第26話

〈東学〉

 甘えたくなる香りに目を覚ますと、神保さんが俺の目をのぞき込んでいた。

 睫毛と睫毛が触れ合うような、超至近距離。

「……えぇっと」

 神保さんの眼球は全くの不動。ただただ一点を見つめているのか、その視線はレーザー光線のように俺の心臓を打ち抜く。

「現状の説明をしてくれると嬉しいのですが……」

「見た方が早いわね」

 神保さんは俺から数十センチ離れると、俺の襟を掴んで強引に引き起こす。仰向けの姿勢から起き上がった俺は、周囲からここが病院であることを確信する。

「『百聞は一見にしかず』ね。救急車デビューおめでとう」

どうやら朝、俺はあのまま倒れてしまったらしい。空が橙色をしていることから、もう夕方なのだろう。

「インフルエンザだそうよ。『起きたら看護師を呼んで、きちんと熱が下がっているのならば帰れ』と言っていたわ。勿論しばらくは出席停止だけれどね」

「? 何で神保さんが?」

「ここの院長が私の父だから頼まれたというだけよ」

「えぇ!? 初耳ですけど!」

「言ってないもの。全く、あなたがうなされて私の名前を呼んだりするから。余計な仕事が増やされたわ」

神保さんは心底面倒くさそうに愚痴る。

 対して、俺はインフルエンザをも凌ぐ勢いで体温が上昇していく。

 俺が? 神保さんの名前を? 無意識下に?

 急な発熱が俺に混乱を招く。もうどうにでもなれと、いっそ布団に潜り込んで隔絶した世界に生きていきたい。

 だが、名前を呼ばれた天使はそれを許さない。

「……まだ熱いわね。今回はここで夜を明かしたら?」

冷たく、細く、滑らかな神保さんの指先が俺の額に触れる。気遣いの言葉が艶めかしく、『夜』という単語が俺を興奮へと誘う。

「~~~ッッ!!」

 幸せを通り越して、もはや発狂するしか正気を保てない(?)俺は最終手段として、自ら意識を落とすことを選択した。

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