1時5分前の弾薬庫
いずみさわ典易
第1話 生存確認のブレーク
あ、生きてた。
いつだろうがどこだろうが、男だろうが女だろうが狼だろうがクジラだろうが、飼い犬だろうが野良猫だろうがカゴの鳥だろうが、水槽の熱帯魚だろうが屋根裏のクモだろうが何だってよかったが、とりあえずは人間だった。日本人。ギターを弾いてるのが好きで、スタジオって空間にいられればとりあえずは満足で、ステージの上以上に幸福な場所を知らない21才の男――てな状態で、気がつけば俺は生きている。
気がつけばとか言っても、別に普段は記憶を失ってるとか、時おり意識を失いがちだとかいうんではない。ただ単に――あ、生きてた、うん、生きてる――てな言葉がぴったりくるような瞬間が突然目の前に現れて、なんだか妙に実感豊かな時間と密度の濃い空間を、俺に差し出してくるのだ。
それは一日に何度もやってきたりすることもあるが、一ヶ月以上音沙汰なしなんてこともある。きっとこの「突然の生存確認」は俺を決して見捨てず、俺という人間にとことん執着し続け、誰から見てもまったく問題のない……ように見える順応性に満ちたいかれポンチになっちまうまで、やってくるんだろう。そんな気がする。そうであってほしいような気も。
雪どけを思わせる穏やかな目をした、些細なことでは決して顔色を変えない、懐のゆったりとした、人づき合いにも慣れたふやけたイカれポンチに成り果てるのが先か、純粋な生存者として終わりを迎えるのが先か、俺に人生の基本線はそこにある。その基本からズレない限り、この生存確認は続いていく。そんな気もする。きっとそんなところだろうと思う。
この生存確認は、去年の5月頃から正月あたりまではけっこう頻繁にやってきた。そのあとは妙に間があいた。必要以上に望まないくらいに平和だったんだろうと思う。それが昨日の夕方、終業時間間際という予想しない瞬間にやってきた。
俺の真正面に座る社長の頭の上の壁掛け時計にちらちら目をやり始めた頃だった。数メートル先で電話が鳴った。いつも電話を取る女の社員のミハさんが受け、荒木くん電話、とこっちを見てニコッと笑った。その笑みがなにげに思わせぶりだったんで、まさか、と俺は思った。夏子が会社に電話? いや、あいつは会社になんて絶対、電話してきたりしない。そんなことを考えながら、俺は隣りの席の新地さんの机の上の電話を取った。なんとかそうやと言いますが、と受話器からの声は言った。苗字は聞いて次の瞬間に忘れちまった。そうやは名前で宗也とか爽也とかなんだろう、とか思う間もなく、声は続けた。
「ギターを弾いて欲しいんだけど……好きに弾いてもらってかまわないから」
目の前では新地さんが今日中に上げなくちゃならない図面にかぶりつくように覆いかぶさっている。他の人たちもそれぞれにまだあっさりとは終わらないであろう作業に取り組んでいる。正面の社長も半分腰を浮かせて真剣な目つきを製図板に突き刺している。そんな人たちに囲まれている俺はまだ、定時に明るく「お先します」と宣言しても誰にも文句も嫌味も言われない見習い社員ってところの存在である。がしかし、かかってきて会社の電話を独り占めしている話の内容が仕事とあまりにも関係なさすぎる、と、それぐらいのことを考えることができる程度の脳みそは俺だって持っている。
「どうかな?」ソーヤくんとやらが訊いてくる。
その声がますます場所と話題のギャップを広げていく。どうかなもへったくれもない。弾かないわけがない。なんて気持ちを体の中に感じれば感じるほど、目の前の光景が大昔に見たテスト中の教室のような硬さと他人行儀さをもって迫ってくる。
とっくに俺は思ってる、弾くさ、弾くに決まってんだろう、と。そう思いながら、いつの間にか社長を見つめてる。受話器を上げた時は椅子に座っていたのが、電話の向こうの声が「ギターを」と言うと電話機本体を持ち上げて立ち上がり「弾いて欲しいんだけど」でとっさにくるっと窓のほうに向き直ったんだが、「好きに弾いてもらってかまわないから」でぐるっと再び向き直り、なぜか社長を見つめる形になってしまったのだ。
気がつけば俺は、いいんすよね、と胸の中で社長に確認していた。そして「俺に訊くこっちゃねえだろ」という聞こえてくるわけのない声を聞いていた。
「名前、考えてくれるぅ?」
10ヶ月前、朝一番で俺を、お客さんが来たら応接室、昼は従業員の食堂として使われる仕切り部屋に呼び入れ、いきなりそう言って一直線の目つきで見つめてきたのは、どんだけ完璧主義なんだってな化粧を顔面にほどこした40代と思しき女性だった。
おばさんの直視から3センチ視線をそらしながら、俺は「あのぉ」とおばさんに言ってみた。いろいろ知りたかった。まず、俺に意味不明な質問を投げかけている人物、つまりあんたが誰なのか。そしてもちろん、名前を考えるという言葉の意味。けれどおばさんは俺に、あのぉ、の先を言わせてくれなかった。言わせてくれず、俺のそれた視線をぼっきり折りながら、非常に短い言葉を投げつけてきただけだった。
「だから名前よ」
俺はそらしていた視線をおばさんに合わせた。ビシッと重い直球を投げ込んできた目がそこにあった。すぐに次の球が俺に向かってきた。ゆったりした、けれどとても打つ気にはなれないようなスローカーブだった。
「社長にあなたの名刺を作ってくれって言われたんだけどね、ウチの社員の名刺にいくら本名だからって、ねえ」
自分の顔に、どこかに置き忘れていた本性が戻ってくるのを感じた。きた……と思っていた。
ここまで二ヶ月、静かにここの人たちの心に、俺の名前は馴染んできていたはずだった。でもやっぱり全員に馴染んでいたわけじゃなかった、という事実を見つめさせられ、俺に俺が戻ってきていた。目の前のおばさんが引き戻した俺自身だった。
このおばさんがこの会社でどの程度の権力を持ってるのか、俺は全然知らない。でも名刺を作るという仕事を担当してるのは確かで、その人が俺の名前を問題視している、ってのは完全に事実なのだ。
俺は俺です。荒木ガメラで、他のどんな人間でもないんです。
あなたは荒木ガメラさんという人で、それ以外の誰でもないのはわかってるんだけどぉ、でも考えてくんないと困るの、わたし的には。
顔がどんどん火照ってくる。きっともう真っ赤になってんだろう。でも目の前のおばさんには俺の劇的な変色なんてどうでもいいみたいだ。というか、ここまで俺にぶつけた言葉が俺にどんな作用をもたらしたか、全然気づいていないのだ。実に朗らか破顔しながらおばさんは言った。
「あーらあたしったら! 初めまして。福島の妻でございます」
わたしってこんなに明るい性格なのよとでも言いたげな、ふざけた調子でテーブルで両手を揃える。
福島ってのは福島武史――この設計事務所の社長のことだ。
ああ、そっか……と、何もかもが深い井戸に落ちていった。そんな気がした。
社長の奥さんが俺に、本名とは違う、きっと誰が聞いても聞き返してきたりしないような「真面目な名前」を考えろと言っている。それを「ウチの社員の名刺」に印刷するから、と。
これがこの会社の考えなんだ。
荒木ガメラという名前の人減なら、いらない。そんな感じ。
気がつけば俺は立ち上がっていた。そんな自分を発見する。
頭から爪先まで、全身からかっかと火を噴いている。
頭の中で、ばあちゃんの言葉を渦巻かせている。
「あんたのお父さんとお母さんの、愛が詰まった名前なんだからね」
俺を捨てた親たちの、愛。
俺はばあちゃんの笑顔をまじまじ見上げたもんだった。そのたびに、ばあちゃんは言い張った。
「あんたのお父さんとお母さんの愛、それがなかったら私だって役所であんなに頑張れなかったよ」
そう言ってばあちゃんは、俺の頭をぐりぐりと撫で回した。ほんの少し照れてるような顔で。
立ち上がった俺を見上げ社長の奥さんは、
「なによ、どうしたの」
眉間に深いしわを寄せた。
「何も、どうも」
それだけ言って俺は仕切り部屋のドアに手を伸ばした。ドアノブはやけに固くて冷たく、すぐに離したいくらいだったけれど俺はそれをきつく握り直し、どうにか回した。握った力に対して、ドアはあまりに軽く、小さかった。
狭い部屋を出ると、みんなが仕事している空間は、ひどく冷えていた。社長が図面台の前に座って新聞に目を落としていた。あの人は違う、と俺には瞬時にわかった。
名前を考えろなんてのは、あのおばさんの勝手な判断だ。あの人は俺の履歴書をじっくり見て、それから何も訊かずに明日から来れるかと言ってくれた人なんだから。
翌日の夜、社長は俺の部屋にわざわざ来てくれた。アパートのドアを開けたらそこに立っていたおじさんは言った。
「電話ねえんだから仕方ねえよな、夕べも来んだけどな」
どんな感情も感じさせない声だった。
俺が、いや……と目線を落とすとおじさんは言った。
「ごめんな、あれが変なこと言い出して……。第一、名刺なんてまだまだだ。作る時には当然、本名で作らせる。当たりめえだろ」
なんで俺はこんなにしっかりまっすぐそびえ立つが如く突っ立って、そんな人を見つめてるのか。焦って体の向きを変えた。そして投げ捨てるみたいに言った。
「で、いつ、どこ」
俺にとってギターを弾いてくれってのは人生最大の課題につながる大問題だ。でもここはあの人が大切に育て上げてきた会社だ。その懸命さに比べたら新しいバンドに加わるってのは俺にとってさえ、まだまだ小さな果実的現実でしかない。そう思ったらやたらぶっきら棒な言い方になってしまったのだ。
しかしソーヤくんとやらは、俺の声の投げやりさなんてどうでもいいようだった。それまでの穏やかな口調をまったく崩さず、こう言ったのだ。
「あさっての深夜、日曜日の午前1時5分前、弾薬庫で」
午前1時5分前……。
どっかで聞いた時刻だ。
ドアーズだ。
ドアーズの曲に「ファイヴ・トゥ・ワン」ってのがあるのだ。
弾薬庫ってのは、俺も知っている貸スタジオのことだった。
「了解。じゃ、あとはそん時ってことで」
出せる限りの事務的な響きで俺は答えた。
「うん、ありがと、じゃあ」
数秒後、電話はぷっつりと切れ、俺は受話器を置いた。
かかってきた電話は相手が切るまで切るな、そう俺に教えてくれたは社長だ。
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