第4話 からっぽで深い穴
生きてたんだ――
小学校1年のある朝、この言葉を生まれて初めて胸の内側から聞いた。
俺は、か細い体一つ通れないほど視界すべてを閉ざして燃え盛る炎のこちら側で、泣き喚きながらばあちゃんを呼び続けていた。
炎に包まれているのは、施設の物置かのようでも、小学校の音楽室かのようでも、行ったことも見たこともない廃墟かのようでもあった。
はっきりどこと決められないあいまいな部屋――そのあちこちからバキバキと、建物が悲鳴を上げる音が響いていた。
ガメラ助けて! ガメラ助けて!
部屋のどこかで誰かが俺の名前を叫んでいた。
いや違う。すぐにわかった。あの声は映画会のスクリーンで見た本物のガメラを呼んでるんだ。
何言ってんだよ、だ。
本当のガメラなんか来たらこんな部屋あっという間にぺしゃんこだろ!
そんな大声で呼んで本当に来ちゃったらどうすんだよ!
真っ赤な炎の向こう側、窓の外には明るくて真っ青な空が広がっていた。10歩も歩かずに行ける距離だ。まっすぐ行けたらあっという間に明るい平和な空間に出られる。でも右に動けば意地悪い木の枝のように炎が伸びてくる。左に動けば素早い鳩の群れように火の粉が飛んでくる。
ぼくが本当のガメラだったらこんなのには負けないのに!
楽々みんなを助けてあそこに出られるのに!
あぁぁ、ぼくが本当にガメラだったら!
焦れば焦っただけ俺のばあちゃんを呼ぶ声はどんどん大きくなっていった。そして自分の声で目が覚めた。
ばあちゃんの顔が目の前にあった。
ばあちゃんの顔に自分の頭をぶつけながら両腕で、俺はばあちゃんにしがみついた。ばあちゃんは布団の中の俺をすくい上げて抱きしめてくれた。
まるで赤ん坊だ。でも恥ずかしくなんかない。恥ずかしさなんて感じさせないぐらいの大きな力が、俺をばあちゃんに抱きつかせていた。
全然かまわないんだ。どんだけ甘えたって泣いたっていいんだ。なんでってぼくはここで生きてるんだから。ぽつんと、ぽっかりとただ生きてるだけなんだから。
ばあちゃんがいてくれる。あんちゃんやねえちゃんたち、ウタスケ、ユキ、トム、クマさんもいる。誰も誰かのものじゃない。みんなぽっかりと、ただぽっかりと、これまで生きてきたんだ。そして今、生きてるんだ。
穴みたいだ。
しっかり俺を抱きしめている、そのばあちゃんの腕の輪が穴みたいだ。
今、この時が穴みたいだ。
ぼくも穴みたいだ。
からっぽで深い穴だ。
同じ部屋で寝ていたトムがびっくりしたように俺を見ていた。いつも自分をいじめてばかりの俺がまるで赤ん坊みたいに、ばあちゃんにぽんぽん背中を叩いてもらっているからだ。初めは見ちゃいけないものを見ちゃったとでも思ったんだろう、開いた目をすぐに閉じたトムだったけれど、俺がずっとその顔を見てるのに観念して目を開いた。そしてぽかんと俺を見つめた。俺が笑っていたからだ。
普段絶対に見せない、見せるわけがない甘ったれた姿でばあちゃんの肩越しに涙でぐしゃぐしゃな顔のまま、なぜか俺が笑っていたからだ。
トムも穴だ。
きっとばあちゃんも穴だ。
それぞれがそれぞれに、どことも何ともつながっていない、清々しいぐらいにからっぽな穴なんだ。
あ、生きてた、と気づかされた時、俺は必ず穴を感じている。穴としての俺の中でしっかり目は開かれていて、まっすぐな穴の自分を見つめている。どんな言葉でもごまかしようのない、説明のしようもない、ただの穴を見てる。
かなりあとになってから「茫洋」という言葉があるのを知り、この穴を感じている時の感覚をその言葉から受けるイメージと重ねるようになった。その言葉には穴に結びつく意味なんて一個もなかったけれど。
ソーヤも穴だ。
ドアーズの最高傑作はファースト・アルバムだと認めておきながら「自分の右半分は『ストレンジ・デイズ』でできてる」などと言い張るソーヤもかなりな穴だ。
ソーヤがジーバに歩み寄る。手には生ギター用のピックアップを持っている。使った経験もこれから使う予定もまったくないから手に取って見たこともないんだが、たぶんあれはそうだ。
ジーバはスタジオに入ってからも、ギターアンプの前にパイプ椅子を見つけてそこにまたアコギを抱いて座っていた。ソーヤがその前に膝まづいて音取り装置を装着する、その様子を見ながら俺は、なんて面倒臭いことしてやがるんだろう、と思った。何も俺に一言言ってくれればよかったのだ。ギター持参で来てくれ、と。そしたらこのテレキャスを彼女に使わせられたのに。
ソーヤのギターケースから出てきたのは真っ白いテレキャスターだった。ギターケースのポケットには2個のエフェクター――ディストーションとデジタルイコライザー、それに2本のシールドが入っていた。一目見て、俺はそれらをギターケースに戻した。
ソーヤのベースは白のジャズベースだった。と言っても前面から背面までストーンズのベロマーク やらノーニュークスのピースマークやらヴェルヴェット・アンダーグラウンドのバナナやら鏡に向かって銃を向けるデニーロやらジム・モリソンやジミヘンの顔にサイケにカラーリングしたものやら、とにかく雑多な種類のシールが貼りめぐらせてある代物で、すぐにそれが白だと判別できたのが不思議なぐらいなのだが、ジャズベースと言えば白と勝手に決めつけてたから即座に白だと判別できたのかもしれなかった。
ドラムの音が鳴った。その直前に一瞬、さっき真っ赤なベンチの上で寝ていた真っ黒な猫が目の前を横切ったような気がした。そいつが俺の目の前を横切ってドラムのほうに向かい、すっと立ち上がってナミエになり、ドラムを叩き始めた。そんなふうに見えたのだ。
がっちり固まった俺の視線にも気づかずに平然と、ナミエはドラムを叩き出した。ジャズっぽいリズム――ドアーズ・ファーストの1曲目「ブレーク・オン・スルー」のイントロだ。すぐにソーヤが、レイ・マンザレクがフットペダルで入れていたベース音を入れていく。どこか変な空間に紛れ込んだ俺を置き去りに、ナミエが歌いだした。俺はあわててソーヤのベースにユニゾンしてバックパートを弾き始めた。このバンド、ナミエがボーカルなのか。それにしてもさっきのあれは。
ギャワワワワーーーー!!
何が起きたのかわからなかった。耳がほんの一瞬だがまったく聞こえなくなり、目の前がうそみたいに真っ白になった。
正体はジーバの発したハウリングだった。ジーバのアンプの殺人的なハウリングが俺たちを襲ったのだ。ソーヤがあわててアンプのボリュームを絞りに走った。
なるほど……好きに弾いてかまわないのは俺だけじゃないってことだ。
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