第7話

〈東学〉


 俺は今、神保さんと屋上にいる。取りあえず神保さんを部室から引き離すことには成功したのだが、どうしたものか。


 それにしても、初めて神保さんの手を握ってしまった。


 白くて、細くて、柔らかくてさらさらしていて……ここに来るまでに階段を上がった所為もあるが、今でもドキドキが止まらない。よく尊敬する人との握手後、『もう一生手を洗いましぇ~ん!』とか言っている人を見るが、今ならその人の気持ちがよく分かる。これはむしろ手を洗うことに罪を覚えるレベルだ。


「で、何よ? まさか告白でもするつもり? 生憎だけれど私にはもう瑠衣というフィアンセがいるのだけれど。あなたは瑠衣よりも私を幸せに出来るというの?」


 不機嫌な神保さんは怖い。睨まれるだけで萎縮してしまうなんて、この人と会うまではフィクションの中の演出だと鼻で笑っていたのに。あれだ、何も悪いことしてないけど問答無用全力で謝ってしまう。存在してごめんなさいだ。


「あのですね……正直に申しますと部室の中に神保さんが見てはいけない光景が広がっていまして、私としてはそれをどうしても避けたかったのでこのような行動に出たわけです」


「取りあえずその口調は鬱陶しい、即刻止めなさい」


……神保さんの目が細められる。まるで魅せることを目的として作られた日本刀のようで、舐めたくなる。聞こえは変態さんだが、神保さんの目はそれほどまでに美しい。夕日を反射して淡く光っている。


「……今回だけはどうか見逃して下さい。舞歌さんの身は俺が保証しますので」


とは言ったものの、俺が最後に見た舞歌さんは異性に抱きつかれているという極めて危険な状態だったのだが、そこは奏太を信じるしかない。頼むぞ、チキン。


「あなたを信じろと? 冗談は止めて、気持ち悪い」


……。


「たとえあなたの証言が真実であったとしても、それが私を止める理由になるとは思えない。私は瑠衣の元へ行く。ただそれだけ」


 妙に決まった台詞を残し、舞歌さんの元へと神保さんは向かう。何だか疲れて、俺にはもう彼女を追う気力は残っていなかった。


 不安だ。






「というわけで、ゴメン! 可奈江とはしばらく一緒に帰れない!」


部室に入ってそうそう、舞歌さんは手を合わせて神保さんに謝っていた。


 神保さんの表情は、後ろからは窺えない。窺えなくて良かったかもしれない。


「えぇ~とね、違うんだよ? 可奈江のことが嫌いになったとか一緒に帰るのが嫌になったとかそういうわけじゃないの。理由はあとで必ず話すから! 話すから!」


 俺は奏太を見る。奏太も舞歌さんと同じく、手を合わせていた。口を動かして、


『スマン』


と申し訳なさそうにしている。


「……可奈江?」


チラッと、舞歌さんが神保さんの名を呼ぶ。神保さんの返事はない。


「……ごめんなさい、瑠衣。今日の部活は休ませてもらうわ。……体調が、優れないの」


もうその声は震えに震えていて、聞いているこっちが泣きたくなってしまう。


 すると、


「痛ッ!」


振り返り、帰ろうと歩を進める神保さんに足を踏まれた。こんなことは初めてで、頭が上手く回らない。


「? ??」


見れば、そこには頬を濡らす先輩がいた。これが、神保さんの泣き顔だということを理解するまでに、俺は数秒間硬直したまま動けなかった。


 神保さんはそのまま部室を出て、玄関へと姿を消してしまった。


 おそらく、俺に泣き顔が見られたと勘違いしたのだろうか?(まぁ実際に見たのだが……)


 これが奏太ならば普通に怒る所なのだが…どうも踏まれた相手が神保さんだったこともあり、反応に困る。これは喜んでいいのか? いやそれは人として駄目なんじゃないか? でも不思議と気持ちいいぞ? え、俺ってそういう人?


「ということで……東君、これから、放課後のしばらくの間、風見君を借りたいんだけど……いいかな?」


と、神保さんの足音が聞こえなくなってきた頃を見計らって、今度は舞歌さんが俺に訊く。小首を傾げる仕草に、切り揃えられたショートヘアが可愛く揺れる。


「まぁ別に俺のではないので構いませんが……しばらくとは?」


一応、俺はこのような展開になるであろうことを予想していた。畜生、奏太め。この幸せ者が! など、どのような文句で二人を祝福すればいいのかまで少しだが考えてもいた。


 だが、しばらく? 付き合ったんじゃないのか? 別れること前提の交際?


「あぁ~、それもちょっと話せないかなーなんて……」


途端、少し舞歌さんの表情が曇る。やはり何かあるのか。


「別に、答えたくないのなら答えなくて結構ですけど……あ、そろそろ部活始めませんか? 時間もかなり過ぎていますし」


 とにかく、まぁいいだろう。誰だって裏では何を考えているのか分かったものではない。そう、誰だって。たとえ純粋を体現したような舞歌さんであっても、だ。


「あ、あぁそうだね忘れてた。じゃあ、部活動開始ーっと……」


その声には、いつもの張りがない。


 ……さすがの舞歌さんでも、多少の空気は読めるようだ。





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