第5話

〈東学〉


 おぉ。


 おおおおお?


 俺は今、部室の外から部室の中を覗いていた。部活動開始時刻まであと五分。模範的であり理想的なこの響きはいつだって俺に勇気と自信を与えてくれる。当たり前ながらも大切な一個の人間としての礼儀。あぁ、誇らしい素晴らしい。


 しまった、こうして現実から逃げてしまってはいけない。


 現在、我らが文芸部室内では中々の事件が起こっている。しかし、それはあくまでも文芸部員数名に関わる問題であって、果たしてそれは事件と呼べるのだろうか甚だ疑問であり、だがしかしそれでも文芸部にとってはかつてないほどの危機で……


「? どうかしたの、東君」


横合いからかかった声に、思わず飛び跳ねる所だった。


 見ると、そこにはいつもの神保さんがいた。いや、神保さんはいつだって変わることはなく神保さんなのだが、いかんせん部室内にいる部員たちが世にも奇妙なことになっているので、そこはやっぱり、いつもの神保さんに安堵を覚える俺がいた。


 ん? でも、いつかは神保さんも人のものになってしまって、神保さんではない田中とか高橋とかになってしまうのではないか? だとするととても辛い、俺には一種の神様のように思えた神保さんが、そんな陳腐な名前になってしまうなんて。いつまでも神々しい神保さんであることを願いたい。……これ結構失礼じゃないか?


「もしかして、部室に鍵がかかっているの? おかしいわね、瑠衣ならもう来ているはずなのに」


そんな神保さんは怪訝な顔をして、こちら、つまり部室のドアの方に近づこうとする。


「いえいえいえ何でもないです。そうだ、一緒に鍵を取りに行きましょう確か先生が神保さんを捜していましたよさぁ早く……」


「嫌」


マズい、今の部室内を見られてはいけない。そう思っての咄嗟の誤魔化しを、神保さんはあっさりと拒絶した。


「『一緒に鍵を取りに行きましょう』なんてあなた、私相手におこがましいとは思わないの? 一体何を先輩に言っているのか、分かっている?」


「いや……でも先生が……」


「捜しているのならいずれここに来るだろうという推測はつくはず。私に何か隠しているわね?」


歩みを止めない神保さん。諦めるしかないのか? 駄目だ、このままでは……!


「すいません!」


致し方なし。俺は神保さんの手を握り、強制的に部室から遠ざける。


「!? ちょっと、何をするの! やめなさい!」


神保さんの驚きの混じった声を背に浴びながら、俺はとにかく神保さんの手を引く。こうするしかなかったんだ、こうするしかなかったんだ、という言い訳を心の中で響かせ、これからは俺はどうしたらいいのだろうという不安とも戦いながら廊下を突き進む。


 でもこれでいいんだ、あんなもの見せられるわけがない。





 そう、あの奏太が舞歌さんを抱きしめているところなんて。




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