第二楽章 appassionato
水の粒が落ちる。群れとなって移動する動物たちのように、我先にと地面に向かって雨は降り注ぐ。そうして水の粒は石に跳ねて、草へと跳ねて、既に跳ね終わった水が集まる水たまりへと跳ねて、そうやって様々な音を奏でながら、軌跡を描きながら、雨は地上に停滞と恵みをもたらしていく。
あたしはそんな雨粒たちの大合唱を耳で感じながら、大移動の軌跡を目で追いながら、お兄ちゃんに寄り添って漫然とただ雨が止むのを待っていた。
高い音、速い軌跡、低い音、遅い軌跡、軽やかな音、小さい軌跡、重苦しい音、大きい軌跡、澄んだ音、直線的な軌跡、濁った音、曲線的な軌跡、単調な音、単調な軌跡、複雑な音、複雑な軌跡、一粒の音、一粒の軌跡、連なり合う音、連なり合う軌跡……音も軌跡もそれぞれに個性があって、それぞれがあたしに外の情景を教えて、そしてまたはぐらかそうとする。今、あたしの周りには一体どんな世界が広がっているのか、あたしは目と耳の両方を使ってより正確に知ろうとする。あたしにとって、雨は別に大好きなわけでもはたまた大嫌いなわけでもない、ただの天気の一種類に過ぎなかった。
あたしには目と耳の両方がある。パパとママは目か耳のどちらか一つしか持っていなかったけど、どうしてかあたしはパパから目を、ママからは耳をそれぞれちょうど良く受け継いだらしい。元々ここの部族は目だけしか持っていなかったんだけど、色々あって耳だけを持ったママがここの部族にやって来てパパと結ばれて、だから、あたしはそんなちょっとした偶然から生まれた、とてもイレギュラーな存在なんだと教わった。
でもあたしはそれを特別なんだと誇れるような剛胆さなんて持ってなくて、あたしはただ、この目と耳の両方に対しては疎ましさすら感じていた時期もあった。パパとママの良いとこ取りをしたようで、あたしはもう一人の家族であるお兄ちゃんに罪悪感しか当初は抱けなかった。
お兄ちゃんはあたしの双子の兄で、でも、あたしとは違って目も耳も、どちらも持たずに生まれた。幸いにしてお兄ちゃんも、いつもパパとママが使っている触覚に頼ったコミュニケーションを教わることでどうにか日常会話程度なら出来ているけど、あたしはお兄ちゃんに対して申し訳ないと思う気持ちで一杯だった。あたしがママのお腹の中で、本来はお兄ちゃんがもらうはずだった目や耳を奪ってしまったのだ。だからあたしは目と耳の両方を持っているし、お兄ちゃんはそのどちらも持っていない。あたしはパパとママに世話をされながら触覚に頼った言葉を教わるお兄ちゃんを見る度に、そう思わずにはいられなかった。
『オニイチャン ゴハン ジカン アーン スル テ』
あたしはお兄ちゃんの手の平にメッセージを送る。お兄ちゃんは口を開けると、あたしの差し出した豆のスープを一気に流し込んだ。途中でむせる。あたしはよしよしとお兄ちゃんの背中をゆっくりさすった。そうやって何分間かかけて、食事が終わる。あたしはこぼれたスープを拭き取り、お兄ちゃんやあたしにかかったお兄ちゃんの吐き出したものを体から拭い、後始末をする。
いつからか、あたしは積極的にお兄ちゃんの世話をするようになっていった。ちょっとした罪滅ぼしのための自己満足が始まりだったかもしれない。お兄ちゃんの世話に時間と体力を奪われるパパとママを慮ってのことだったかもしれない。もちろん今はきちんとした理由がある。当初の理由はもう覚えていなかったけど、お兄ちゃんの世話はもう完全にあたしの仕事になっていた。
『オニイチャン ネル ジカン ヨコ ナル テ』
お兄ちゃんは手の平からあたしのメッセージを受け取ると、大人しく横になった。あたしも一緒に横になって、お兄ちゃんを抱きしめてあげる。お兄ちゃんがあたしの胸に頭をうずめた。短い髪が肌にちくちくと刺さるし、生暖かくて湿っぽい呼吸があたしをくすぐるけど、離れようとするとお兄ちゃんは強情になってあたしを放さなくなるので、そのまま耐えた。次いでお兄ちゃんはあたしの体を無遠慮に撫で回す。その姿は目も耳も持たないお兄ちゃんが必死に孤独を埋めようと人肌を求めているようで、あたしは黙ってお兄ちゃんにされるがままになっていた。
ちょっとした自慢のような話になるけど、目と耳を同時に持つあたしは、この世界の全てを知る唯一の存在だと思っていた。パパや他の部族の人たちは永遠に音の世界を知覚できないし、そしてまた同様にママも光の世界を知覚できなかった。だからその両方を持つあたしは万能で、そして、だからこそ、あたしはお兄ちゃんが一体どのような世界にいるのかが気になって仕方なかった。お兄ちゃんはあたしを通してしか世界とまともに触れ合えない。もちろん実際に触覚はあるわけだから花や土、水などとこの世界で触れ合っているのは事実だけど、お兄ちゃんの世界は触覚が全てで、それはつまり、触覚を通してコミュニケーションを取る唯一の存在、あたしだけが全てであるのと同じはずだった。
でも実際は違った。お兄ちゃんは、あたしがいない間でもきちんと世界と繋がって……ううん、自分で新しい世界をつくって生きていた。無軌道なリズムに合わせて体を揺らしたり、指を使って何かを書き表そうともしていて、お兄ちゃんは目や耳がなくても充分に人生を楽しんでいるような、そんな印象を受けた。お兄ちゃんの頭の中には、あたしが見て聞いている世界とはまた違う別の独立した世界が広がっていて、それを石版や何やらに描かせてみたらきっと、この世界からはみ出すほどの願いや、そして未来があるんだと、あたしは一人で想像を膨らませていた。この世界の全てを知ったあたしは、この世界の外にある別の世界のことを知りたがった。
だから、あたしはお兄ちゃんのことをもっと知りたくて、もっと近づきたくて、肉薄したくて、感覚を共有したくて、体を重ねた。あたしとお兄ちゃんのどっちが先に求めたのかなんてもう覚えていない。お兄ちゃんがあたしの膨らみかけた胸に顔をうずめた時に欲情したのかもしれない。あたしがお兄ちゃんの夢精を見た時不意にお兄ちゃんを異性として認識したのかもしれない。でも理由なんてどうでも良くて、あたしとお兄ちゃんは確かに繋がって、そして感覚を共有できた。それは結局触覚と触覚の共有でしかなかったのだけど、それでも、お兄ちゃんが新たな命を発射する時に、あたしは彼の中の世界が生殖を通して伝わってくるのを感じた。暗くて何も聞こえない闇の中で、でも確かな温かさがあって、あたしは何も目や耳だけが特別なわけじゃなくて、触覚にもそれぞれの世界があるんだってことをお兄ちゃんとの繋がりの中で発見した。
「ん……」
お兄ちゃんがあたしの中で震えている。何も見えなくて何も聞こえなくて、そんな孤独を埋めるように、お兄ちゃんは残された触覚の全てを使ってあたしを求めている。一人でいる寂しさを振り払うために。
大丈夫だよ、お兄ちゃん。どうしてか知らないけど、あたし分かるんだ。
お兄ちゃんとあたしの作る命は、もう二度と目や耳のない孤独を味わうことなんてないはずだって。
お兄ちゃんの世界を受け止めながら、あたしは願う。
数十年後じゃなくてもいい、遠い未来。
どうか、この世界からはみ出すほどの願いや未来が。
温かさが。
目と耳の両方を持った、あたしたちの子孫が生きる世界に広がっていますように。
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