第25話
〈風見奏太〉
テスト初日の放課後、本来ならば部活の開始時間。
文芸部部室。
「見つけた」
俺は一人病院を抜け出し、舞歌さんに会いに来ていた。
「……何で来ちゃうかな」
舞歌さんは呆れたといった風に渇いた笑顔で応えた。その柔らかな手にはカッターナイフが握られており、もう片方の細い腕に添えられている。
「怪我はもう大丈夫なの?」
「元より足の怪我っすから、片足での移動を可能にすれば楽勝っす」
「……そっか」
現に俺がここまで来られたことが何よりの証拠だろう、しばらく舞歌さんは俺の怪我を見つめ、安心したように小さく言った。
俺が何も言わないのを見て、舞歌さんはフゥと、少し長い溜息をついた。
「もう一度告白された所で、私の返事は変わらないよ。女の子を一人助けたからって、そう簡単にモテる理由にはならないんだよ?」
明るさや元気の抜けた声。核心には触れないただの軽口のはずなのに、ちっとも心は和まない。余計に空気を重くしただけの、平坦な声。
「風見君だってさっきは笑ってくれたのに、どうしたの? まだ私に未練でもあった?」
首を傾げ、身をくねらせ、カッターナイフを握ったままの手で口元を隠し、上目遣いに訊く舞歌さん。目は笑っていない。
「……自責の念、っすか」
俺が口を開いた瞬間、舞歌さんは数瞬硬直したように見えた。無理矢理に作った笑顔が人形のように固まる。
「誰も喜ばないっすよ」
おそらくそんなことは舞歌さんだって百も承知だろう。何の効力も持たないただの事実。
「……何でっすか」
それでも俺は訊く。やっぱり俺も、心のどこかではそれを否定して欲しいと思っているのだ。そんな悲しい笑顔も全て演技で、カッターナイフも小道具で、またいつものように俺を魅了して欲しいと願っている俺がいる。
でも、
「……君がそうしてあたしの元に来るからだよ」
どこまでも悲しそうに、舞歌さんは、否定して欲しかった俺の願いを否定する。
「君はいつだって逃げるチャンスがあったの。面倒だったり、怖かったり…でも、それでも、君はついてきちゃうんだもん」
嬉しい、でもその嬉しさが逆に自分を追い詰めてしまうことに耐えられなくなって、どうしようもない。
舞歌さんの表情は、とても分かりやすくそのことを物語っている。
「……俺の好意は、邪魔っすか?」
舞歌さんは、少女と淑女を織り交ぜたかのような仕草で首をフルフルと横に振る。短い髪は重く舞歌さんに付きまとい、風に乗って、甘い香りが俺に届くこともない。
「多分あたしは、人に好意を向けられるべきじゃないの。どうやったって、こんな結果にしかならない。……可奈江はそのことに勘づいているから、ただの友達以上の関係にまで踏み込んでは来ないけど、君は違うでしょ?」
その言葉が、俺の心臓の一点を深く、鋭く貫通する。
思い返せば、俺はいつでも目を逸らすことが出来た。逃げて、忘れて、明日にはまた何事もなかったかのように過ごすことも出来た。
例えば、部室で泣き崩れていた舞歌さんを見た時。
例えば、震える舞歌さんを問い詰めた時。
例えば、小さな舞歌さんを抱きしめた時。
例えば、付き合って欲しいと言われた時。
例えば、バイトの手伝いを頼まれた時。
例えば、青年の奇襲に倒れた時。
例えば……今この時。
俺はいつだって目を逸らさなかった、逃げなかった。
舞歌さんの笑顔が見たいと、自分の勝手な都合でドカドカと踏み込んでいった。
結果的には良かったのかもしれない。
だけど、舞歌さんはそれに耐えられなかった。
「……あたしの所為で他の人に迷惑をかけることが辛いの。どんなに近しい人でも……もう、こんなのはヤダよ……」
きっと舞歌さんは人に助けられた経験や守られた経験が、平均より少ない。それ故に、人を頼ることの痛みに、ひどく脆い。
「あたしには……生きづらいよ……っ」
そして舞歌さんもそのことを知っている。知って、分かっているからこそ、今こうしてカッターナイフを握っている。
「……」
俺は、口を開くことが出来ない。突発的な事故にでも遭ったかのように思考は吹っ飛び、頭の中は無色。
見えるのは、舞歌さんだけ。
聞こえるのは、舞歌さんの息づかいだけ。
「自殺っていうのが如何に馬鹿なことなのか、愚かなことなのか、あたしは知らない。これで何人が悲しんで、何人が涙を流すのかも、あたしは知らない。……けど、あたしは心から人の好意を受け入れられるような、そんな『人間』になりたいの」
輪廻転生。
死者が、生まれ変わること。
「……ゴメンね。君から見たら、コイツ何言ってんだって感じなんだと思うけど……こんな希望的観測に縋るしか、今のあたしには残されてないの」
その瞳が語るのは希望か、絶望か。或いは、絶望の中に見出した希望か。
「だから、一生のお願い。もうあたしを、追わないで」
舞歌さんは切り捨てる。この世との繋がりを、俺の想いを。
「あたしを忘れて」
切実に、請う。
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