第8話
〈風見奏太〉
数分前。
「実は私の家ってね……父子家庭なんだ」
何分間経っただろうか。舞歌さんは俺の腕の中で、静かに語り始めた。体が弱々しく、小刻みに震えているのが分かる。
詳しくは省くが、それによれば、舞歌さんの家は相当お金のやりくりに行き詰まっているらしく、とうとう舞歌さんの父親は、お金を借りるしかなくなってしまった。
しかし、どうやらお金を借りる相手が悪かったらしく、法外な利子に苦しむ毎日。
そしてとうとうお金を借りた相手は、その娘である舞歌さんに照準を定めた。
俗に言うストーカーといったもので、無言電話、ついてくる人影などエトセトラ。
そして今日、舞歌さんの携帯にかかってきた電話は、卑猥な言葉や暴言の数々。
「……もう、ヤダよ……どうしたらいいの、あたし?」
話し始めてから何分が経っただろう。その言葉を最後に、堰を切ったように舞歌さんはただ泣きじゃくっている。部室にはまだ俺たち二人だけだ。舞歌さんの嗚咽と、乱れた呼吸がこの空気を暗いものへとしていく。
……許せなかった。
舞歌さんを悲しませる奴も、それに気付かない俺も。何が、『見ているだけで幸せ』だ。好いた人の笑顔さえ守れずに、恋い焦がれた相手の悲鳴にすら気づけずに。
自己に対する嫌悪が渦巻く。真っ黒な闇に心臓をわしづかみにされているようで、侵されていく。もうどうしようもなくなって、
だから俺は、舞歌さんを正面から抱きしめた。
一度手を振りほどいて、舞歌さんの正面に回り込んで。
今度は俺が。暖かく、舞歌さんを包み込むように。そっと抱きしめる。
「……落ち着いて下さい。ゆっくりと息を吸って、吐いて」
舞歌さんの背中を優しくさする。服の上からでも分かる柔らかな肌。感覚を極限までゼロにし、邪な考えは排除して臨む。どうやらこの方法は効果的だったようで、次第に舞歌さんの泣き声も治まっていく。
「大丈夫です、俺がついています。だから安心して下さい」
囁くように、ゆっくりと話す。ひとまず舞歌さんが泣き止むまで。
……俺には、こうして気休めを言うことしか出来なかった。
自惚れるな、俺がいるからといってどうなるんだ。俺はただ舞歌さんの不安を少しでも和らげようとしているだけ、それだけなんだから。…そう自分自身に言い聞かせ、無力な自分を呪う。
「……ありがとう、もう大丈夫だから」
と、涙も止まり、すっかり落ち着いた舞歌さんが俺の腕から離れる。温もりを失った俺の腕は一抹の寂しさを覚えるが、そのおかげで、今自分が舞歌さんに対して何をしていたのかを冷静になって思い出してしまった。途端に顔が熱くなって、視覚情報が混乱、視点が上手く定まらない。
すると、舞歌さんはそんな俺の様子に気付いていないのか、遠慮がちに手を組み替えては何かを思案するような表情をしている。
「じゃあ……早速、風見君に一つお願いがあるんだけど……?」
頬を染め、上目遣いにもじもじとする舞歌さん。と思って目が合うと、ツイと慌てたように目を逸らされる。小さな唇が開くか開かないかを彷徨い、何だかムニャムニャとしている。目線もかつてないほどに暴れ、何事にも真正面から向き合う舞歌さんとは考えられない動揺っぷりだ。
(何だ? トイレ? いや違うな、これは……)
きっぱりと言うが、舞歌さんは、基本照れない。
自分に正直で、恥ずべき行為は決して行わない、そういう人だ。
そんな舞歌さんが今、俺の前で照れている。
それはもうとてつもなく愛らしく、待ち受け画面用に写真を撮ろうかと真剣に悩むほどに俺を魅了する。何ならもう人生が詰んだっていい、もう一度だけ抱きつきたい。
……本来ならばこのシチュエーションは、明らかに明確に絶対に告白なのだが、だがしかし相手が舞歌さんだけにそれは期待できまい。まぁいいけど。まぁいいけど!
と、口ごもること七秒、唸ること三秒の計十秒間の末、とうとう舞歌さんは意を決したようにこちらに真摯な目を向け、口を開く。
「あたしたち、今日から付き合わない?」
ということで、舞歌さんが誰かと交際をしているところを見せつけてしまえばストーカー行為も少しは軽減するだろうという浅い考えで、俺と舞歌さんは限定的な恋人となった。
……うん。どういった反応をすれば良いのだろう?
素直に喜んで良いものなのか判断に困る。何でも何故もない、誰だって憧れのアイドルが自分の家にいたとしてもまずは感激するより驚くのと同じで、喜ぶというのは喜ぶ覚悟が出来て初めて喜ぶことが出来るのだから。
学に視線を移す。
学も、どこか釈然としないといった様子でパソコンに向かっている。その様は明らかに疑っている。
……果たして、この舞歌さんの考えはストーカー相手に通用するのだろうか?
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