第28話
〈東学〉
「……ハッ!」
悪夢から覚めたかのように、俺は勢いよく起き上がる。
「あら、起きた?」
神保さんがパイプ椅子に座り、本を読んでいた。
「時刻は午後六時。気絶していたのは三十分程度ってところかしら」
待っていてくれたらしい、神保さんは本を閉じて、それを鞄にしまう。
「詳しくは言わないけれど、取りあえずそろそろ純情少年は卒業しなさい。気絶とか、心に余裕のある時は存分に楽しめるけれど、生憎今はそうでもないの」
呆れたような口調。いや、実際に呆れていることだろう。
神保さんはベッド脇に置いてあった体温計を手に取り、俺へと渡す。
「測りなさい。でもまぁ、顔色からして今日は帰れないでしょうけれど」
冷たい体温計だった。俺の体温が常時より高いからだろうか?
受け取った体温計で体温を測りながら、俺は神保さんと何を話したものか悩んでいた。僅か数分の短い時間がこんなにも気まずいだなんて、全く人とのコミュニケーションは難しい。人以外の動物や植物であれば、こちらが情報を発信するだけで済むというのに。
するとどこからか、無機質な携帯の着信音が鳴った。俺は携帯を持っていないので、神保さんのものだろう。
「あれ? 確か病院内って原則携帯禁止のはずじゃ……」
だが、俺の疑問に対して神保さんは全く意に介さずに、
「そこまで大きな病院でもなし。携帯の電波でおかしくなるかもしれない大層な医療機器なんてここにはないわ」
とだけ言って平然と携帯を開く。……神保さんが言うのであればそうなのかもしれない。以前に神保さんは人が大っ嫌いとも言っていたが、だとしてもそれを理由に人に迷惑をかけるような馬鹿な真似を神保さんがするとも思えない。多少は不安だが、大人しく黙っていることにしよう。
そして神保さんは携帯を開いて数秒ほど硬直し、それを勢いよく投げつけた。
俺に向かって。
「のぅわっ!?」
俺の顔面約二十センチ手前で、反射的に出した腕がそれを弾いた。進行方向を変えた携帯はそのまま床を滑る。突然の無理な動きに脈拍は大きくなり、頭がまるで音の出ない鐘のようにぐわんぐわんと痛みを伝える。
神保さんは息が荒く、体がぷるぷると震えていた。
「……」
嵐の前の静けさ。こんなに取り乱している神保さんは初めてだ。その姿に、いつもの冷静さはない。
「…どういうこと……」
始まった小さな呟きは、クレシェンド記号のように大きくなっていく。
「どういうことよ、どういうことよどういうことよどういうことよ!!」
頭を掻き毟り始めた神保さんに、俺はいよいよ恐怖を覚える。
「神保さんストップ! 感情的になるだけじゃどういうことなのか分からないままですよ!」
俺は神保さんを肉体的に押さえ、そして同時に精神的にも抑えようとする。本来ならば合法的なボディタッチに興奮も出来るのだが、神保さんの動きを制限するのに手一杯でそんなことを楽しむ余裕はない。
「どうかしましたか?」
そんな状況に何事かとやって来た看護師に、俺は助けてくれと目力で精一杯頼んだ。だが、看護師は俺たちを見るとグッジョブと親指を立てて、静かに去っていってしまった。
再び神保さんと二人だけになる。嬉しいような心細いような、とにかく今神保さんを止められるのは、自分の力のみ。
「誰か来てくれーーーっ!!」
助けを求めた声は喉の痛みによって掠れ、それが誰かに届くことはなかった。
「……ごめんなさい、取り乱したわ」
「いえ……」
数分後、ようやく落ち着きを取り戻した神保さんは素直に謝ってくれた。仮にも俺は病人なのであって、その病人に負担をかけてしまったことにも色々と感じるところがあるのかもしれない。
「……で、何かあったんですか?」
その話題は今すべきではない気もしたのだが、俺は気になってつい尋ねてしまった。
「……ん」
神保さんは、床に転がったままの携帯を目で示す。『見ろ』ということなのか、俺は神保さんの表情を今一度確認しながらそれを拾う。
神保さんの携帯は簡素というかシンプルというか、キーホルダーなどの類いは見られない。また外装もキラキラと光を反射するようなものではなく肌色に近い。
他人の、それも異性にやすやすと携帯を見せても良いものかと思うが、それも神保さんらしくて何だかほっとしてしまう。きっと人に見られて困るような情報は入っていないのだろう。
「うがッ……」
だが、俺の予想に反して中々カオスな待ち受けが俺を待ち受けていた。
そこには様々な舞歌さんが、様々に貼られている。制服姿の舞歌さんやスクール水着姿の舞歌さん、撮影場所も学校からショッピングモールに夏祭りの会場、果てはどこで撮ったのか、舞歌さんの寝姿もあった。
いきなりの衝撃にどうしていいか分からなくなっていると、
「あまり見ないで欲しいわね、マナーを覚えなさい」
神保さんは静かに、見るなと諭す。さすがに恥ずかしくなったのかとも思ったが、違う。おそらく自分以外の人間に舞歌さんを見られたくないのだろう。独占欲といったところか。
「最新のメールを開いて」
「いえ、俺携帯持ってないので操作の方はちょっと……」
俺がそう言うと、神保さんは溜息をついて俺から携帯を取る。
「はい」
数秒の後、神保さんは画像付きのメールを開いた状態で、携帯を俺に突き出す。
画像には、左顔面を腫らした舞歌さんと、照れくさそうにしている奏太が映っていた。
メールには、『初めまして、今日からよろしく!』との短い文。
「……何これ?」
何か勝手に突き進んでしまったらしい二人。思考が追いつかず、置いてけぼりにされた感が半端ない。どういうことよ?
「……それが分かったらあんな騒ぎは起こさないわ。その様子だと、あなたも何かを知っているというわけではなさそうね。」
神保さんはそう言って、
「では、今から風見奏太の家を襲撃しようと思うのだけれど、力を貸してくれないかしら、東君?」
俺をちらりとも見ずに仰天台詞を続け、病室を出て行こうとする。
「いやいやいやいやいや、まずは舞歌さんに何があったのかをメールなり電話なりで確認するとかにしましょうよ! 明らかに舞歌さんは暴力を振るわれた形跡がありますけどやっぱり俺としては暴力ってイケないと思うんですよ!!」
俺は慌てて神保さんを止める。まるで身勝手な王様のご機嫌をとったりなどして王国の平和を陰ながら守っているお付きの人のようだ。疲れる。
「少なくともこの写真の舞歌さんは何かを求めているようには見えないでしょう? つまりは彼女は今とても精神的に満たされた状態にあるということです。それを一時の感情によって崩してしまってもいいんですか? 大事なのは今この状況をしっかりと把握し、それに合わせた最適な選択をすること。違いますか?」
「……うるさい」
苛立ったか、神保さんはその短い言葉と共に殺気を見せる。
十センチほどの高さから、神保さんの細く尖った足が俺を狙う。…だが、この攻撃はもう経験済み。これを受けて以来、嬉しくて嬉しくて何度脳内で一連の動きを再生したことか。あの時と全く同じ動きは、すなわち俺にそれを避ける可能性を大きく広がらせる。あの快感を今再び味わえないのは残念だが、それ以上に神保さんの狂気を静めることが先決だ。
俺は足をずらし、神保さんの攻撃を躱す。攻撃のために重心の置かれた神保さんの右足はそのまま軸足となっており、俺は優しくその右足に自分の足を引っかける。
神保さんの体は崩れ、横向きに倒れようとする。
「と」
俺はそれを支え、そのままお姫様だっこの形で神保さんを抱え、病室の椅子へと座らせる。
「冷静になって下さい。こういう時こそ普段のそれが求められるんです」
こういうのはたとえ嘘でも、相手の目を真っ直ぐ見て言えばそういうものかと思わせることも出来るはずだ。
俺は驚きに目を見開いている神保さんの、その更に目の奥をのぞき込むかのようにして言葉を放つ。
「人が嫌いだと言うのなら、まずは全てを疑ってかかるべきです」
と、俺は結構格好つけたつもりだったのだが、
「で、先輩に対して足を引っかけたことについての謝罪はまだ?」
神保さんはまだそのことを引き摺っているようで、全然ときめいたりはしてくれなかった。
それにしても……俺、咄嗟とはいえ神保さんを……お姫、様、抱っこ……。
柔らかで華奢な体躯。細く、軽いながらもしっかりとした重み。体に触れた部分が決してその感触を忘れまいと、必死になって活動を開始している。暗くて真っ黒なのに、どこか温かみのある、安らぎをくれる匂い。その全てが神保さんで、その全てが俺を獣へと堕とそうとする。
しかし神保さんに、それについての変な意識というものは全く見られず、
「あなたの言ったことが本当なのであれば私も下手な行動に出るのは憚るけれど…その前にまずあなたが信用に足る人物かどうかが問題なのよね」
さらりと、遠慮もなく部活の後輩への信頼を否定した。
「いや、そこから疑い始めたら駄目ですって。いくら『全てを疑ってかかるべき』と言っても、実際にはそんなこと出来るわけないんですから」
「……じゃあ、あなたのことは信じてもいいの? 心から、あなたの言ったことは全て真実だと決めつけて動いていいの?」
神保さんは目を細めて俺に問うた。それはまるで粗いヤスリが俺の心臓を削り取っていくかのようで、神保さんの言葉は心臓の表面を削り取った先にある、俺の心の奥底というものを痛みと共に掘り起こす。
「ごめんなさい、屁理屈を言ったわね。……だけれども、どうもあなたは中身がないというか、はなから裏切られることを前提として動いているかのように見えるから。やはりこちらとしても、そう簡単にあなたを信じ切ることが出来ないのよ」
何気ないその言葉が、衝撃と共に襲いかかってくる。
「……そう、見えますか?」
その震えた声が、まさしく神保さんの言葉が図星であるということを証明する。神保さんも不審に思ったのか、「?」と、疑問符を抱えるように首をひねる。
「ごめんなさい、何か気に触ったかしら?」
「……」
沈黙は肯定を意味し、そして更なる沈黙を作る。
俺は、自分を最低の最低だとここ最近から特に思うようになっていた。
だがそれは結局、自分が勝手に見えない自分を評価しているというだけで、実際は自分を否定する自分というものにただ酔っていただけなのかもしれない。
だって、今の俺はとても悲しいから。
言われた相手が神保さんだからというのも、勿論あるのだろう。
ただ、自分で自分を卑下するのと、他人から実際にそれを言われるのとでは、心に負うダメージの桁が違ったというだけの話。
そう。
俺はいつの間にか、涙を流していたのだ。
「…こちらとしてはとても困る状況にあるから、早く泣き止んで欲しいのだけれど……」
言葉遣いこそいつも通りだが、そこにいつもの神保さんはいない。妙に早口、そしてとても困惑した表情で、目があちこちを移動している。
「ねぇ、お願いしますどうか泣き止んで下さい何でもしますから」
とうとう敬語でお願いまでされてしまった。しかも何でもしてくれるらしい。
「いえ、神保さんに責任はないので…ちょっと待って下さい」
俺は手の甲で涙を拭い、気持ちを落ち着ける。
「……何かあったのなら話してご覧なさい? それだけでも充分に安らぐはずよ」
神保さんは優しさや慈愛の目で俺を気遣い、温かく俺の心を溶かす。
神保さんは俺が気絶から目覚めるのを待っていてくれたことからも分かるように、基本的に面倒見が良い。まぁそれはある程度心を許した身内にだけなのだが、そのことが『選ばれた』という事実として俺を祝福する。
そして、その優しき神保さんでも薄々感じていたという俺の本質が、重く、深く俺に刺さる。
「……聞いていて楽しい話じゃないですよ?」
「つまらなくなければそれはそれで楽しみようはいくらでもあるわ。幸せな話なら鼻で笑うし、不幸な話なら甘い蜜の味にうっとりしてあげる」
あぁ。
こうして最低な俺は、その優しさに甘えるのだな。
「……阿呆?」
神保さんの優しさに寄りかかってさらけ出した心の内は、そんな返しによってまとめられた。これまでの痛みは、つまりはこのわずか二文字によって表せてしまうものだったのだ。
「あなたもあなたで、ちゃんと『人間』してるじゃない。少し意外だったわ」
「……どういう意味です?」
時刻は午後七時、少し前。完全に日は沈み、窓からは人工の明かりがポツポツと星のようだ。都会とは違う田舎特有の、そこそこ濁った蛍光灯の色。いつもの見慣れた夜景だ。
「取りあえず色々と呆れたから、あなたを一発殴り飛ばす許可をちょうだい」
神保さんは立ち上がって、準備運動か肩をぐるぐると回す。そんな弱々しい腕で一体何が出来るのかとは思ったのだが、ぐるぐるとしている神保さんはとても愛らしいのでそのままスルーする。
「その腐った性根を…叩き潰すッ!!」
そうして決め台詞のようなものをしっかりとキメ、
花瓶を持った神保さんが……来る。
「……え?」
花などお構いなし。振り上げたため逆さになった花瓶から水がジャーとそんな感じに辺りを汚し、神保さんの制服もすごいことになっている。が、彼女は止まらない。
俺の想い人は、奏太の家を襲撃しようと本気で考えるような人なのだから。
ガシャンと、食器を割ってしまった時の何倍もの音量。顔の横、僅か数センチでの爆発。
「……外したか」
心臓が点になるかとまで締め付けられた俺は、ただ恐怖で動けなかった。思えばよくこんな状態で初撃を避けられたものだと不思議でならない。もし俺が咄嗟に首を傾けずに、そのまま狂気が俺の頭へと直撃していたらと、恐ろしくて全身が震え上がる。
神保さんは無感情な瞳で砕けた花瓶の残骸を放ると、今度はテクテクと新たなる武器を探し求め、そして……
「……見つけた」
さっき俺が使ったものであろう、体温計を彼女は発見した。
「……嘘でしょ……」
何この人、行動が読めない。
……何だかもうどうでも良くなってしまった。常識と非常識との境目があやふやになっていき、インフルエンザで衰弱しきった体が思考停止を求める。
さぁ神保さん、大きく振りかぶってー、
「ふん」
投げたー! ……とばかりに、ダーツっぽく飛んでくる体温計。
俺は先ほどの携帯電話と同様、それを手で弾く。なにぶん二人の距離は十メートルも離れていないので、体感速度はもんのすごく速い。数秒の後、嫌な汗が背を伝うのが分かった。
「……俺、一応は病人だってこと分かってます?」
「大丈夫、手洗いうがいは欠かさないわ」
「そうじゃなくて!!」
という風にうるさく騒いでいると、先ほどの俺を見捨てた看護師が再びやって来た。
「ちょ、何やってんですか! お嬢さん!? 頼みますからこれ以上病院を荒らさないで下さいよもう!」
会話から察するに、神保さんのこのような行為は日常茶飯事であり、院長の娘であることも手伝って色々と好き放題やっているらしい。……神保さんぱねぇ。
しかし当の神保さんは、邪魔をするなとばかりに看護師へと言い放つ。
「お黙り、今いいシーンなの。モブは黙って帰れ」
その台詞にモブは閉口し……何と、すごすごと本当に去ってしまった。……神保さんぱねぇ。
「さて、」
そして神保さんは、ついさっき看護師が出て行ったドアの鍵を締める。
「二人きりね?」
いきなり放たれたラヴコメ臭。しかしその目は笑ってはいない。
つかつかと神保さんはドアの前からこちらへと近づき、そして俺の寝ていたベッドへと腰掛けた。そのまま女王様のように脚を組む。エロい。
「それで、今の私は、君の目にどう映ったかしら? 狂人? それとも女神?」
「……狂人、です」
「そう」
予想された答えなのだろう、神保さんはつまらなそうに短く応えた。
「私はどうも頭の構造が他人と違うらしくてね、よくこういった奇行に出るのよ」
神保さんは花びらや水で汚れた制服を指しながら、不気味な笑みを浮かべる。どこか俺を刺激する、妖艶な笑み。
「まぁだからといって全ての責任が私から逃げていくというわけではないのだけれど、はっきり言って傍から見れば、私はただの迷惑な存在でしかないのよね」
「そ、そんなことは……」
「いいえ、そんなことなのよ」
「?」
「私は、その不適合な部分を社会的評価の高さで打ち消している。本来は馴染めないはずのこの世の中を、地位や名声、成績諸々で誤魔化して生きている、ただそれだけ。人生なんて、そんなものなのよ」
神保さんはまるでそんな自分の生き方を誇るかの如く、腕を広げて口の端を吊り上げる。
「……ここまで言えば、頭の良いあなたなら私の言わんとしていることが分かってくるんじゃない?」
問う神保さんだったが、しかし彼女ははなから俺の答えなど求めていなかったらしく、数秒も空けずに話を続ける。
「甘ったれてんじゃねぇ、って話。人が信じられないだの、完璧主義だの、何だよそれ思春期の妄想日記ですか? 舐めてんじゃねぇ」
極限まで鋭く細められたその目が、静かに怒りを湛えている。
「この世にはテメェの何倍も最低な奴らが、それでも生きようって頑張ってんだよ」
今までに聞いたことのない神保さんの口調。それが彼女の心を表す。
「例えば、瑠衣。あの子なんて、今まで誰にも弱みを見せずに生きてきたの。弱みを見せて誰かを頼った瞬間、それが迷惑をかけてしまった事実として重くのしかかることに耐えられないって……はっきり言って、あの子はあなたよりよっぽど人外だわ」
神保さんは、自分の大切な人を人外と表現した。それは一体、どれほどの痛みを伴った発言なのか、俺には計り知れない。
俺は最低の『人間』だ。
だが、俺は『最低の人間』というだけで、まだ俺の下にはいるというのか。
人の域を超えるとさえ言われる、化け物が。
『人間』を外れた、人外が。
「あなたなんてただの人間不信で片付けられる問題じゃない。そんなことで涙を流すな、そんな軽い問題に涙なんか流すな、私や瑠衣に失礼よ」
放心したかのように、体が動かない。体が固まったまま、ただ神保さんを見て、ただ神保さんの声を聞くことしか出来ない。
不思議だ。
神保さんの言葉一つ一つはとてもキツいのに、そこにはどこか優しさすら感じられる。 神保さんの言葉を聞く度、今までの思いが嘘のように軽くなっていく。
「それでもあなたがそれに縛られて苦しいというのなら、一つ考えがあるわ」
神保さんはベッドから立ち上がり、俺へと近づく。壁を背にして座り込む俺まで目線を下げ、
そして彼女は優しく、そして温かく、抱きしめてくれた。
濡れた制服の、冷たい感触。さらさらとした髪が彼女の背から垂れ、頬に当たる。
「あなたはまだ『人間』。いくらだってやり直せる」
……胸が痛い。
神保さんの優しさが、胸に痛い。
何でこんな俺にまで、貴方は手を差し伸べるのか。
何故再び、俺に普通の『人間』を取り戻させようとするのか。
涙を流すなと言われたばかりなのに、目頭が熱くなって、涙腺が緩んで、
「泣いてもいいわよ」
温かな、言葉。
「今は許してあげる。その代わり、私は絶対にあなたを普通の『人間』に、する。だから今は最低な『人間』としての、最期の涙を流しても構わない。泣きなさい。好きな人の胸で泣くなんて、そう出来る経験じゃないわよ?」
……やはり、俺の想いはバレていた。恥ずかしくて、神保さんを振りほどいて今すぐ彼女から逃げ出したい衝動に駆られる。
だけど、だけど、だけど。
溢れる涙は止まらない。
「……抱きしめて、いいですか?」
「どうぞご自由に」
その日はきっと、俺にとっての転機として、忘れられない日となろう。
こんなに嗚咽を漏らした日も、こんなに涙を流した日もない。
さぁ、もう涙は涸れた。
俺は普通の、『人間』になる。
「……本当に大丈夫なんですか? やっぱり止めましょうって」
「鬱陶しいわね、いいのよ面白いから」
「面白いから!? 遊び半分なんですか!?」
「……うるさい。私のこと好きなんでしょう? だったら私の喜ぶことを喜んでやりなさいよ。それとも私への愛よりプライドが大事なの?」
「ぅ……」
「ほら照れないの、面倒」
「……すみません」
そんなこんなで、神保さんは帰っていった。
取りあえず俺は、明日まで様子見で入院。作戦はおそらく出席停止期間明け、一週間以上も後のこととなるだろう。
「さて」
まずは部屋を片付けなければ。花やら水やら花瓶の残骸やらで、気付けば床はとんでもないことになっていた。
「神保さんが帰ったことぐらい分かるだろうに……まさか看護師め、面倒ごとから逃げてるな」
忘れがちになるが、俺は昨日の晩、インフルエンザで倒れた病人なのだ。暴れる神保さんを押さえたり、神保さんに殺されかけたり、正直熱がぶり返さないのかと不安だ。
「……ふふ」
だがしかし、異様なほどに俺の足取りが軽い。体の内からエネルギーが溢れ出てきて、つんのめりそうになる。口がにやけて、頬が面白いほど持ち上がる。
「……ははっ」
まだ何も変わったわけじゃない。俺はまだ最低の『人間』のままだ。
なのに、神保さんの見せてくれた希望が、こんなにも俺を明るくする。こんなにも俺に元気をくれて、こんなにも俺は幸せだ。
忘れるな。青年に情報を漏らしたのは誰だ? その所為で奏太や舞歌さんはどんな目に遭った?
そうだ、謝ろう。これが終わったら、普通の『人間』になれたら。その時に、本当の友として。
まだ先は長い。つまづいたって、いくらでもやり直せる。
神保さんが、俺にチャンスをくれたから。
普通の『人間』としてこの世を歩ける、そんな夢みたいなチャンスを。
……全く、素晴らしきかな人生は。
とにかく今日は、眠れそうにない。
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