第4話

 教室で机に頬杖をついていると、頭には礼美の顔が浮かんでくる。

 テレビで知っていた美少女レミたんは、傲慢で口の悪い岡村礼美となって、仁の頭の中に住み着いてしまっていた。

 今週号のマンガ週刊誌のグラビアに載った礼美の水着姿を見て以来、仁の妄想はふくらむばかりだった。

 ほっそりした体にやわらかそうな胸。あどけない顔に浮かんだ、恥じらいの表情。その礼美が、手を伸ばせば触れられそうな距離にいたのである。しかも、今後も顔を合わせることは間違いない。

 もし、彼女の肌に触れることができたら……。

 妄想が卑猥な方向に進みかけた瞬間に、頭を叩かれた。

「こら! ジンちゃん、なんかエッチなこと考えてたでしょ」

 瑠奈である。

「なんだよ。健全な青少年なんだから、エロい妄想にふけるのは自然だろ?」

「でも、そのせいで、授業だけじゃなくてサッカー部の練習まで上の空になったら、意味ないじゃん」

 瑠奈が仁の頭をつついた。

「意味があるかどうかは、俺が決めるよ」

「勉強はいいけど、サッカーに熱中してないジンちゃんは、かっこ悪い」

 幼なじみだけあって、瑠奈は仁が一番こたえるツボを知っている。頭から礼美のことが離れず、サッカー部の練習に身が入っていないのも事実である。監督の西崎には、このままでは次の練習試合のスタメンからはずす、と脅されていた。

「かっこ悪くて結構」

 仁が言うと、瑠奈は驚いた顔をした。

「大丈夫、ジンちゃん。熱でもあるんじゃないの? かっこつけるためにサッカーをはじめたのに」

「人間は変わるもんさ」

「うえっ、ジンちゃん、ほんとに大丈夫?」

 瑠奈が仁の額に手をあてた。瑠奈の手は、ひんやりとして心地いい。が、仁はそれを振り払う。

「触らないでくれたまえ。瑠奈くん」

「なによ」

「俺は下賤の者に関わっている暇はない」

 瑠奈は目を見開いた。

「こんなキュートなあたしをつかまえて、下賤だって」

「下賤を下賤と言って何が悪い?」

「あたしが下賤なら、上品なのは誰なのよ」

「たとえば……南礼美とか」

「っ! アイドルっ! ジンちゃんがアイドルに夢中っ!」

 瑠奈が大きな声を出したために、教室内の注目が集まった。

「サッカーバカの入江くんがアイドルに夢中になったって?」

「だれだれ?」

「南礼美だって」

「うわ。また、ベタなところに行ったなぁ」

「くっ、ライバル出現か。レミたんは渡さないぞ」

「おまえじゃ入江に勝てっこないって」

 勝手に盛り上がり始めたクラスメイトたちを無視して礼美の顔を思い浮かべていると、その夢想を再び瑠奈が破った。

「仁ちゃん、本当に大丈夫?」

「大丈夫だよ」

 仁は周りの騒々しさに耐えかねて、カバンを持って席を立った。

「どこ行くの?」

「サボリ」

 仁は短く言い残すと、教室を出た。そのまま屋上に出て、カバンを枕にして仰向けに横になる。

 青空に、薄く雲がかかっている。

 頭に浮かんでくるのは、礼美のことと、とりあえず次に会ったときにどういう口実で彼女のメアドをゲットするか、ということばかりだった。


 インターハイ予選前の最後の練習試合は、前回と同じように格下の高校が相手だった。その試合で、仁はスタメンからはずれたどころか、ベンチからもはずれてしまった。

 スタンドに憮然と座って、仁は試合を見ていた。

 三対〇と味方のリードでハーフタイムに入ると、西崎がスタンドに近づいてきて仁を手招きした。

「なんすか」

「スタンドから見て、今日の試合はどうだ?」

「別に、なんでベンチからはずれたか、そればかり気になってます」

「おまえがスランプだからだ」

「調子はいいです」

 そう言い返したものの、練習に集中力を欠いていたことは自分でもわかっていた。

「女だろ?」

 西崎がにんまり笑う。

「はぁ?」

「好きな女でもできたんだろ。女のことが気になって、集中できてない」

「勝手に決め付けないでください」

「いいか。ひとつのことに集中できないやつは、他のことにも集中できない。サッカーに集中して楽しめるやつは、女にも集中できて楽しめる」

 西崎に返す言葉がなく、仁は黙っていた。

「サッカーでかっこいいところ見せて、その女の心をがっつりとつかんでみせろ」

「そう言うなら、なんでベンチからはずしたんすか」

「頭を冷やして、冷静に試合を見るんだ。俯瞰の視点で試合を見て、自分ならどうコントロールしていくか、考えろ」

「……はい」

 仁はそう答えたものの、頭に浮かんでくるのは礼美の顔ばかりだった。

 試合は五対一で終了した。仁は体を動かし足りないせいで、力をもてあましていた。瑠奈に電話をして呼び出し、夜の里見公園で練習をはじめた。

 ゴールに見立てたフェンスに、瑠奈がボールを蹴りこむ。それのシュートを、仁が横っ跳びで止める。

 続けているうちに、じわりと汗が出てきた。

「精が出るのぉ」

 不意に声が聞こえて、仁は身をこわばらせた。が、振り返ると同時に悪臭が鼻をついて、仁は声の正体を悟った。

「ゲンさん、おどかすなよ」

「べつに、隠れて来たわけじゃない。気付かないおまえさんが悪い」

「ジンちゃん、誰?」

「ちょっとした知り合い。つか、ゲンさん、何の用?」

 ゲンさんは宝珠を取り出して仁に見せた。

「召集だよ。なんだ、おまえさんは宝珠に導かれてきたわけじゃないのか」

「ただ、練習に来ただけ」

「いい心がけだ。練習をすれば全員がうまくなるわけではないが、うまい人間は全員が例外なく練習を積み重ねてきたのだよ」

 いいことを言っているのだが、においがきつくて仁はゲンさんから一歩離れた。

「みんな来る?」

「そりゃあ、召集じゃからな」

 仁は話がややこしくなる前に瑠奈を家に帰した。なかなか納得してくれなかったが、最終的にはゲンさんのにおいが決め手になったらしく、黙って引きあげた。

 瑠奈の姿が公園から消えるのを見届けてから、仁はゲンさんに向き直った。

「ゲンさんは、何歳?」

「何歳に見える?」

「わかんないから聞いてるんだけど」

 仁はあらためてゲンさんを見た。ぼさぼさに伸びた髪は、白髪がまじっているせいで、もっと年上に見える。年齢としては、仁の父親と同じ五十歳くらいに見える。

「年齢はともかく、まだまだ動けるぞ」

「じゃあ、軽くリフティングでもして見せてよ」

 仁がゲンさんの胸のあたりめがけて、ボールを軽く蹴った。ゲンさんは胸でトラップしたあとで、腿でリフティングをはじめた。

 安定していて、慣れた感じのリフティングである。

 悪くない。と思っていると、ボールを高く蹴り上げて、背面の膝の後ろでボールをはさんで止めた。その足を前に抜くと、ボールを前に投げ上げて、何食わぬ顔でリフティングを再開する。

 仁があっけにとられて見ていると、ゲンさんは落ちてくるボールを足の裏で蹴り、転がしてよこした。

「信じてもらえたかね?」

「少しは」

 仁はボールを足ですくい上げて手でつかむと、ベンチに腰をおろした。ゲンさんが物欲しげにボールを見ているので、転がして渡してやった。ゲンさんはうれしそうにボールを蹴りながら公園の中を走り出す。

 八賢士の仲間がぱらぱらと集まり始め、前回と同じく一番最後に礼美が登場して、全員が集まった。

「種目の変更と、次回を最後の戦いとすることが、承認された」

 大塚が高らかに宣言する。

「試合は二十分ハーフの前後半。基本的には標準のフットサルのルールに準拠する。審判はフットサル場のスタッフに依頼する予定だ」

「これで、やっとこのバカみたいなことから解放されるのね」

 礼美が言う。大塚はその言葉にちいさくうなずいた。

「そうだ。引き分けはなし。前後半で決着がつかなかった場合には、三人のPK戦を行う。三人で決着がつかなかった場合には、サドンデスのPK戦になる」

「そうと決まったら、練習しよう」

「毎日夜八時から、ここに集まれる者は集合して、練習をする。全員参加が必須の練習は、毎週金曜夜だ」

「仕事がある場合には?」

 礼美が言った。

「仕事は休むように」

「簡単に言わないでよね。撮影で海外に行ってるときもあるんだから」

「だが、負けたら隠し金は手に入らない」

「隠し金って、何?」

 仁が眉を上げた。

「前に言ったろう。時価一億ドル相当の、褒賞金のことだ。里見家、北条家の隠し金を、勝者が総取りできる」

「ああ、あの話か。やっぱり、みんな、金のためなの?」

「そりゃあそうじゃ。人生、やり直せるかもしれんしなぁ」

 ボールを蹴りながら戻ってきたゲンさんが、笑いながら言った。

「私は、金のためではない。むろん金は欲しいが、何よりも智恵美ちゃんと一緒にいられる時間が大切なのだ」

 大塚が、ぎらついた目で智恵美を見ながら言った。

「オヤジ、キモい」

 文絵が舌を出した。

「智恵美さん、イヤなものはイヤと言ったほうがいいですよ」

 デブが言うと、智恵美はうつむく。

「ごめんなさい」

 何に対する謝罪なのかわからなかったが、智恵美が消え入りそうな声で言った。

「妻子もちのくせに、智恵美ちゃんを口説くな! クズ!」

 そう怒鳴ったのは礼美で、すばやい蹴りが大塚の股間にヒットした。白目をむいて昏倒する大塚を見ながら、居合わせた男性陣は全員が複雑な表情をした。身から出たサビともいえるが、股間を蹴られた痛みは想像するだけでつらくなる。

「女ってやつは、あの痛みを知らんのじゃよ……」

 ゲンさんが悲しげに首をふった。

「いいから、練習をはじめるよ。まずは、素人に基礎を教えなきゃ。ゲンさん、そこのガリデブコンビを教えて。エロオヤジが復活したら、一緒に。智恵美ちゃん、文絵ちゃんを教えて。入江くんは、あたしのシュート練習に付き合って」

 突然の指名に、仁は驚いて自分自身を指さした。

「俺?」

「そう。キーパーなんでしょ」

「まあ、そうだけど。でも……」

「なによ、はっきりしない男ね」

 礼美が仁をにらみつける。

「そもそも、ボールが足りないんだけど」

 仁が持ってきたボールは、ゲンさんが蹴っている。他にはボールがない。

「じゃあ、買ってきて」

「え?」

「サッカーボールも買ってこられないの」

「こんな時間にはあいている店がないと思うんだけど」

「じゃあ、今日の練習はナシね。入江くん、ケータイの番号を教えて」

「え?」

 仁は何を言われたのかが一瞬理解できず、ぽかんと礼美の整った顔を見た。

「ほら、はやく」

 礼美がスマホを出して、ぶんぶん振った。

「あ、ああ」

 仁は自分のスマホを出して操作して、番号を表示した。

「言っとくけど、練習のために番号を聞いてるんだから。勘違いしないでよね」

 番号を打ち込みながら言う礼美の弁解がちょっとおかしくて、仁は微笑んだ。

「はいはい。わかったよ」

「なによ。信じなさいよ」

「はいはい」

「……はい、登録完了。じゃあね」

 礼美は何事もなかったように仁に背を向けると、大股で立ち去った。

 仁は礼美の連絡先を手に入れたわけではないが、礼美が仁の連絡先を知ったのは事実だった。いつか礼美から連絡がくるかと思うと、仁の胸ははずんだ。

「礼美ちゃんと何を話してたの?」

 文絵だった。

「べつに」

「ほんっと、勝手だよね。何様のつもりだろ」

「大塚のおっさんだって、仕切ってるだろ」

「だって、大塚さんは今の八賢士の中で一番の古株なんだから、いろいろ指示するのが当然じゃん。でも、礼美ちゃんは、ただアイドルだっていうだけで、あんなに偉そうにしてるんだから。感じ悪ぅ」

「俺は大塚さんも、礼美さんも、どっちも勝手だとは思わないけど」

「へぇ。そうなの」

 文絵は口をとがらせた。

「そうだよ」

「ねえ、それより仁くん、これから時間ある?」

 仁はスマホで時間を確認した。夜九時。

「あるけど、何?」

「じゃあ、ちょっと付き合って」

 文絵は仁の腕をとると、歩き始めた。やわらかい文絵の胸がひじに押し付けられて、仁は顔が火照るのを感じた。

「練習は?」

「智恵美ちゃんは、用があって帰らなきゃいけないの。だから、今日はなし」

 反発していながら礼美の仕切りに素直に従っているところが、なんともおかしかった。

「それで、どこ行くの?」

「ないしょ」

 文絵は笑った。

 二人で一緒に電車に乗って、文絵しか知らない目的地に向かう道中、文絵はしきりに仁に話しかけてきた。

 テレビドラマの話。ファッションの話。ケーキがおいしい店の話。サッカーばかりやってきた仁にとっては、異次元の体験といって良かった。テレビも見ないわけではなかったが、ほとんどは録画した海外サッカーの試合を見るばかりである。ドラマも、それに出ている俳優もあまり知らないし、女性のファッションについてはまったく理解できない。ケーキが人気の店に行ったが店員の感じが悪かった、という話にいたっては、どう返事をして良いのかさえわからず、あいまいに相づちを打つことしかできなかった。

 電車を降りてからも、仁はなかなか会話が成立しない違和感を感じながらも、文絵に腕をとられたまま歩いていた。

 腕に伝わってくる文絵の体温が、じわじわと体の芯にしみこんでくる。日ごろ瑠奈とじゃれあって触れ合うのとは異質の、どこか居心地が悪い、どうしていいのかわからなくなるような感じだった。

 心地よいか不快かでいえば不快なのだが、だからといって腕をふりはらいたいかというとそうでもない。不思議である。

 上の空で聞いていた文絵の話は、いつの間にか話題が文絵のアルバイトの話になっていた。服屋の店員をしているらしい。仁を見ながらしきりに、明るい色の服が似合うはず、だの、帽子をかぶってみたらどうか、だのと言っている。

 もともとサッカーにしか興味のない仁は、ファッションがどうこう言われても困る、というのが本音だった。

「いいよ、服を買うようなお金もないし」

「でも、ぜったいに似合うって。仁くんはかっこいいから」

「だから、俺、サッカー以外に興味ないし」

「女の子にも興味ないの?」

 文絵の問いに、仁は言葉につまった。

「そりゃあ、興味ないわけじゃないけど」

「でも、童貞」

「だから、なに」

 すこしいらだって仁は言ったが、文絵は静かに微笑んだだけだった。

「仁くんの童貞、あたしにちょうだい」

 微笑みながら文絵が指した先には、ラブホテルのネオンが輝いていた。

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