第6話

 インターハイの予選がはじまった。

 頭の片隅には、いつも礼美の顔があったが、試合で集中力を欠くようなことはなかった。八賢士の面々と何度か練習を重ねたが、その時の礼美はあい変わらず毒舌ばかりの性格のきつい女だったからである。

 八賢士の仲間たちを罵倒している礼美には、アイドルとしての美しさどころか、人としての品格すらないように見える。仁は礼美の多面性にそこはかとない不快感を感じながら、練習をこなした。さすがにうまい連中がそろっているので、練習の指示も的確で、未経験者たちの上達も早かった。

 そこまで考えて、仁は頭を振った。

 今は、目の前の試合に集中すべきだった。

インターハイ予選を勝ち進む。それ以外の目標は、ない。少なくとも一勝して、優勝候補の八千代高校と対戦する。そして、あわよくば八千代高校も倒す。

 試合は、山中の活躍もあって、圧倒的な優勢で進んだ。仁の出番はほとんどないまま、二対〇で前半を折り返した。

 西崎監督の後半の指示はカウンター攻撃に注意すること、という内容だった。

 しかし、楽勝ムードが漂っていて、チームの緊張感は欠けているように感じた。キャプテンの山中が大きな声で気合を入れたが、あまり効果がないようだった。

「緊張感が足りない! もしも手抜きしてカウンターを許したら、俺が手抜きをしたヤツをぶん殴ってやる!」

 仁は怒鳴った。

 山中は苦笑し、西崎監督はため息をついた。

 気詰まりな沈黙が、ロッカールームに流れる。

「まあ、ぶん殴るのはおいとくとして、だ。前半が余裕だったからといって、絶対に気を抜くんじゃないぞ」

 山中がチームに声をかける。

「次は八千代高校だ! こんな場所で負けられないぞ!」

「おう!」

「楽しんでいこう! そして、勝とう!」

「おう!」

 全員が声を合わせて、ピッチに戻る。

 後半。いきなり攻め込まれた。敵の鋭いスルーパスがペナルティエリア内に通りかけたところを、いち早く仁が飛び出してボールを押さえた。仁の指先を、敵フォワードのつま先がかすめていった。

「マークが甘い!」

 仁が味方守備陣を怒鳴りつけた。大岡が険しい表情で仁を見ると、ディフェンスラインに指示を出し始めた。

 それ以降、ピンチらしいピンチもなく、逆にチャンスらしいチャンスもないまま、じわじわと時間が過ぎていく。

 後半三十分。中盤で山中が倒された。ファールだと思った味方の足が止まる。しかし、笛は吹かれなかった。その一瞬の隙をついて、敵が抜け出してくる。

 ボールを持っている敵のほかに、もう一人。その二人を、大岡だけが追いかけてくる。しかし、間に合わない。

 敵のフォワードが近づいてくる。ボールを押さえようとして仁は体を投げ出したが、敵は後続の選手にパスを出した。

 パスを受け取った敵は、ボールをゴールに流し込む。

 やられた。

 二対一。

「笛が鳴るまで気を抜くな!」

 西崎監督の怒鳴り声が聞こえてくる。

「慌てるな! まだリードしてる!」

「落ち着いていこう!」

 さまざまな声が交わされる。しかし、敵のほうが明らかに活力に満ちていて、味方は意気消沈していた。

 流れは完全に敵のものになり、一方的に攻められる形になった。試合終了までの十分間、敵が放ったシュートは五本。そのすべてがゴールの枠内に飛んできたが、仁が防いだ。

 試合終了。

 どうにか、勝った。たった一度のミスで流れが大きく変わる。そこがサッカーの怖いところだった。

「どうもちぐはぐだな」

 ロッカーに引きあげる途中で、山中が仁の後ろから声をかけてきた。

「そうっすね」

「なんでだろう」

「わからないっすよ、そんなの」

 仁が言うと、山中に肩をつかまれた。仁が振り返ると、いつになく厳しい表情をした山中の顔があった。肩をつかむ手の力の強さが、山中の感情の強さを物語っていた。

「わかろうとしなければ、いつまでもわからない」

「なんなんすか」

 仁は山中の手を振り払った。

「前の試合の後にも言ったろう? もっと、話せ。自分の基準だけでものを見るな。自分が正しいと思っていることが他人も同じだと決め付けるな」

「サッカーをやる以上、みんな勝ちたいはずです」

「勝ちたい。でも、必ず勝てるわけじゃない」

「だから、勝つために最善を尽くすんでしょう? なんのための練習ですか」

「もっと、話せ。入江。仲間全員と、別々に、話してみろ。おまえほど勝つことを重要視していないやつもいる。勝つための最善の方法が、おまえのイメージするものと違うやつもいる。おまえは、それを聞け。相手の考えを否定せずに、尊重して、よく聞け」

 山中の言葉があまりにも意外だったので、仁は山中の顔を見直した。

「じゃあ、山中先輩はどう思ってるんすか」

「勝ちたい。弱小サッカー部にいても、やっぱり勝ちたい。でも、他人の行動はどうしようもない。自分にできるベストは、とにかく尽くす。それだけだ」

「わかんないっすよ。他人がベストを尽くすように働きかけるのも、大切じゃないんすか」

「大切だ。でも、他人がベストを尽くすかどうかは、最終的にはやっぱり他人次第だ。自分の思い通りにならないからといって相手を殴るのは、間違っている」

 返答に詰まって、仁は黙り込んだ。

 自分が間違っていたのだろうか。そうかもしれない。でも、よくわからなかった。

「あまり深刻に考えるな、入江。もっと、仲間と話せ。自分の気持ちをぶつけたら、相手の気持ちも受け止めろ」

「それで、わかるようになりますか」

「なる」

「本当に?」

「ああ、俺を信じろ」

 山中が笑いながら仁の肩をたたいた。


 その夜も、八賢士の練習があった。疲れていたが、仁の体は反射的に動いていた。

 頭の中では、チームメイトたちとの会話が渦巻いていた。

 長身のフォワード・遠山は、大学進学を目指している。サッカー部の練習は、受験勉強に影響が出ない範囲でできるだけのことをやりたいと思っているようだった。足の速いフォワード・板垣は、点をたくさんとって女子にモテることを目指していた。そのためなら、どんなことでもやるつもりのようだったが、小さな体に不つりあいな顔の大きさのせいで、どれだけ点をとっても女子にモテたためしはないようだった。

 中盤の選手は、キャプテンの山中と左サイドの千葉が、サッカーに全力で打ち込んでいるようだったが、右サイドの岡田と中盤の底の坂本は、それぞれサッカー以外の夢があって、そちらを重視しているようだった。

 ディフェンダーの四人は全員が進学を希望していて、サッカーの優先順位は低い。そんな話をしている最中に、仁は大岡に逆に質問をされた。

「入江、おまえはどうなんだ?」

 仁はまだ一年生である。高校を卒業した後のことまで、考えたことなどなかった。ただ、好きなサッカーに打ち込んでいるだけである。そのことを正直に告げると、大岡は穏やかに笑った。

「今は、まだいいさ。でも、プロにでもならない限り、サッカーだけを続けているわけにはいかないんだ」

 大岡の言葉は、理解できた。そして、山中の言葉の意味も、ようやくわかってきた。ただサッカーに打ち込んでいたい仁と、他のチームメイトたちとの感覚は、もともと大きく違っていたのである。

 仁からすれば、回りのやる気がないように見えたのも当然だった。

「ほれほれ」

 ゲンさんののんびりした声で、我に返った。いつもの仮設ゴールに、シュートを決められていた。仁はボールを拾って、投げ返す。

「なにをぼんやりしとる」

「もう一本!」

 仁が言うと、ゲンさんはボールを巧みにドリブルしながら近づいてきた。

 トラップが大きい。

 そう思って仁がボールに跳びつこうとすると、ゲンさんが足の裏をつかってボールを巧みに止めた。まるで足の裏に吸盤がついているような動きだった。

 しかし、仁はすでにジャンプのために重心が移動していて、ゲンさんは逆方向にボールを転がした。力のないボールが、仁をあざ笑うように転がってゴールに入る。

「集中せい。今のままでは、練習にならんぞ」

「集中してます」

「動きが見え見えなんじゃよ、入江くん」

 ゲンさんが笑って言った。仁には自分で気付かないクセのようなものがあるのだろうか。

「どこかにクセが出てますか?」

 仁がたずねると、ゲンさんは小首をかしげた。

「うーん。クセと言っていいのかのう。反応が良すぎるのじゃよ。こちらがどうしようと考えているのか、的確に予測している。でも、動き出しが速いので、こちらにはその動きを見てから方針を変える余裕がある。そういうことかな。君くらいの反射神経があったら、もうちょっと辛抱強く待っても十分に反応できるはずじゃ」

 なるほど、と仁は思った。

 より早く反応して、相手の動きを止めることばかり考えていたのは事実だった。しかし、それでは逆に相手に動きを読まれることにもなる。

「もう一本!」

 さっきと同様に、ゲンさんが足の裏でボールを扱って、フェイントを見せた。思わず体が動きそうになるのを必死で我慢しながら、仁はゲンさんの前に立ち続けた。ゲンさんがボールに向かって、一歩踏み込む。

 来る。

 そう思ったが、それでも一呼吸待った。鋭いボールが左へ飛ぶ。跳んだ。弾かれたボールは運悪く再びゲンさんの足元に転がった。ゲンさんは軽いタッチでボールを蹴ったが、素早く立ち上がった仁が、そのボールに跳びつく。

「うひゃぁ、起き上がるのが速すぎじゃよ」

 ゲンさんが楽しそうに言った。

 不思議なことに、待つことでいろいろなものが見えてきた。いける。そう思った。

 その後のシュートは、ほぼすべてを止めた。

「なにか、つかんだようじゃのう。それじゃあ、わしはこのへんで」

 ゲンさんは仁に伝えたいことは伝えた、と判断したらしい。実際、仁は反射神経だけで大半のシュートを止められていたので、それ以上の工夫を考えたことなどなかった。辛抱することの重要性を教えてもらったようだ。

「ありがとうございます」

 仁は敬意をこめて、ゲンさんに頭を下げた。

 仁はひとりで自分の体の動かしかたをチェックして、動きが遅れすぎないように、しかし動き出しを辛抱する方法を考え始めた。この夜の練習に礼美は参加していなかったが、仁は礼美のことなど忘れて練習に没頭していた。

 礼美から再び呼び出しがあったのは、それから三日後だった。二人だけで練習をして、終わった後でまた食事をして、前回と同じようにタクシーで帰った。この日はさして会話は盛り上がらず、もちろんキスもなかった。

 礼美は気持ちがどこかに飛んで行ってしまっているようで、練習にも会話にも集中を欠いていた。


 翌日、学校に行くと、クラスが騒然としていた。

 クラスメイトたちが集まっている場所に首を突っ込むと、ひとりが写真週刊誌を広げていた。

「南礼美、熱愛発覚!」

 その大きな見出しを見て最初に思ったのは、仁と礼美が二人きりで練習したり食事したりしていたことをスクープされたのではないか、ということだった。

 しかし、記事を読むにつれて、仁は状況を理解した。

 礼美の熱愛相手は、お笑い芸人だという。芸人が礼美の自宅から出てくるところを写真に撮られたらしい。

 仁は安心したが、同時に腹も立った。あのキスは、いったい何だったのだろうか、と。

「俺のレミたんが、お笑い芸人なんかと付き合ってるなんて……」

「こんなにモテるなら、俺もお笑い芸人になろうかな」

 興奮した様子で言葉を交わし合っているクラスメイトたちに背を向けて、仁は自分の席についた。

 感情の整理をなかなかつけられずにいると、不意に背中を叩かれた。

「ジンちゃん」

 瑠奈だった。

「なんだよ」

「気を落とさないで。南礼美だけが女じゃないよ。ここにプリティなあたしがいるんだからね」

 瑠奈が気取った表情を作って見せた。しかし、今の仁はその軽口に付き合う気分にはなれなかった。

「悪い。そういうアホな話に付き合ってる気分じゃないんだ」

 そう言うと、仁は礼美のことからサッカーのことに頭の中を切り替えようとした。インターハイの予選。次は強豪の八千代高校との対戦だった。そして、同じ日の夜には、フットサルの最終決戦もある。礼美にことで感情を乱されている場合ではない。つかみかけている『辛抱』を、もっとしっかり自分のものにしなければいけない。

「ジンちゃん、どうしたのよ」

 黙りこんだ仁の顔を、瑠奈が心配そうにのぞき込んでくる。

「サッカーだよ。俺はまだまだなんだ。もっと練習しないと」

「しょうがないなぁ。じゃあ、レモンのはちみつ漬けを差し入れてあげるよ」

「しばらく、ほっといてくれるか? もっとサッカーのことだけ考えていないと」

 仁が言うと、瑠奈は傷ついたような表情で黙り込んだ。

 クラスメイトが一人、近づいてくる。

「おいおい、なんだよ。夫婦喧嘩か?」

「うるせー」

 仁は立ち上がると、クラスメイトを押しのけた。

 教室を出て、屋上に向かう。頭の中を整理するには、屋上が一番だった。


 瑠奈と話さず、礼美とも会わず、ただ時間だけが過ぎていった。

 そして、インターハイ予選の二回戦・八千代高校戦の当日。

 その日は同時に、里見八賢士対北条六勇士の対決の日でもあった。昼間のインターハイ予選が終わってから、夜に決戦がある。仁にとっては過酷な一日となったが、やる気は十分だった。

 キックオフ。

 当初からの予想通り、八千代高校の強力な攻撃陣が襲いかかってきた。国府台高校としては、ただ辛抱強く敵の攻撃を防ぐしかなかった。

 敵フォワードの動きが驚くほどよく見えるようになっていた仁は、敵のシュートを止め続ける。それでも、敵のシュートを止められるのは、味方の守備がかろうじて機能しているからだった。敵フォワードの動きを制限して、仁が守りやすくしてくれていた。大岡を中心とした守備陣とのコミュニケーションも、うまくいっている。

 敵のフォワードの表情に、いらだちの色がよぎった。

 フォワードは十九歳以下の日本代表にも選ばれている、荒木という男だった。荒木は何度かディフェンスを突破してきて、仁と一対一になった。しかし、仁は荒木の決定的なシュートを何度も止めた。

 荒木のいらだちがプレーにも影響しはじめたようだった。荒木のトラップが大きくなったところを、仁が跳び出しておさえた。

 仁の体につまずく格好になった荒木の膝が、脇腹に入った。息がつまって、動けなくなった。

「すまん、大丈夫か?」

 荒木が手を差し伸べてくる。仁はうなずきながらその手を握り、立ち上がった。脇腹に激痛が走り、仁は顔をしかめた。左の肋骨のあたりだろうか。軽く触っただけでも跳び上がるほど痛い。痛くて、深く息をすることができなかった。

 駆け去っていく荒木を見送りながら、仁は考えた。

 体を痛めたと思ったら試合が止まって治療を受けるまで倒れたままでいろ。決して無理をするな。それが、西崎監督の教えだった。

 しかし、ひどい状態なのは明白で、交代させられることは目に見えていた。

 今はどうにか〇対〇でしのいでいるが、控えのキーパーでは荒木を止められない。そう考えて、仁は黙ってプレーを続けることにした。

 ボールを蹴って試合を再開したが、そのキックでも目がくらむような痛みが走った。

 動きを止めてじっとしていれば、痛みは楽になる。極力、必要なとき以外は動かないようにしているしかなかった。

 試合は劣勢のまま、仁はその後何度もシュートを止め続けた。痛みをこらえてプレーをするのは限界だと思えてきたときに、ようやく前半が終了した。

 ベンチに引きあげると、西崎監督が近づいてきた。

「大丈夫か?」

「問題ないっす」

「そうは見えない。ちょっと見せてみろ」

 西崎が仁の右脇腹を触った。跳び上がるほど痛かったが、その痛みを飲み込んで、仁は西崎を見返した。

「大丈夫っすよ」

「そうか……」

 西崎は引き下がった。他に仁の変調に気付いたのはキャプテンの山中だけのようだった。山中は仁に何か言いたそうな目を向けたが、結局は何も言わなかった。

 他のメンバーは、仁の健闘をたたえて背中を叩く。叩かれるたびに、脇腹が痛んだ。

 攻撃面での指示が中心のミーティングが行われた。守備は、比較的うまくできている。敵のエースストライカーである荒木を自由にさせないように連携するための指示がいくつか出された程度だった。

 そして、後半。

 痛みは引かず、仁は苦しみながらゴールを守り続けていた。一方的に攻められているので、自然とコーナーキックの守備機会が増える。きわどい場所にボールが上がると、敵味方と接触しなければならない。

 どうにか守備することはできたが、接触して倒れてから再び立ち上がるまでに、次第に時間がかかるようになってきた。周りは、引き分けでPK戦を狙うために、意図的に時間をかけていると思っているようだった。

 後半二十五分。再び敵コーナーキックのピンチが来た。

 敵フォワードが殺到してくる位置に、鋭いボールが上がる。仁は飛び出して、ボールをパンチングではじいた。と同時に、ヘディングをしにきた荒木と、荒木をマークしていた大岡が、もつれるようにしながらぶつかってきた。

 仁は背中からピッチに落ちて、その上から大岡と荒木が一緒に落ちてくる。腹の上に落ちてきた二人の重さで生じた激痛で、仁はそのまま脇腹を押さえてうずくまった。

 だめだ。動かなきゃ。交代させられる。

 仁は立ち上がった。

 呼吸を浅くして、脇腹に響かないようにしながら、気持ちを落ち着ける。ボールはゴールラインを割っていて、仁のキックで試合再開となった。

 それからしばらくはゴール前の攻防にはならず、仁は痛む体を休めることができた。チーム全体が引き分け狙いになっていて、危険を冒した攻めを控えていることが大きいようだった。

 山中も、中盤でうまく時間を使っている。

 しかし、ボールを味方に預けた山中が、敵の隙を見つけて前線に跳び出した。そこに正確なパスが出る。チャンスだ、と思った瞬間、笛が鳴った。オフサイドだった。

 山中はボールを拾い上げて、ゆっくりと自陣に戻り始めた。敵の選手がボールを取り戻そうとしたが、山中はなかなかボールを手放そうとしなかった。時間つぶしをしようとしているのだ。

 しかし、すこしボールを持ちすぎた。

 遅延行為と判断した審判が、山中を呼び止める。イエローカード。山中はすでに前半に一枚イエローカードをもらっていた。この試合二枚目なので、レッドカードが提示された。

 退場である。

 山中の退場は、ただでさえ不利だった試合に壊滅的と言っていいダメージを与えた。わずかなチャンスも作れないまま、一方的に攻められるだけになった。

 それでも、味方ディフェンダーも集中力を切らさずに守り続け、仁も敵のシュートを阻み続けた。

 敵の攻撃陣の中では、やはり荒木が手ごわかった。巧みなボールコントロールでディフェンダーを振り切り、シュートに結び付けてくる。仁は一瞬も気を抜けず、痛みをこらえながら、ただひたすらにゴールを守り続けた。

 残り時間が二分を切ったところで、また荒木の突破を許した。あわてた大岡が出した足にひっかかって、荒木が倒れた。主審が笛を吹いて駆け寄ってくる。ペナルティスポットを指さしていた。

 PK。

 最大のピンチである。荒木がボールをセットするのを待って、仁は身構えた。助走をつけて、荒木がボールを蹴りこんでくる。

 仁にはそのシュートのコースが見えた。体を投げ出して、ボールをはじく。

 止めた、と思った。

 しかし、はじいたボールはピッチの中を転がっていた。左脇腹の痛みのせいで、立ち上がるのが遅れた。素早く詰めてきていた荒木が、ボールをゴールに蹴り込む。

 失点。

 仁は天を仰いだ。残り時間は一分。ロスタイムをあわせても三分といったところだ。守りきれなかったことが、無念でならなかった。一人少ない状況で追いつくのは、不可能に思えた。

「まだだ! あきらめるな!」

 ベンチから西崎監督の声が飛ぶ。しかし、味方は完全に意気消沈していた。

 試合がキックオフで再開してすぐに、敵は荒木を交代させた。選手交代を時間稼ぎに使い、同時にエースストライカーを休ませる作戦でもあった。八千代としては、もっと早く荒木を休ませたかったのかもしれない。それだけ、国府台が善戦したのだともいえる。

 いずれにしても、八千代はボールをキープして残りの時間を使いきる作戦のようだった。

 その様子が、仁にはチャンスに見えた。消極的になった相手は、脅威ではない。大岡も同じように感じたようで、一人ディフェンスラインから離れて中盤で敵のボールを追いはじめた。

 プレッシャーを受けた敵が慌ててパスを出したが、その精度が悪かった。味方がパスカットをすると、一気に攻め上がる。フォワードの遠山がサイドに流れてクロスボールをあげようとしたが、敵ディフェンダーに当たってボールがピッチの外に出た。

 コーナーキック。

 実質的に、最後のチャンスだった。迷わず、仁は前線まで上がった。

 マークしていなかった選手が突然攻撃に加わると、守備は混乱する。ゴールキーパーである仁が攻撃に参加すれば、仁が点を決めるチャンスだけでなく、味方がフリーになるチャンスも増える。

 もちろん、ボールを奪われてシュートを打たれれば、ゴールを守る人間は残っていない。しかし、いずれにしても点が入れられなければ負けなのである。わずかなチャンスでも、得点できる可能性があるなら挑戦する価値があった。

 ボールがコーナーから蹴り込まれる。

 大きくカーブしながら、仁のところに飛んできた。

 仁は痛みをこらえて精一杯ジャンプして、ボールに飛び込んだ。

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