第2話 愛と平和の弾薬庫
満月が闇空にあると、もしかしたら誰でもそうなのかもしれないが、不思議なくらい気分が軽くなる。大きな息が無意識に漏れてくる。そして無性に、あたりかまわず吠えたくなる。わんころでもないのに。狼でもないのに。でももちろんそんなことはできやしないから、ただただニヤついてるだけ、という男がそこに現れることになる。
星なんていっこも浮かんでなくていい。まだらな雲が浮かんでるぐらいがちょうどいい。海の上、陸地さえ見えない海のど真ん中で満月と二人きりなんて最高だと思う。
自転車をこいでいる時はいつも、こんなことばっか考えて、そんで時おりニタニタしてたりする。
俺はこいつ――自転車以外に、午前1時5分前に弾薬庫に向かうための移動手段を持たない。車なんてもちろん、免許だって持ってないし、タクシーに乗る金なんてのも一円も持ち合わせちゃいない。
俺みたいな親も学もない人間が、タクシーに乗る金はともかく、車の免許ひとつ持ってないってことがこの世の中を生きていく上でちょっとばかり不利だと知ったのは最初の仕事をやめた直後、求人雑誌ってのを生まれて初めて立ち読みした時だった。なんともいちいち「要普免」と書いてあることか。
それから何度かアルバイトを変えるごとに、自動車免許の必要性は俺の中でどんどんでかくなっていった。「少々不利」が「多少不利」に、そして「けっこう不利」になり、最終的には「完全に不利」になった。
しかし免許だのなんだのの問題を無視して「一日も早く自分の場所を確立するんだ」のテーマをぶち上げて施設を出る道を選んだのは他ならぬ俺だ。
自分の場所を確立する、ということが具体的にどんな状態を指すのか、実はいまだに全然わかっていない。テーマはテーマとして俺の頭のど真ん中にしっかりあったものの、それは実のところ「掲げられたテーマ」に過ぎなかった。実際のところはただ単に「もう先輩後輩――くだらない上下関係にはウンザリ」ってのが本音だったのである。
すなわち、「一日も早く自分の場所を確立する」ってのは、俺自身にとっては、「どんな先輩よりも先を行ってやる」ということとイコールだったのだ。だから高校は選択肢になかったのだ。
というわけで俺の移動手段は自転車以外にはありえないのである。もしかしたらいつか車を運転できる人間になるかもしれないが、別にそんなのは一番最後でいい。そう思っている。それまではこの「間違いなく俺が出してるスピード」に乗っかっていく。これ以外の乗り物は一切必要ない。
てなことはともかく……俺の名前をばっちり知ってて、おそらくどの程度ギターが弾けるかもわかってると思われるソーヤくんとやらは、一体誰から俺のことを聞いたのやら、である。
マスターにも教えてやりたいような、ざらざらの夜空を見上げながら俺はまたニヤけちまう。仕事場の電話番号まで知れ渡ってるなんて、俺はどんだけ有名になってるんだっつーの。
いやいやいや、わかってる。俺のギターなんて、はい、高が知れてます。自分がどんなギターを弾きたいのか、どんなバンドで弾きたいのか、そんなことがちっとばっかわかってきた程度だ。すなわち、テレキャス弾きの、やっとスタートラインに立ったってところだ。
でも、と俺は真面目に思う。だからだ。だから、あれは来たのだ。
久しぶりの「あ、生きてる」。
こんな、いわゆる自分的にスタートラインには立てたかな、と思えるところにきて、しかしバンドは持てていない。ところにソーヤくんとやらからの電話が来た。で、好きに弾いてくれてかまわないとか言いやがった。で、俺は再確認の瞬間を迎えることができたってわけだ。そしてこうして俺は、とにもかくにも到着した。
目の前のドアにはタテ10センチぐらいの金属製の型抜き文字が「STUDIO」と6個並んでいて、その下に縦25センチぐらい、横50センチ弱の分厚い木製プレートが貼りつけてある。
ここの正式なスタジオ名が書かれてあったと思われるその板には、型抜き文字にもしっかりかかる形でバカでかい真ん丸な向日葵が描かれている。真夏の太陽の下ででっかく咲く、あの真っ黄色の向日葵だ。そして真ん中には横書きに、赤い線で縁どりされたシルバーの文字が並んでいる。
愛と平和の弾薬庫
直径50センチの向日葵の下にどんな文字が埋もれちまってるのか、つまり、ここが本当は何て名前のSTUDIOだったのか、それは誰も知らない。スタジオのお兄さんでさえ、予約の電話をかけると「はい、だんやっこ」なんだから。
重々しい防音性のドアの脇に、100円ショップで見かけるような真四角で小っぽけな時計が、少し右に傾いてくっついている。
午前1時7分前。約束の時間の2分前だ。時計も、ましてや携帯電話も持ってない俺が約束の時間の2分前に到着――なんか知らないが苦笑いが漏れた。
どんだけこの約束がうれしいんだ? 俺は。
ところが約束の相手はまだ来てないときたもんだ。
ちょっとばかり自分のはしゃぎように不安になる。
いいんだろうか? のっけからこんなんで。
とりあえず。
俺はチャリと一緒に向日葵に背を向けて道を横切り、アスファルトを一段上がり、車道から歩道に、歩道からさらに公園の敷地に上がった。
チャリにチェーンを回し、銀杏の木に寄りかからせる。
俺も自転車の隣りにしゃがんで寄りかかった。弾薬庫のドアのほうを見ながらハイライトを引っ張り出し、100円ライターで火をつける。
ハイライトの煙を吐く。
生きてる、と思う。
ふと、まさかすでに中に? と思う。ソーヤとやら、とっくに来ててスタジオの中にいるのかもしれない。つうか「弾薬庫で」と言ったんだからそう考えるのが自然なのかもしれない。まあ、いい。この一服が済んでからで。
しかし敵はやっぱまだ中になって入ってなかったようだ。
なにげに足音が聞こえてきたのだ。足音は走っている。その音のほうを見ると、ギターを2本、背中で揺らして走ってくる男がいた。
「間に合った!」
そう言って男は弾薬庫のドアに手を突き、俺のほうを見た。
「荒木くんだよね」
俺を「くん」付けで呼んだ男を指差しながら俺は、
「ソーヤ……」
と言った。
ソーヤくん? と言おうとしたんだが、なぜか「くん」がすんなり口から出てこなかった。
俺をくんづけで呼んだ男は、そうそうと大きく頷いて向日葵のドアを開けた。真っ白い光が車道にふわっとこぼれ出てきた。やっぱ……スタジオ、予約してやがったんだ。
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