどうかな」
一瞬黙ってソーヤは俺を見つめた。何だよ、と俺は思った。この説教っぽいムード。真面目な顔でソーヤは言う。
「はっきり言ってガメラって本名で生きてるってすごいことじゃない?」
「別にすごかないよ」
嘘じゃない。俺にとっては何ともないことだ。他の誰かなら耐えられなかっただろうが。
しかし今ソーヤが語ろうとしてるのは俺のことじゃない。ナミエの話をしてるのだ。
ソーヤはすぐに続けた。
「すごいことだよ。いろんな意味で。それにジーバ。ジーバはアコギしか弾けないんだ」
ああ……と俺は納得した。
だからテレキャスは持たせられないってわけか。
「でもこの通り、アコギでならどんなギタリストにも負けない」
確かに、今日の俺は完敗だ。
「俺は弾こうと思えばアコギもエレキも弾ける。名前だってガメラには負ける。でも本気でドアーズのファーストより『ストレンジ・デイズ』のほうがいいとしか思えない、そういう人間で……ということと同じだと思うんだよね」
ナミエが苦笑いしながら呟く。
「その理屈……無理かも」
いや、と俺は思う。そうでもない。
自分の名前がどんだけすごいかは、物心ついた頃から叩き込まれている。これ以外に俺には名前はないんだ、これこそが本当に本名なんだってことを一人の人間に認めさせるのはいちいち面倒臭かった。
アコギだとあんなに弾けるのにエレキは弾けないなんて普通はありえない。
ドアーズのファーストよりセカンドがいいなんてのも、まともな聴覚ではありえない話だ。
つまりこの男――ソーヤはこう言いたいわけだ。
それぞれに大変だけど、それぞれにありえる話だし、それぞれに頑張ってどうにかしてるんだ、と。
奈美恵のこの状態もそんなようなものなんだ、と。
この理屈に、無理はない。
俺は自分がどうしてソーヤに誘われたかを知ったような気がした。いろいろ苦労の多い本名を持つ俺、極めて不自然なアコギを抱いたジミヘンのジーバ、猫とドラマーを行ったり来たりする奈美恵、そしてそんな3人を、ドアーズはファーストよりセカンドなんて嗜好のソーヤが、ドアーズにはいなかったベーシストになってバンドとしてまとめようとしている。
俺はソーヤを見つめた。そして大きく頷き、ちょっとだけ笑って見せてやった。帰ってきたかすかな笑みにはたっぷり、わかってもらえてうれしいよって気分がこもっているように見えた。証拠にソーヤはそれをそのまま言葉にはしなかった。口から出てきたのはどうでもいいような具体的なことだった。
「ちなみに奈美恵は車の免許も持ってる。それが本当に人間だっていう、というか人間としてずっと生きてきたんだって証拠……かな」
ナミエが俺に向けてパス入れをかざす。荒木ガメラくんの持っていない「人間の証拠」――自動車運転免許証が見えた。
人間としての証拠なんてあのドラムと歌だけで充分だった。問題は猫のほうだ。でも自分じゃ持ってなくて、しかと本物を見たことのないモノ、しかも持っていると「人間の証拠」として非常に重宝する目の前のモノに俺の好奇心はそそられた。まじまじ見入る。
相馬奈美恵――ソーマナミエ。アラキガメラよりもすっきりした名前だ。珍しい。平成2年12月8日生まれ。2、3コ上だと思ってたが、それどころじゃない。
写真は目の前の人物とかなり違っている。
まず髪型が違う。目の前で免許をかざしてる相馬奈美恵さんの髪の毛は肩のあたりまで伸びた枯れ草。写真の女性は襟より上で髪を切り揃えている。
現住所は、仙台市宮城野区……。
好奇心のまま読み進めていたら、真ん中に金色の線が入ったカードがふいに引っ込んだ。
「でもやばいんだよねえ」
ソーマナミエがジーパンの尻ポケットにパスケースを押し込みながら言う。
「もうすぐ5年なんだよねえ」
5年ってのは確か免許の有効期間だ。
なるほど。やっぱり問題は猫だ。何よりもそこが問題なのだ。
どんなふうに気を引き締めていたら人間でいられるのか、そのへんのコツみたいなものがわかっていればなんてこともないんだろうが、こうして困ってるってことはコツなんてないってことだ。わかるのはドラムを叩いてる時は大丈夫、それに音楽のことを考えてる時も大丈夫なようだが、それだけだとやっぱり免許の更新なんて絶対に無理なんだろう、とか思ってたら出た。真っ黒な猫だ。これがあのソーマナミエなのか……ついまじまじ見つめちまう。
丸いドラム椅子の上で黒猫は丸くなっている。上目遣いにこっちを見る。それから視線を前に向け、前足を胸の前で揃え内側に引っ込めた。こりゃ大変だ、と俺はじっと黒猫を睨んだ。お前が悪いわけじゃないんだろうが。
つうか。
なんでお前はそんなふうにソーマナミエの人生にからんじまったんだ? いや、もしかしたらこいつはソーマナミエの内側から現れた猫だったりするのかもしれない。よくわからないが。
「よかった」
ソーヤが言った。
「え?」
なんのこっちゃ? ソーヤをぽかんと見た。
トン! とスネアの音がした。もちろん奈美恵の鳴らした音だ。
「かなり馴染んでもらえたみたいでさ」
ソーヤが微笑む。
確かに、だ。なんだかものすごい早さで、俺はソーマナミエの現実になじんでしまっている。そんな気がしないでもない。
「だからさ……」
ソーヤがボーンとベースを鳴らした。弦を少し締める。
「俺たちはバンドを組んでなくちゃならないんだ。奈美恵ができるだけ長い時間ドラムを叩いてられるように」
悪いやつじゃないからさ――ソーマナミエの言葉が頭の奥からよみがえった。
「まさかそのためだけじゃないよね」ソーマナミエがそう言いながら、スローなリズムを刻みだした。
「まさか」
ナミエのリズムに合わせてソーヤがベースを入れていく。AとGの繰り返し――「ファイヴ・トゥ・ワン」だ。
奈美恵が歌い始めた。
1時5分前だ、ベイビー、五人に一人。誰も生きてるやつの姿はない。あんたはあんたの、俺は俺のを手に入れる――俺にはほとんど意味不明な歌詞を奈美恵は、ジム・モリソンが歌ったよりもどこか高いところに抜けていくような声で歌う。
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