第7話
次の瞬間、仁は自分が白い天井を見上げていることに気付いた。
何が起きたのか、まったく理解できなかった。ゴール前で、敵のディフェンダーと競り合っていたはずである。
試合はどうなった?
あわてて起き上がろうとして、脇腹の激痛で動きを止めた。
「まだ動いちゃだめ」
瑠奈だった。
「どうしてこんなところにいる? ってゆーか、ここはどこだ? 試合はいったいどうなったんだ?」
「ここは病院よ。試合で頭を打って、運ばれたの」
「病院?」
状況が理解できず、仁は首をかしげた。
ついさっきまで昼間の試合中だったはずである。それが、病室の窓から見える景色は、今は夕闇に沈んでいた。
「ゴール前でもみあったときに頭を打ったんだって。憶えてない?」
憶えていない。
額に手をあてると、包帯が巻かれていることに気付いた。頭を打ったというのは、少なくとも本当らしい。
「左の肋骨にヒビだって。いったい、何をやってたのよ。サッカーの試合じゃなくて、プロレスやってたみたい」
「サッカーは、ある意味で格闘技だ」
ゴールキーパーは比較的守られているとはいえ、サッカーは激しいボディコンタクトと無縁ではいられない。
「それより、試合はどうなったか知ってるか?」
「延長戦で、負け。仁ちゃんは、後半ロスタイムにヘディングで同点ゴールを入れたんだって」
「まじで?」
ということは、前線でコーナーキックに跳び込んだ時にシュートを決めたものの、頭を打ってしまった、ということなのだろう。同点になったが負傷退場して、延長戦では控えゴールキーパーが出場したということである。
「……心配したんだからね」
仁が考え込んでいると、瑠奈がぽつりとつぶやいた。
「ありがとう」
仁が言うと、瑠奈は驚いたように顔を上げた。
「珍しい。仁ちゃんがそんなふうに素直になるなんて」
「ばか。俺はいつだって素直だ」
「そのへんは、素直じゃない」
瑠奈が笑った。
不思議と気持ちは落ち着いていた。負けたことも、最後まで守りきれなかったことも、くやしい。それでも、できるだけのことをやったという満足感があった。全国大会で優勝候補と呼ばれるようなチームを相手に、いい試合ができたことが大きい。
体はあちこち痛めてしまったが、できるだけのことはやったのだ。あとはゆっくり休んで、ケガを直せばいい。
と、そこまで考えて、仁の心臓が跳ね上がった。
八賢士の決戦。
八千代高校戦と同じ日の夜八時に、決戦の予定だった。時計をさがして首をめぐらせると、また左脇腹に痛みが走った。
「どうしたの、ジンちゃん?」
「今、何時?」
問いかけると、瑠奈がスマホを取り出して覗き込んだ。
「もうすぐ七時だよ」
「行かなくちゃ」
仁は体を起こした。行かなければならない。しかし、起き上がると、体が悲鳴を上げた。
「ダメだよ、仁ちゃん。まだ寝てないと」
「試合があるんだ」
「終わったばかりじゃない」
「もう一試合」
「バカ言わないで。肋骨にヒビが入ってるんだよ」
「それでも、行かなきゃ」
仁は起き上がって、着替えを始めた。体を動かすたびに、左脇腹が痛んだ。あとは、とにかく全身が重い。クールダウンをしないまま病院に運ばれたせいだろうか。それでも、最終決戦に遅れるわけにはいかない。八賢士にキーパーは仁しかいないのだ。
着替えを終えると、仁は瑠奈を置いて病室を出ようとした。その腕を、瑠奈がつかむ。
「……ジンちゃん」
「行かなきゃ」
「わかってる。気をつけて。あんまり無理しないでね」
ふわり、と瑠奈の体温が仁を包み込んできた。
仁の体を瑠奈が抱きしめていた。
瑠奈の体温と同時に、瑠奈の体臭が仁を包み込んだ。かすかな甘酸っぱい香りに包まれながら、仁は瑠奈の体を抱き返した。
「行ってくる」
「勝つんだよ、ジンちゃん」
「まかせろ」
仁は瑠奈から体を離すと、病室を出た。
決戦の舞台は、地下鉄東西線・東陽町駅近くのフットサル場である。どうにか時間前にたどりついた仁を出迎えたのは、ゲンさん、文絵、ガリ、デブの四人だった。
「あれ? ほかのみんなは?」
「いろいろあってな。大塚くんは、昨晩渋谷でオヤジ狩りにあって大ケガをしたそうだ。礼美ちゃんは、ニュースで流れている通り、スキャンダルで身動きがとれないらしい。智恵美ちゃんとは、連絡がとれない」
「なんだよ、それ」
「それだけじゃない、わしも、ホームレス狩りにあいかけた」
「まじで?」
「ああ。逃げ足が速くて助かったがね。どうやら、敵は試合だけで雌雄を決するつもりはないらしい。我々の戦力を試合外のところで削って、決戦を有利に進めようとしている」
「卑怯……」
「仁くん、君は大丈夫か? すこし体の動きがおかしいようじゃが」
「今日の昼間、試合でちょっと痛めただけ。大丈夫」
「君のケガも敵が仕かけてきたんじゃないのか?」
「まさか。試合の中で、普通にぶつかっただけだし——」
そこまで言って、仁は愕然となった。対戦相手である北条六勇士の姿が見えたのである。その先頭を歩いてくるのは、八千代高校のエースストライカー、荒木であった。荒木の後ろからは、国府台高校の山中キャプテンの姿が見えた。
あの二人が、敵?
仁がいるのに気付いた二人が、眉をひそめてなにやら言葉を交わした。わざと仁にケガをさせたはずがない、そう思いたかったが、二人の表情で仁は確信した。やられたのだ。
「あいつら、メンバーを総入れ替えしてきよった」
「どういうこと?」
「前のジャンケン勝負のときから、フットサル用にメンバーを変えてきとる。変わらないのは、六勇士筆頭の大道寺だけだ」
仁とゲンさんの会話が聞こえたのか、メガネをかけた細身の男が前に出てきて、八賢士を見回した。そのねばつくような視線が不快で、仁は背筋がむずむずしてきた。
「なんだ。集まったのはこれだけかい? 八賢士は結束が固いと聞いていたけど、所詮はこの程度か」
「黙れ、卑怯者。この第三十五代・犬飼現八が、叩き潰してくれるわい」
「クビになった元プロ以外はド素人のチームと、現役の十九歳以下日本代表を中心とした若い才能あふれるチームと、どちらが強いか、考えるまでもないだろう? せっかくこの大道寺重時様が気を使って、戦わずに済むようにしてあげたのに。おとなしく病院送りになってくれないなんて、本当にしつこい連中だ」
腹が立って我慢できなくなり、仁は大道寺に無造作に近づくと、拳を顔面に叩き込んだ。
「うるせー。キモいんだよ、このメガネ野郎」
大道寺は声もなく崩れ落ちた。
六勇士の他のメンバーは、大道寺を助けるでもなく、黙々と準備運動している。それで、六勇士の中で大道寺がどのように思われているのか、なんとなく理解できた。
仁は準備運動中の山中に歩み寄った。
「先輩、ひとつだけ教えてください」
「なんだ?」
「今日の試合の退場は、わざとですか?」
「だったら?」
「本気でサッカーに取り組んでいるというのは、ウソですか」
「本気さ。でも、金も欲しい」
山中は悪びれる様子もなく、淡々とした口調で言った。山中をキャプテンとして尊敬していた自分に、仁は腹が立った。
悪態をつく気にすらなれず、仁は味方のいる場所に戻った。
絶対に勝つ。
その思いも新たに仲間を見回したが、不安ばかりが頭に浮かんでくる。五人のうち素人が三人、対する相手は、山中と荒木をはじめ、他のメンバーも経験者らしく、動きがいい。荒木のような年代別の日本代表レベルではないにしても、山中くらいの実力者はそろっているようだった。
「手ごわそうじゃのう」
言葉ほど深刻な様子がない口調で、ゲンさんがのんびりと言った。
「でも、やるしかない」
「気負うなよ。肩の力を抜く。そうすれば、いつものように体が動く」
「はい」
そうは言ったものの、体はいっぱいいっぱいで、肩に力が入るどころの騒ぎではなかった。脇腹が痛まない範囲でストレッチをしたが、あちこちがきしむような感じがした。
「よし、みんな。このメンバーで戦わなければいけない。ポジションと作戦を考え直す必要がある。まず太川くん」
ゲンさんに言われて、ガリが緊張に満ちた顔を上げた。
「君は身が軽い。右サイドで、走り回ってくれ。味方がボールを持ったら、一気に駆け上がる。敵にボールが渡ったら、すぐに戻る」
「わかった」
「次に、文絵さん。前線で、わしがボールを持ったら敵の裏に向かって走り込む。わしは、その足元に必ずパスを通す。そのボールをゴールに蹴り込むことだけを考えるのじゃ」
「うん」
うなずく文絵から、今度はデブに目をうつす。
「山道くん。君は、読みがいい。左サイドで敵にくっついて離れず、そこへのパスを遮断してほしい。そして、仁くん」
ゲンさんの目が仁に向けられた。
「わしは守備するが、もしも敵の攻撃につり出されたら、その逆サイドに注意するんじゃ。かならず逆サイドからしかけてくる」
「わかってる」
仁はうなずいた。ゲンさんは全員の顔を順番に眺めると、微笑んだ。
「みんな、ベストを尽くそう」
ゲンさんは円陣を組みたいらしく手を広げた。しかし、他の四人は同時に身を引いた。
「ゲンさん、やっぱ、くさいって」
「勘弁してよ」
「決戦の日くらい、お風呂入ってきてよね」
味方から避けられて、ゲンさんは傷ついた顔をした。
「決戦の日くらい、我慢してくれたっていいじゃろ」
「普段から我慢してるっての」
文絵の厳しい一言に、ゲンさんはがっくりと肩を落とした。
試合が開始された。審判役を引き受けてくれたフットサル場のスタッフがホイッスルを吹いていた。
予想通り、敵は全員かなりレベルが高く、文絵、ガリ、デブはほとんど何もできないまま、翻弄されていた。
それでも、勢いに乗って攻めてくる敵をゲンさんが巧みに止めて、鋭いパスを前線に残っている文絵に出した。しかし、パスは通っても、文絵がシュートを打つまでには至らず、敵にボールを奪われてしまっていた。
荒木と山中のコンビは巧みに連携しながら攻めてきたが、仁は冷静に相手の動きを見極めて、ことごとくシュートを止めた。
動かすたびに体は悲鳴を上げたが、あえてそれを意識の外に追い出してゴールマウスを守り続けた。
とくに用心しなければならないのは、やはり荒木だった。周りをうまく使いながら、巧みにゴールに迫ってくる。しかし、ときにゲンさんが遮り、ときにはガリが戻ってきて守り、さらにはデブが荒木から出たパスをカットし、攻撃を防いだ。
しかし、徐々に基礎体力の差が出てきた。動き回っているガリはプレーの合間に膝に手をついて息を整え、ゲンさんも動きが鈍くなりはじめていた。
そこに、山中が飛び込んできた。仁が体を投げ出してボールを押さえたが、山中の体がそのままスピードを落とさずに仁にぶつかってきた。
山中の膝が、確実に仁の左脇腹をとらえた。
痛みのあまりに仁がこぼしたボールを、山中は余裕をもってゴールに蹴り込んだ。
「ファウルじゃ!」
ゲンさんが怒鳴っていたが、審判はゴールを認めた。引きあげていく山中が審判とうなずきあっている様子を見て、審判もぐるになっているということがわかった。
そうまでして勝ちたいのか。
どうして、そんな不正で勝つ自分を許せるのか。
仁は山中の背中をにらみつけた。そこに、ゲンさんが駆け寄ってきた。
「大丈夫かの、仁くん」
仁はうなずいたが、ゲンさんの手を借りなければ立てなかった。
試合が再開したが、やはり劣勢は変わりがなかった。さらに、敵はおおっぴらにラフプレーを繰り返すようになった。
至近距離から腹にボールを蹴り当てられた文絵はうずくまり、足をかけて倒されたガリは足をひきずり、ヒジ打ちを受けたデブは鼻血を流していた。
それでもゲンさんは巧みに敵のラフプレーを避けて守備を続け、仁はシュートを止め続けた。正直なところ、仁は立っているのがやっとの状況だったが、それでも体が自然と反応していた。
荒木のシュートを止めてボールを拾い上げた瞬間、必死の形相で右サイドを駆け上がるガリの姿が見えた。痛みをこらえて、ボールをガリに向かって投げた。
「太川くん、パスじゃ!」
ゲンさんが、敵の中央に猛然と走り込みながらガリにパスを要求した。そのゲンさんに対して、敵が守備を固める。しかし、逆にゲンさんに意識が向きすぎて、ガリの前がぽっかりとあいた。
ガリは迷わず足を振りぬいた。
しかし、痛めていた足のせいでバランスを崩し、ボールにミートしない。ボールは力なく転がったが、逆にそれがキーパーの意表をついた。
ボールが敵ゴールに転がり込む。
倒れたままのガリにゲンさんが駆け寄る。
「ようやった!」
ゲンさんの手を借りてゆっくり立ち上がったガリは、今のシュートでさらに足を痛めたらしく、立っているのがやっとの状態だった。
「よし、いけるぞ! もう一本!」
チームを鼓舞するように手をたたきながら、ゲンさんが引きあげてくる。
仁もそれにこたえて声を出したが、大きな声を出そうとして息を吸うと激痛が走るため、蚊の鳴くような声しか出せなかった。
それでも、同点である。
その後もラフプレー満載の攻撃を受け続けたが、仁は防いだ。一度は荒木の膝が顔面に入ったが、それでも仁は立ち続けた。
止めたボールを前線の文絵に向かって投げたところで、前半終了の笛が吹かれた。
仁はその場にへたり込みそうになったが、誰かに脇を支えられた。デブ山道が仁の左腕をつかんでいる。山道のやわらかい腹がぶつかるだけで、脇腹が死ぬほど痛んだ。
「なんだよ」
「ベンチまで移動して、横になれ」
「自分で歩けるよ」
そう言ったものの、山道の腕を振りほどくほどの気力はなかった。彼に導かれるままにベンチまで移動すると、脇腹に響かないようにそっと腰を下ろした。
「サンキュ」
仁が礼を言いながら、はじめて山道の顔をちゃんと見た。もとは福々しかった山道の顔は、目のまわりに青アザができていて、顔の鼻から下は血で汚れていた。
それでも、山道は仁の肩をつかむと、無言で微笑んだ。
「ナイスシュート」
足を引きずりながら戻ってきたガリ太川に声をかけると、息も絶え絶えながら太川は手を上げて仁の声にこたえた。
次に泣きべそをかいている文絵がゲンさんに支えられて戻ってきた。
「あいつら、むかつく! ぜったい殺してやる!」
「敵とやりあうたびに胸を触られたそうじゃ」
ゲンさんが解説をしてくれた。
フットサルでは接触プレーは基本的に禁止のはずだったが、審判を味方につけている敵はやりたい放題のようだった。
「試合が終わったら、やつらをぶっとばすのを手伝うよ」
仁が言うと、ゲンさんが険しい顔でにらんできた。
「仁くん、君の体がそこまで持ちそうには思えんな」
「できるさ。あんな卑怯な連中に負けるわけにはいかない。絶対に勝って、その後で、ぶっとばしてやる」
強がってみたものの、声は言葉ほどに力強くならなかった。
「何を偉そうに言っとる。そんな様子では、まともなプレーなどできまい?」
不意に頭上から声が降ってきた。
「大塚さん……」
文絵がつぶやいた。
オヤジ狩りにあって入院していると言われていた大塚が、頭に包帯を巻き、腕をつった状態でやってきたのである。
「待たせたね」
「大塚くん、体はどうなんじゃ? いけるのか?」
「あたり前のことを聞くな。出るつもりがなければ来ない。それより、これはいったいどういうことだ? 智恵美ちゃんと礼美ちゃんはどうした?」
「どちらも来ていない。おそらく、大塚くんが遅れたのと同じような理由じゃろうな。それもこれも、敵の仕かけてきた謀略じゃ。それだけではなく、審判も敵に買収されとる」
「審判が買収?」
大塚は相手ベンチを見た。審判役のスタッフは、臆面もなく六勇士に混ざって談笑している。ゲンさんの説明を理解したらしく、大塚はうなずいた。
「なるほど。どおりでみんなボロボロなわけだ。敵も、大道寺以外は見たことがないな。今日のためにサッカーもラフプレーもうまいやつを集めたな」
「そんな相手に対して、前半は一対一じゃ」
大塚が目を丸くした。
「それは健闘したな。でも、見たところ太川くんと入江くんは、プレーできる状態じゃなさそうだ」
「俺はまだできる。そういうあんたのほうが、試合なんて無理そうに見えるけどな」
仁が言うと、大塚が笑った。
「それだけ言えるなら、まだ大丈夫だな。キーパーは君しかいない。頼むぞ」
「まかせろ」
仁は痛みをこらえて、声を張ってこたえた。
「よし。では、太川くんと私が交代だ」
太川は、明らかにほっとした表情でうなずいた。
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