第43話
〈東学〉
最高だ。何だこの都合の良い展開は。
一通り喜び合った後で、俺は何というか安心で脱力していた。父を説得しなくてもいいという安心と、これからは何が何でも十位以内を狙わずとも大丈夫になったという安心。
胸のつかえが取れたようで、ホッとする。
「……ってあれ、神保さんは?」
そうだ、神保さんの姿が見当たらない。舞歌さんと一緒に部室から離れていると言っていたはずだが、それならば何故舞歌さんと一緒に部室にやって来なかったのだ?
「あ。そうだったそうだった、ゴメン東君」
舞歌さんが思い出したように、軽く両の手の平を合わせる。
「可奈江は気付かれてないって思ってるっぽいけど、文芸部を同好会に格下げしようと申請してたの、実は可奈江らしいんだ」
「え?」
緩くなった心が急に締め付けられる。
「よくよく考えてみれば、こんな時期にわざわざ部活動の編成なんてするはずないでしょ? 多分、可奈江が東君のために裏で色々やっていたんじゃないかな?」
「そんな……」
二の句が継げない。
俺は神保さんの力を借りてここまで来た。相手に自分の思いを告げる勇気も、相手の奥にまで踏み込む度胸も、全ては神保さんが与えてくれたものだ。
それだけで、それだけでもう充分なのに……
俺の負うべき重荷さえ、貴方は取り払おうとするのか。
「……神保さんは、今どこに」
掠れた声で、俺は舞歌さんに神保さんの居場所を尋ねる。
ただ、神保さんに会いたかった。会って、お礼を言いたい。いや、お礼だけじゃない。もっとこう……とにかく何でもいい。とにかく何でも良いから、神保さんに会いたい。
「視聴覚室。多分そこで可奈江、東君のテストから、採点の不備を探してるんじゃないかな? 行ってきなよ、可奈江もきっと喜ぶ……ってちょっと人の話は最後まで聞いてよ!!」
俺はもう既に舞歌さんが言い終わる前に、部室を飛び出していた。廊下を曲がり、階段を二段飛ばしに上る。サンダルのような上履きが速度を鈍らせ、それが余計に俺を焦らす。
「(神保……さんッ!)」
……どこまでも素直に自分の感情を表現できて、敵も多いであろう女の子。
……いつだって俺の側にいてくれた、恩人でもあり想い人でもある女の子。
……俺の憧れ、強く美しく清らかで、こんなにも愛おしい、女の子。
やっぱり俺には、小説の才能がないのかもしれない。
だって、『ありがとう』以外に言葉が浮かんでこないのだから。
「ハッ……ハッ……!」
俺は息を切らしながらも、神保さんのいる視聴覚室へと辿り着いた。二、三呼吸の後、ノックもせずにがらりと扉を開ける。
そこには。
「……どうしたのよ、東君? 別にあなたのテストを見て楽しんでいるわけではないから安心なさい」
神保さんは、突然の邪魔に怪訝な表情を作る。その声、その口調。挙動に容姿まで、全てが神保さんで、何故だかとても懐かしく感じられた。
いけない。この胸の高鳴りが、俺を神保さんへと引き寄せる。要は神保さんにもっと近づきたいという衝動が、体の内から溢れ出ようとしているのだ。
「あ、あのっ……その………」
「……その面倒な性格を直しなさいと言った私の発言を覚えているかしら? 全く、折角決闘にまで発展しそうな雰囲気だったというのに。いっそ、性格を根本的に殴られ直されて来れば良かったものを」
ここまで走ってきたはいいものの結局言葉に詰まる俺を見て、神保さんは呆れたように溜息をついた。そしてからかうような表情を作り、
「で、今のあなたは一体誰なのかしら? 人を信じられない最低の『人間』? それとも……?」
「人を信じることを学んだ、普通の『人間』です。……って、自分でそう思っているだけで、実際に証明しろと言われたら何も出来ないんですけど」
「別にそれでいいわ。あなたが『人間』から更に堕ちようと、あなたには既に信頼できるパートナーがいる。違う?」
俺を試すような神保さんの表情はとても優しく、俺はつい甘えてしまいそうになる。
だが、それじゃあ駄目なんだ。俺は椅子に座って俺を見上げている格好の、神保さんの目を正面から見る。
「あ、ありがとうございました! その……色々とお世話になって……本当感謝しています!!」
「……。はぁ……」
「へっ!?」
「いえ、あなたって本当に今まで何もやってこなかったのね。純粋というか何というか……馬鹿なの?」
半眼で神保さんは返す。馬鹿? え、馬鹿!? と、突然の馬鹿発言に俺がオロオロと何も出来ないでいると、
「……訂正。馬鹿正直って意味ね? そんなに落ち込まれるとこちらが困るわ」
「ぁ……はい……」
何だかお礼を言いに来たつもりが、こっちが逆に慰められてしまった。恥ずかしくなって、また黙り込んでしまう。
すると、神保さんから何やら紙束を手渡された。俺はそれを受け取り、内容を確認する。
「解答用紙よ。採点の曖昧な所をチェックしておいたから、おそらく順位も十二位から七位辺りには上がるんじゃないかしら。それでも駄目なら私に言って。教師の説得なんて安いものよ」
神保さんは当然とばかりの口調で言う。説明を終えると、筆記用具などを片付けて荷物をまとめ始めた。
だけど。
「何で……ですか?」
「……え?」
「俺、助けてもらってばかりじゃないですか」
つい、そんな言葉が漏れてしまった。自分でも意外なほどに冷静な声だ。
俺は今回の件で一体何が出来た?
ただ俺の所為で周りに迷惑をかけただけじゃないか。
「……何でそんなに、神保さんは強いんですか。結局今回だって、俺はただ神保さんの言うことに従っただけです。……自分の力じゃ、何も出来なかった」
「別に私は、あなたから崇められるほど強くはないわよ? 今あなたが襲いかかってきたら、多分抵抗さえ出来ないと」
「肉体面の話じゃありませんッ!」
ほら、駄目だ。神保さんは何も悪くないというのに、俺は一人で勝手に感情を高ぶらせている。やっぱり『人間』になれたとしても、心の弱さは変わらないのだろうか。
「……何でそんなに突き進んでいけるんですか? 羨ましいですよ、あなたに追いつこうと頑張っても、とても届かない……」
普通の『人間』になったら、少しは近づけると思ったのに。
憧れに、手が届くかもと希望を持てたのに。
それでも貴方は、悠然と俺の上をゆく。
「……すみません、わけの分からないことを。今のは忘れて下さい。いえ、ちょっと色々あって気が動転しているんですよ。あはは、おかしいな」
どんな誤魔化しだ、これではただの変態ではないか。
余計に気まずくなる室内。窓は開いているのに息苦しく、何を見ていればいいのか、これから何をしたら良いのかが全く分からなくなる。
「……あなたは私に追いつきたいの? 何故?」
椅子に座り直した神保さんが、幼児や児童を相手にするかのように、優しく発する。
「……神保さんのことが……すっ、好きだから、です……」
思えば、俺がこうしてはっきりと想いを伝えるのは初めてのような気がする。実際にこの想いはもうとっくにバレていたはずだ。けれど、やっぱりいざ実際に告白するのはかなりの勇気が要る。心臓が押し潰されるかと思った。
「神保さんは、ずっと俺にとって憧れでした。……俺は、貴方と同じ場所へ行きたかったんです。そこで貴方と同じものを見て、同じものに触れて、そうやってずっと一緒にいたかった。貴方と同じ所へ行けば、それが叶うと思ってた……叶うって信じてた」
もう、最も恥ずかしい部分は言い終えた。後は感情のままに、想いのままに、それを言葉にして伝えるだけだ。
「身勝手なのは分かっています。……けど、ズルいですよ。……こんなことまでされちゃあ、もう……!」
言葉に出来ない。つくづく俺に小説は向いていないと、嫌になるほど思い知らされる。
「壁が……高すぎますよ……ッ!」
解答用紙の束はグシャリと握りつぶされ、俺の同様具合を示す。支離滅裂で、つい先ほどまで同好会の件で喜んでいたあの頃が、遠い昔のように思える。
全く何なんだ。何日か前まで俺は人の温もりに飢えていたはずなのに、今やその温もりや優しさが、俺から何かを奪っていく。
ままならない。ままならなくて、どうしようもない苛立ちがむんむんと溢れ出てくる。
………。
……ん?
というか待てよ。
そもそも神保さんと同じ所へ行きたいという想い、俺はいつ持ったんだ?
確かに神保さんは俺の憧れだ。だが、俺はその人に追いつこうなどとは果たして思っていただろうか。俺はそんな傲慢な想いを、今まで持っていただろうか。
と、そこで耐えられなくなったのか、神保さんが突然吹き出した。
「ぶっ……ハハハハハ!!」
……は?
何が楽しいのか、普段の彼女を知る者ならば相当な困惑を覚えるであろう大笑い。勿論そこには俺も含まれるわけで、シリアスな雰囲気をブチ壊されたことへの怒りも入り混じり、俺の機嫌は更に悪化する。
「ハハハッ……ハァ、ハァ。ごめんなさい、久々に笑わせてもらったわ。いえ、気持ちは分かるつもりよ。今あなたは私に対して苛ついているのでしょう? でも……フフフハハハハハ!!」
神保さんは俺の顔を見ると再び笑い出した。面白そうな、幸せそうな、とにかく大人に近づくにつれ失われる純粋さのようなものが、そこにはあった。だけど今の俺には、それが何だか嘲られているかのように感じてただただ不快になるばかり。
俺はそれを止めさせようと息を吸い込む。だが、それを吐き出すより先に神保さんが口を開いた。
「あなたはどうしてそんな想いを抱いたの?」
「どうしてって……それは」
「私と出会ってから一ヶ月間、ずっとそんなことを考えていたわけではないでしょう?」
答えに詰まる。それはさっき俺が抱いた疑問とドンピシャで、解答を知っているかのような神保さんの調子につい呑まれてしまう。
「それはあなたが普通の『人間』になれたから。最低から普通へと行くことが出来たから、ついつい思考が上を向いてしまっているのでしょうね」
全てを知っているといった神保さんの表情にからかいが交じる。俺の変わり様を面白がっているのか、口の端がつり上がっていく。まさか神保さんはこうなることまで見越していたのだろうか?
「忠告。自惚れないでね、あなたは普通の『人間』といっても、つい先ほどまではただの屑だったの。根本的な所はまだ最低辺かもしれないのよ? 『俺は人間だ』、だなんて決して誇っては駄目」
神保さんは人差し指で俺を差す。
俺は何も言えなかった。
「では、そろそろ戻りましょう。あなたは部室に来なくていいから、早めに採点し直してもらいなさい」
神保さんはそう言い残して視聴覚室から出ていった。そして今、この場にいるのは俺だけとなる。神保さんの足音が聞こえなくなると、周囲の音は全て消えた。
「……ふぅ」
俺は壁に体を預け、深いため息をついた。全身から力が抜け、そのまま壁を背にして蹲る。夕日の陰となっている床は冷たかった。
……敵わない。
俺は俺で真剣に悩んでいたはずだ。それこそ我を失うほどに、心情を洗いざらいぶちまけた。圧倒的な無力感や、絶望。まるで世界が終わってしまうかと思うほどに、それは強烈な想いだった。
なのに今はどうだろう?
神保さんに一笑に付され、その想いは空気が抜けるかの如く消えていってしまった。
『自惚れるな』。確かにそうだ。俺はどこかで浮かれていた。ひょっとしたら俺は、このまま更に高みへと昇れるのではないか、高次の存在へと成れるのではないか、そんな想いがなかったとは言い切れない。
あぁ、醜い。
普通の『人間』になろうが所詮は『人間』。俺が醜いことに変わりはないはずなのに。
「……ん」
先ほどまで神保さんが座っていた椅子に、俺はもたれるようにして頭を乗せる。そのまま顔を押し当て、鼻で息を吸う。微かに残る温もりと、神保さんの香り。誰も咎める者はいない。一人であるからこそ出来るこの幸福な時間に、まどろみそうになる。
(……そっか、フラれちゃったか)
思い浮かべるのは、今まで想ってきた憧れの先輩。
間接的ではあるが、俺は確かに神保さんにフラれた。
神保さんに追いつこうと上を向いた俺を、否定された。俺の欲を『自惚れ』と断罪され、笑われた。
だが、重要なのはそこではない。
重要なのは、俺が今、悲しんでいないということ。
今俺の心で木霊するのはそう、『間接的』という部分。
神保さんはいつだって正直だ。好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。嫌であればそれをバッサリと切り捨てるし、好きなものには飛び切りの愛を向ける。
そんな神保さんが、俺を『間接的』にフッた?
俺が想っていた神保さんは、こんな風に回りくどい真似をする人だったのか?
俺は、神保さんの素直な言動にこそ惹かれたのではなかったのか?
憧れは勝手に落胆へと変わり、好意は漠然と消え失せる。
恋って何だ? 好きって何だ? 愛って何だ?
「んぅ……ぁ……」
俺は椅子に舌を這わせてみる。神保さんの味なんかするはずもないのに、そこに愛した人はいないのに、不思議と止められなくなってしまう。
誰か教えて欲しい。
『人間』って何だろう。
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