第19話

〈風見奏太〉


 そして俺は、起き上がった。


 さて、敵は後ろを向いている。今にも舞歌さんに掴み掛かりそうだ。


 ……。


 通り越した怒りは、冷たさとなって返ってくる。溶岩のようにボコボコと暴れていた頭は、今はもう何も無い氷河のようで、冷静な思考を促す。


 俺は考える。舞歌さんに危害が及ばず、一撃で昏倒させるにはどうすれば良いか。


 そしてそれは、体が覚えていた。かつて父が俺を強い男にしようと、様々な知識や技術を授けてくれたが、それに心からの感謝をする日が来ようとは思ってもみなかった。音を立てずに相手の背後に回り込むことも、構えも、全てはこの時のためにあったのかもしれないと、俺は割と本気で信じることが出来る。


 ……一度、俺はストーカーを弁護するようなことを、思ったことがある。


 気持ちは分からんでもないと、認めてしまいそうになったことがある。


 だが、どうやらこいつはそれとはまた別の、ただの屑野郎のようだった。


 あぁ、良かった。


 俺はこいつを、遠慮せずにぶん殴れる!





 後頭下部、首上部。


 青年のそこに叩き込まれた一撃は何とも鈍く、鉄球で何かを殴りつけたような、そんな音がした。


 青年は膝をつく。予期せぬ衝撃に戸惑うように、言葉にならない疑問符を放つ。


「? ?? ……?」


 俺はその隙に青年からスタンガンを奪い取り、何が起こったのか分からないといった顔をする舞歌さんに、警察を呼ぶよう指示を出す。


「は……はいっ!」


舞歌さんは驚くほど従順に、素早く青年から離れて携帯を取り出す。手が震えていて時間がかかりそうだが、まぁ問題ないだろう。


「……さて」


やはり、勘も、体力も、相当に鈍っているようだ。こんなにもひ弱で貧相な敵を相手に、あれだけの好条件でもまだ余力を残させてしまうとは。


「これで以前からの罪に加え、また新たな罪が出来たわけだ。言い訳なら聞くぜ?」


体が上手く機能しないのか、倒れ込んで立ち上がれない青年を見下ろして、言う。


「……んぁ? 何……でだ、オイ! ……お前は……まだ……動けねぇ、はずだ……」


言葉遣いが荒くなる青年は、先ほどの笑みからは想像も出来ないほどの醜悪な表情を見せる。人を誑かす妖精が、怒って本性を現したかのような感じ、と表現するのが最も適している。


「ネタバレは後で。もうそろそろ警察も来るだろうから、言い訳がないのなら取りあえず大人しくしてろ」


 俺は縄を取り出し、青年を縛る準備をする。備えあれば憂い無し、事前のシミュレーションが今回の勝因だ。


 だが、


「……そうはいかないよ?」


突然太ももに鋭い刺激が走り、続いて熱と共に、強烈な痛みが俺を襲う。


 ナイフが、刺さっていた。


「僕は臆病でねぇ、これぐらいならば想定してある」


嫌らしい声が、やけにイライラと俺を舐め回す。


「とは言っても、まさかこんな展開にはならないだろうと思って頭の片隅に留めておいた程度の対策が、こうも綺麗に決まるとは思わなかったよ。」


青年は調子を取り戻したように、グリグリと俺の傷口をナイフで抉る。とても楽しそうに、その様はまるで、純粋な好奇心をそのまま大人になっても持ち続けている子供のよう。


 ……痛い。


 刃物で皮膚や筋肉が強引に切り開かれた、まるでまな板の上の魚の気持ち。


 彼ら魚は強い。いつだって、喰われる覚悟が出来ているのだから。


 ならば、俺も彼らを見習おう。


 今の俺は彼らと同じ。


 舞歌さんを助けるためならば死んでもいい。舞歌さんの力になると誓ったあの日から、そんな覚悟はとうに出来ている。


 さぁ、笑って。


 もう、痛みは感じないはずだ。


「なぁ、あんた。スタンガンって知ってる?」


これは高揚か、恐怖か。胸が締め上げられ、空気が吸えずに息苦しい。


「?」


ダメージの所為か、弱々しく、ひたすらナイフで俺の傷を広げようとする青年の首筋に、





俺はそっとスタンガンを添えた。





スイッチを押し数秒後、抉り攻撃は停止。青年はその場に力尽き、今度こそ本当に倒れた。


「……ふぅ」


 安堵の溜息。試合でも何でもない、単純な戦闘。極限にまで高められた思考回路が、ショートしたかのようにプスプスと幻聴をもたらす。


 緊張からの解放故か、段々と俺の意識が薄れていく。……しまった、これでは舞歌さんに余計な面倒をかけてしまう。


 だが、体はそれに反して、どんどんと顔は地面に近づいていく。


 俺の名前を叫ぶ舞歌さんの声を子守歌に、俺は一人、静かに眠りにつく。





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