第5話
帰宅した仁は、文絵のことを思い出していた。
導かれるままにラブホテルに入った仁の脳裏に浮かんだのは、なぜか瑠奈の顔だった。瑠奈だったら「会って間もない相手とホテルに入るなんて、フケツ!」と言うに違いない。そう思ったら、急に冷めてきた。
「ごめん、やっぱだめだわ」
そう言ってホテルから出ようとする仁の手を握って、文絵は言った。
「どうして?」
「なんか、無理」
「試してみないとわかんないじゃん。気持ちよくしてあげるから」
「ごめん」
仁はそう言うと、文絵の手を振り切って、ホテルを飛び出した。
チャンスだったという思いは、ある。昔から不思議と女に言い寄られることは多かったが、その相手と付き合いたいと思うことはなかった。もっと相手のことをよく知れば、話は違うのかもしれない。しかし、いつも相手は急速な接近をねらってくる。そのスピードに対応できずに仁が断ると、言い寄ってきていた女たちは、決まって二度と近づいてこなくなった。
その後も話をして、相手のことをもっとよく知ることができていたならば、仁がまだ童貞ということはなかったかもしれない。
自分は、スピードが遅すぎるのだ、と仁は思った。もしくは、臆病なのか。ただ単に理想が高いだけなのか。いずれにしても、仁の思いと女たちの思いがまったく違っていることだけは確かだった。
同級生たちの中にはセックスをしたのしないのという話をする者がいて、うらやましいと感じたことは一度ならずある。しかし、リズム感の違う女を相手にする気持ちは、起こらなかった。
不意に、玄関のドアが開く音がした。
時計を見る。もうすぐ、日付が変わりそうな時間だった。
仁は部屋を出て、階段の上から玄関をそっと見下ろした。スーツに身を包んだ母親の姿が見えた。表情は見えなかったが、どんよりとした疲労感が母親の全身から漂っているようだった。
「おかえり」
母親に声をかけると、急に声をかけられて驚いたのか、母親はびくりと肩をふるわせた。
「なにしてるの。そんなところでコソコソして」
トゲのある声で言うと、母親はそのまま寝室に向かって廊下を歩き出した。いつものことだったが、仁の反応を待つつもりはないらしい。
「おつかれさま」
仁は言ったが、母親からの返事はなかった。
それもまた、いつものことだった。
部屋に引きあげて、ベッドに横になる。世の中が不況なのは、わかっている。同級生の中には、授業料が払えなくて退学するしかなくなった者がいたし、禁止されているアルバイトをして授業料を自力で稼いでいる者もいる。
そんな中で、両親は仁の学費も、サッカーの道具の費用も、不自由なく与えてくれている。その感謝の意味もこめて、仁は親への挨拶を欠かさないようにしているのだ。しかし、その仁の思いは、親には届いていないようだった。
仁はしばらくの間、誰もいない階下を見下ろしながら、母親がたてる物音に耳を済ませていた。ドアを開ける音、バッグを置く音、いずれも大きい。いつもよりも疲れていて、イライラしているようだった。
仁は部屋に戻ってスマホを出して、電話をかけた。
「もしもし」
「どうしたの?」
瑠奈だった。
「別に」
「さては、おばさんの機嫌が悪いんでしょ」
幼なじみは、余計なことまで知りすぎているので困る。
「いや。公園で追い返して悪かったな、と思って」
「ふぅん。何の集まりだったの?」
「それは言えないんだけどさ」
言っても信じてもらえない、というのが正しい。
「あ、そ。教えてくれないなら、今度から夜の練習に付き合ってあげないから」
「そう言うなって。事情があるんだから」
「じゃあ、チョコケーキで許してあげる」
「……太るぞ」
「きーっ」
「人間だと思っていたが、サルだったか。にしちゃあ、このサルはメタボだな」
「そんなに太ってないもん!」
「まあ、太ってはいない。ふっくらは、してるけどな」
「失礼だ。ジンちゃんは、失礼だぁ! これでも、ナンパだってされちゃうんだから」
「ナンパ? それにしては、男っ気のない生活をしてるよな」
「ジンちゃんのせいなんだからね」
仁は思わず沈黙してしまった。自分のせいで瑠奈に男っ気がない、というのは、いったいどういうことだろう? 仁がいるから男をつくらない。それは、瑠奈が仁を唯一の相手と決めている、ということなのではないか?
そう考えたら、胸がドキドキしてきた。
「何か勘違いしてない? 毎日のようにジンちゃんのサッカーの練習相手をしてるから、男の子と付き合ってる余裕なんかないんだよ」
沈黙した仁に、瑠奈が言う。
「そうか……悪かったな」
声を絞り出したが、仁の胸の高鳴りは、なかなか収まらない。
「なによ、元気ないな」
「まあ、いいや。おやすみ」
「寝ちゃうの?」
「ああ」
「もうちょっと話をしようよ」
「なんで」
「だって、ジンちゃんがあたしに電話してくることなんて、めったにないんだもん」
「切るぞ。また明日な」
「ぶー」
「なんだ、サルじゃなくてブタだったか」
「……あー、久しぶりにジンちゃんに殺意をおぼえたわ」
「じゃあな、おやすみ」
「夜道に注意しなよ、ジンちゃん」
「へいへい」
電話を切った。瑠奈と話したことで、少しだけ気持ちは落ち着いていた。ケータイを充電器につないで、ベッドに横たわる。
文絵の顔が、脳裏に浮かんだ。仁が「無理」と言ったときの、すこし傷ついたような表情だった。礼美の顔も、浮かんだ。礼美は、何かに怒ったように、鋭い目つきで仁をにらみつけていた。
瑠奈。笑っている。不服そうに口をとがらせる。そしてまた、笑う。ころころと表情を変える瑠奈は、怒っているときでさえ楽しそうに見える。
瑠奈の顔を思い浮かべて、仁は思わず微笑んだ。
文絵が漂わせているエロティックな魅力もないし、礼美のような完璧な美貌を持っているわけでもない。それでも、十分に魅力的だ。そう思った。
翌日、部活を終えて着替えてから、スマホに知らない番号からの着信があることに気付いた。メッセージも残されていた。
「電話に出なさいよ、このバカ!」
礼美の声だった。しばらく見つめた後で、仁は礼美に電話をかけなおした。
「遅い」
第一声が、それだった。
「部活だったんだから、仕方ないだろ」
「仕方なくない。すぐ来て」
「どこに」
「千駄ヶ谷。東京体育館フットサルコート」
たしか、国立競技場の近くにあるフットサル場だった。練習するつもりなのだろう。
テレビ番組で、礼美がプレーしている様子をちらりと見たことがある。タレントの中ではうまく見えたが、せいぜい「運動神経のちょっといい女子」のレベルである。部活で疲れた体をひきずってまで、一緒に練習したいレベルではない。が、その相手がアイドルの南礼美だとなれば、話は別だ。
しかも、仁は礼美から直接電話で誘われているのだ。驚くべきことだった。
「待ってるから。急いで」
礼美は一方的に言うと、電話を切った。
仁はためらうことなく電車に乗り、千駄ヶ谷に向かった。地図を見ながらフットサルコートの場所を探して行くと、礼美がひとりで待っていた。
「遅い」
「だから、部活だったんだって」
「そうじゃなくて、電話してからここに来るまでが、遅い」
さすがに、ちょっとイラついた。
「知るか。自分の都合ばっか言ってんじゃねーよ、わがまま女」
礼美の表情が一瞬凍りついたかと思うと、みるみる泣き顔になった。
「どうしてそんなに意地悪なこと言うの? あなたに会いたくて電話したのに」
大粒の涙が礼美の目からこぼれ落ちる。泣くとは思っていなかったので、さすがにあわてた。
「できるだけ早く来たんだから、勘弁してくれよ。ごめん。泣くなって」
礼美は涙をぬぐうと、とびきりの笑顔で仁を見た。
「だまされた〜。こう見えてもあたし、演技派なんだから」
「帰っていいかな? 付き合ってらんないわ」
「もう、冗談が通じない人ね。練習に付き合ってくれたら、そのあとは二人でおいしいイタリアンでも食べよ」
礼美と二人きりの練習と、礼美と二人きりの食事。そう考えただけで、仁の胸は高鳴った。わがままで他人を振り回すような言動には腹が立つが、それも許してしまいたくなるような美貌を礼美は持っていた。
「じゃあ、はじめようか。手加減なしで、全部止めるつもりでいくからな」
仁がゴール前に移動すると、礼美はいきなり距離のある場所から鋭いシュートを放ってきた。が、仁は余裕を持ってボールを受け止めると、礼美に向かって投げ返した。
礼美の目の色が、変わった。
ゆっくりとドリブルをしながら近づいてくる礼美に、仁は無造作に近づいた。礼美があわててボールを蹴ろうとしたところを、なんなく押さえる。ボールをすこしはなれた場所に放り投げてやると、礼美は整った顔を紅潮させながらボールを追った。
「さあ、そろそろ本気ではじめようぜ」
仁が挑発すると、礼美は逆に天をあおいで、気持ちを落ち着けようとする。
その隙をついて仁は礼美に駆け寄り、ボールを奪った。
「甘い」
「うるさい」
仁が蹴り返したボールを受け取りながら、礼美が言った。
「来いよ」
ゴールの前で構えながら、礼美に手招きする。鋭いシュート。仁はきわどいところでボールをはじいた。
「どうした、得点王さん?」
「うるさい」
ドリブルでかわそうとする礼美の足元に体を投げ出すと、ボールをおさえた。
「なんなのよっ!」
礼美はいらだちをかくさない。
「冷静さを失ったら、それで終わりだ」
仁は言いながら、礼美のシュートを止め続ける。十数本シュートを打ってはじめて礼美のシュートが決まったとき、礼美はようやく喜びの表情を見せた。
それから続いた練習の結果は、仁のシュート阻止率が九割強であった。
「すごいね、仁くん」
「普通だよ」
「ううん、すごいよ」
礼美が歩み寄ってきて、仁を見上げた。黒目がちの大きな目でじっと見られると、そこに吸い込まれそうになる。
仁はあわてて目をそらした。
「さて、練習は終わった。これから、どこにいくの?」
「ひみつ」
うれしそうに笑うと、礼美は仁の腕にしがみついた。香水と汗のにおいが混ざって、仁の鼻をくすぐる。そのにおいで、仁の理性は大きく揺らいだ。
「シャワーで汗、流していこ」
礼美の言葉に、仁は完全に頭に血がのぼった。
互いに全裸になって、一緒にシャワーを浴びる。グラビアで見かけた礼美の完璧な体を、存分になでまわす。
もちろんそんな夢想はかなえられるはずもなく、二人は別々の更衣室とシャワールームに入った。
「まあ、そんなもんだよな」
仁はのぼせた自分をわらいながら、冷水を頭から浴びた。
「それで、どうしてサッカーをはじめたの?」
パスタをくるくると巻きながら、礼美が言った。
「オリバー・カーンにあこがれて」
「ドイツ代表のゴールキーパーね」
「そう。なんか、ケガとかでぼろぼろになりながらゴールを守り続けてたのが、とにかくかっこよくて。ワールドカップで負けて涙を流しているシーンが忘れられない」
「ゴールキーパーって、珍しくない? 普通なら、フォワードとか攻撃の選手を目指すでしょ」
「各チームに一人しかいない特別な存在なのが、いい。守護神っていう響きもいい」
「やっぱり、仁くんって変わってる」
礼美は笑った。
「そう?」
腹が減っていたので、仁は頼んだカルボナーラをかき込む。その様子を礼美が微笑みながら見ている。
「あたし、男の人が豪快に食べるのを見てるのが好きなんだよね。パスタとか、丁寧に巻いている男って、見てるだけでイライラしちゃって」
「だって、うまいから」
仁は一気に皿をあけた。
「こっちも食べる?」
礼美は自分の皿を差し出した。
「礼美さんはもう食べないの?」
「アイドルもいろいろ大変なのよ。太ったら、すぐにお払い箱だから」
「じゃあ、遠慮なく。礼美さんは、そもそもなんでアイドルになろうと思ったの?」
「歌手になりたかった。歌が好きだったのね。でも、レッスンに行っても、あたしより上手な人はたくさんいたの。でも、いろんな人に、歌よりももっといい道があるって言われたのよね」
仁は礼美が差し出したトマトソースのパスタを口に入れながら、首をかしげた。
「もっといい道って?」
「見た目で売っていけば、十分に芸能界でやっていけるって」
そういう礼美の表情が、それが彼女にとって不本意なことだったと語っていた。
「気に入らない?」
「あたしがやりたいのは、歌だから。水着で写真をとられることでも、バラエティ番組で学芸会みたいなことをすることでも、番組の企画でフットサルをやることでもないの。ただ、すべてのことを手抜きしないで、本気でやり続けていれば、いつか自分のやりたいことができるようになる、そう思ってるから」
「かなうと、いいね」
「そうね。でも、あたしのまわりにいる連中は、どいつもこいつもあたしの見た目がどう、という話しかしない。ぶっちゃけ、ムカつくんだよね。あたしの価値は、見た目だけかって話なのよ。歳をとったら、価値がなくなるの? あたしの外見しか評価しないテレビ業界なんて、あたしはどうでもいいの。いつか必ず、こんな場所から抜け出してみせる」
礼美の言葉に、仁は何と答えて良いのかわからずに、黙っていた。人気絶頂のトップアイドルが、「こんな場所から抜け出したい」と思っていることが、何よりも仁には意外なことだった。
「ねえ、仁くん。あたし、歳をとってしわくちゃになったら、誰からも相手にされない無価値な女になっちゃうのかな?」
「そんなことはない、と、思う」
「仁くんは、あたしのこと、好き?」
「もちろん」
「あたしの、どこが?」
「一生懸命努力しているところ」
嘘である。仁は礼美の美貌に心をひかれているのだが、話の流れからそう言えない状況になっていた。
「本当にそう思ってる?」
礼美は上目遣いに仁を見た。
「もちろん」
しばらく、礼美と仁は見つめあった。
どれくらい時間が経ったかは、わからなかった。ただ、礼美の端正な顔に魅入られたように、眺めていた。
「なに見てるのよ」
我に返ったらしい礼美が頬を赤らめながら目をそらす。
その後の礼美は、終始だまってうつむいたままだった。食事を終えて店を出たあとも、礼美は無口だった。しかし、タクシーに乗って移動する途中で、車の揺れにあわせて礼美は仁にもたれかかってきた。
礼美の手が、仁の手に触れる。やわらかくて、あたたかくて、華奢な手だった。
「今日はありがと。なんか、元気付けられちゃったね」
礼美の香りと髪が覆いかぶさってきた、と思った次の瞬間には礼美の顔が目の前にあって、仁の頬に礼美の唇が押し付けられていた。
仁が状況を理解するよりも先に、礼美は体を離して、もとの姿勢に戻った。
「今のは、ほんのお礼だからね。いつもこんなことをする女だとは思わないで」
混乱した仁は何も考えられず、里見公園の近くでタクシーを降ろされるまで、一度も口をきかなかった。
「じゃあね、仁くん」
手を振る礼美に、無言で手を振り返す。
たとえ頬でも、キスをされたこと自体がはじめての経験だった。その相手が、南礼美だったということが、まるで夢のようだった。
いや、相手がアイドルのレミたんだと思ってはいけない。見た目ばかりをもてはやされることに飽いている様子だった礼美のためにも、彼女のことは人間・岡村礼美として扱わなければいけない。
頭ではそうとわかっていながら、どうしても仁の思考はそこから抜け出すことはできなかった。
レミたんにキスされた……。
そう思いながら、仁はいつまでもその場に立ち尽くして、キスされた頬に触れていた。
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