第三楽章 tempo primo
水の粒が落ちる。群れとなって移動する動物たちのように、我先にと地面に向かって雨は降り注ぐ。そうして水の粒はアスファルトに跳ねて、コンクリートへと跳ねて、既に跳ね終わった水が集まる水たまりへと跳ねて、そうやって様々な音を奏でながら、軌跡を描きながら、雨は地上に停滞と恵みをもたらしていく。
僕はそんな雨粒たちの大合唱を耳で感じながら、大移動の軌跡を目で追いながら、ちょっとした文具屋の前で漫然とただ雨が止むのを待っていた。
するとその音の中に、パシャパシャと一人の女性がこちらへ駆けてくる音が雑じった。小さな鞄を頭の上で持ち、必死に雨から逃れているようだった。彼女はそのまま僕の隣まで走ってくると、僕と同じように雨宿りを始めた。
「いや~降られましたね。何とか持ちこたえるって天気予報にあったのに、もう」
これだから雨は嫌いなんですよ、と彼女は言った。
「うーん……仕事をサボれるわけだし、どっちかと言うと僕は好きだな、雨」
「うわ……給料泥棒だ」
「いやいや。言い伝えによると、今の僕たちは二人の男女が雨宿りのために入った洞窟で出会って結ばれて、そこから始まったんでしょ? なら、その子孫である僕たちは雨を信仰しないと。じゃないと罰当たりなんじゃないの?」
「そんな本当かどうか分からない昔話を引き合いに出されても……ていうか、昔の人間は目のない人と耳のない人に別れてたなんて馬鹿げた話、ありえないですって。あれは絶対創作です。神話の世界ですよ」
「そうかな? なんかいいじゃん、ロマンチックで」
「そうですか? 私にはよく分かりません」
彼女は鞄を頭から下ろすと、取り出したハンカチで湿った服などの水分を吸い取りにかかった。
「傘持ってないの?」
「さっきビニール傘をコンビニでパクられたところです」
「どうせ誰が誰のなんて分からないんだし、お返しに同じ型のものでも拝借すれば良かったのに」
「私は正直者なんですよ。自分の悪意を利用することが出来ないんです」
彼女と話すうちに、僕は何故だか懐かしい気分になっていた。人と話すのが久しぶりだとかそういうわけではない。昔どこかで会っていたかのような、そんな懐かしさだった。
「♪~」
と、癖なのか、彼女が鼻歌を歌い始めた。僕はびっくりした。そんな歌聞いたこともないはずなのに、不思議と彼女のメロディーに合わせて歌詞が頭に浮かんできたのだ。それはまるで、前世だとか、運命の人だとか、そんな幻想を信じてしまいたくなるほどに。
気がつけば僕は、彼女のメロディーに合わせて歌詞を口ずさんでいた。
Please hear me I want tell you
Please sing to me I wanna hear your voice
Please look at me I am lonely
Please smile at me I want you to be happy
雨が止む。雲の隙間から太陽の光が漏れ出て、僕たちを文具屋ごと照らした。うっすらとした温かさと共に、眩しさで僕は彼女の表情が見えなくなる。
「何で……」
彼女の声の調子から、ようやく僕は彼女が困惑していることに気づいた。だけどそれは僕も同じで、どうして僕は初めて聞いたはずのメロディーに歌詞をつけて歌えたのかなんてもちろん分からなくて、僕はやっぱり彼女の質問に答えられそうもなかった。
でも一つだけ確かなものがあって、僕は、彼女と共に歌を通して感覚を共有した時に、どこか懐かしい温かさが胸に宿るのを感じた。
水の粒が止んだ。群れとなって移動する動物たちのように、我先にと地面に向かって降り注いだ雨は、鮮やかさの欠けた雲と共にどこかへと去って行ってしまった。そうしてアスファルトに跳ねて、コンクリートへと跳ねて、既に跳ね終わった水が集まる水たまりへと跳ねた雨粒は、互いに惹かれ合うようにして他の雨粒たちと新たな流れを作ってゆく。そうやって様々な音を奏でて軌跡を描き終わった雨は、ようやく地上に停滞からの解放と、豊かで穏やかな恵みをもたらしていく。
私はそんな雨粒たちの大合唱を覆い隠すような雑踏と、大移動の軌跡をかき消すような人混みの中で、文具屋を背にして歩いていた。
……結局、名前も聞けなかったな。
雨も止んだので、私は雨宿りをしていた文具屋から去ることにした。道を行く中で、私はあの不思議な男性のことを思い出す。あの時、自分でも不思議なくらいに自然とメロディーが頭の中に浮かんできた。それだけでも驚いたのに、まさか隣にいた男性がいきなりそれに詩をつけるとは、全くの予想外だった。ひょっとすると、彼は人生のどこかで出会うはずだった、そんな運命の人だったりしたのかもしれない、と頭の中で乙女心を爆発させてみる。
でも、まあいい。もし彼が本当に運命の人だったりしたとしても、だったらそれこそ運命とやらに任せて普通に生活していれば、いずれはまた彼と会えるだろうから。今私の中には、願いや未来だとかいった、そんな都合の良い言葉が温かさを持ってこだましていた。雨が降った時にあの文具屋に行けば、きっとまた彼に巡り会えると、どうしてか私はどこかで確信していた。
朱と橙の混じり合ったような太陽の光がいくつもある水たまりに反射して、虹色にきらめいた宝石のように私の行く道を飾っている。
あの男性と言葉を初めて交わした時に、私は雨が嫌いだと嘆いていたのを思い出す。でも今の私は、いつの間にか雨が嫌ではなくなっていた。
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