第27話

〈風見奏太〉

 俺はいつも舞歌さんに対してどうしたらいいか分からない時、とにかく彼女を抱きしめることで何とかしてきた。


 俺には関係のないことだと突き放された時も。

 恐怖に舞歌さんが泣きじゃくった時も。


 そして舞歌さんは、その好意に耐えられなかった。押し潰された。

 ならば、同じ事をしても駄目だ。



 まずは、舞歌さんをぶっ飛ばすところから始めようか。



 打撃音。そして、机や椅子が派手にぶつかり、倒れる音。

 俺の拳は舞歌さんの左顔面にぶち当たり、そのまま彼女を後方へと飛ばす。

 青年の時とは違う、心臓が潰れるような痛み。

 無理な動きをした所為で痛んだ左脚をかばい、俺もそのまま崩れるように倒れる。

「……甘ったれないで下さい」

俺は舞歌さんに強い調子で言った。

「自分だけ綺麗なままでいようなんて、そんなのは甘えっす」

 舞歌さんは左頬に手を添えながら、目を見開いてこちらを見ている。

 言葉はない。

「誰だって人を頼って、その分の負い目を背負って生きてるんです。それに耐えられないのは、貴方が『人間』として生きていないからだ」

 だから舞歌さんは、『人間』に生まれ変わりたかった。

 人の好意を心から受け入れられるような『人間』に、生まれ変わりたかった。


「綺麗なままで希望に縋るのは、甘えっす」


 俺は断言する。言葉で、舞歌さんの望みを断つ。断って、完膚なきまでに絶つ。

「じゃあどうしたらいいの!?」

舞歌さんは激昂する。

「君が倒れて、あたしの所為で君が倒れて、胸が張り裂けそうだった!! もう壊れるかと思うぐらいいっぱい泣いて、鎮静剤まで打ってもらった。この先幾つもこんなことが待っていて、あたしはきっと怖くて何も出来なくなる。人の好意を憎んで、憎んで、最後には何も残らなくなる。そんなのは嫌なの!!」

 舞歌さんは手元に落ちていたカッターナイフを拾い上げ、自分の首に添える。

「……何か解決法があるなら言ってよ、ねぇ? このナイフを数センチ動かすよりももっとあたしを幸せにしてくれる、素敵な慰めの言葉を教えてよ?」

渇いた笑顔の上を流れる、大粒の涙。こんなにまで舞歌さんは追い詰められていたのだ。

 俺は、果たして舞歌さんを助けられたのだろうか。

 俺は、これから舞歌さんを助けられるのだろうか。

 ……俺は再び、あの笑顔を見られるのだろうか。


「俺と堕ちましょう、舞歌さん」


 は? と舞歌さんは固まる。

「何度も迷惑を掛け合って、いつしか胸の張り裂ける痛みが麻痺してしまう程に。人に迷惑をかけるのが当然で、感謝こそあれちっとも負い目を感じなくなる程に。そんなどこにでもいる、普通の『人間』にまで堕ちればいい」

 どこまでも綺麗で、華麗で、流麗な輝かしき『天使』。

 俺はそれを、汚く醜き『人間』に堕とす。


「綺麗なままで死ぬよりは、汚くなっても生きられた方がよっぽど幸せだ」


 机や椅子のぶつかるかなり大きな音がしたはずだが、未だに人はやって来ない。学校に通う大半の生徒が帰った後なのだから、それも当然か。

「……『人間』っていうのは、そうやって生きていくしかないんです」

 舞歌さんの手から、カッターナイフがぽとりと落ちる。

 俺はゆっくりと、舞歌さんの元へと姿勢を正し、跪く。そして恭しく、右手を舞歌さんの前へ差し出す。

「もう一度言います、俺と一緒に堕ちましょう」

 自ら汚く生きる道を選ぶことがどんなに大変か、この先に想像も出来ないほどの闇が待っているだろう。

 でも、

「辛かったり、どうしようもなくなった時は、俺を思い出して下さい。どんなに苦しくても、この世界のどこかには貴方と同じような苦しみを背負って汚く生きている『人間』が、一人はいるということを」

俺はただ舞歌さんの目を見つめる。その中に、再び明かりが灯ることを願って。

 その目が今一度、笑うことを願って。

「……」

 音のない世界が訪れる。

 舞歌さんの答えを待つ、感情のない静寂。

「……ゴメン、返事の訂正」

 そして舞歌さんは固まった表情を崩し、脱力したようにフゥと息を吐くと、俺の手を握り、引き寄せ、


 俺の唇に、自分の唇を重ねた。


 神経を最大に刺激する、味わったことのない感触。

 驚愕と衝撃。高揚と興奮。恥じらいと、歓喜。

 数秒の後に舞歌さんはゆっくりと顔を離し、顔を赤らめて言った。

「今のあたしは、『人間』に見えるかな?」

 その数多な感情の入り混じった複雑な表情は、まさしく『人間』の見せるそれだった。

「……これからは、瑠衣って呼んで」

「……はい」

 『これから』という言葉が自殺という選択肢を消し、未来を作る。

 俺たちには、『これから』を生きる未来がある。


 初めまして、瑠衣。

 貴方は汚くて、醜くて、そしてとても愛おしい、『人間』だ。

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