交響曲第十番「融合」

桜人

第一楽章 dolce cantabile

 水の粒が落ちる。群れとなって移動する動物たちのように、我先にと地面に向かって雨は降り注ぐ。そうして水の粒は石に跳ねて、草へと跳ねて、既に跳ね終わった水が集まる水たまりへと跳ねて、そうやって様々な音を奏でながら、雨は地上に恵みをもたらしていく。

 わたしはそんな雨粒たちの大合唱を耳で感じながら、洞窟に隠れて漫然とただ雨が止むのを待っていた。高い音、低い音、軽やかな音、重苦しい音、澄んだ音、濁った音、単調な音、複雑な音、一粒の音、連なり合う音……それぞれに個性があって、それぞれがわたしに外の情景を教えてくれる。今、わたしの周りには一体どんな世界が広がっているのか。雨はいつも教えてくれる。だから、わたしは雨が大好きだった。



 水の粒が落ちる。群れとなって移動する動物たちのように、我先にと地面に向かって雨は降り注ぐ。そうして水の粒は石に跳ねて、草に跳ねて、すでに跳ね終わった水が集まる水たまりへと跳ねて、そうやって様々な軌跡を描きながら、雨は地上に停滞をもたらしていく。

 ぼくはそんな雨粒たちの大移動を目で追いながら、洞窟に隠れて漫然とただ雨が止むのを待っていた。速い軌跡、遅い軌跡、小さい軌跡、大きい軌跡、直線的な軌跡、曲線的な軌跡、単調な軌跡、複雑な軌跡、一粒の軌跡、連なり合う軌跡……それぞれに個性があって、それぞれがぼくに外の情景をはぐらかす。今、ぼくの周りにはどんな世界が広がっているのか。雨はいつも隠してしまう。だから、ぼくは雨が大嫌いだった。



 眠りから覚める。少し湿っていてゴツゴツとした岩の感触が、わたしにここが洞窟の中だということを思い出させた。

 ……どうやら、気がつかないうちにわたしは眠っていたらしい。耳を澄ますと、いや、澄まさなくてもまだ雨は大きな音を立てて降っていて、雨音がわたしにおはようと言ってくれているようだった。

 この分だとまだ当分雨は止みそうにないと思い、わたしは健康的な寝息を立てているお隣さんをちらと確認して、そしてまた眠りについた。



 目が覚める。目から入る情報より先に、少し湿っていてゴツゴツとした岩の感触が、ぼくにここが洞窟の中だということを思い出させた。

 ……どうやら、いつの間にかぼくは眠っていたようだった。目を凝らすと、いや、凝らさなくてもまだ雨はぼくの視界を遮っていて、雨音がぼくを嘲笑っているような気がした。

 このままだとまだ当分雨は止みそうにないと思い、ぼくは健康的な寝息を立てているお隣さんをちらと見た。

 小柄な女性だった。ようやく狩りについていくことを許されたぼくが思うのも少しおかしかったが、まだ若い。ぼくと同じくらいの年齢だった。服装からしてどうやら別の部族のようだ。大した装飾品や派手な化粧もない。こんな部族は初めてだ。この大雨を喜んでいるかのような、何とも幸せそうな寝顔だった。

 この女性はぼくがこの洞窟に来た時にはもう既にいて雨宿りをしていたようなのだが、どうもおかしな人だった。ずっと目を閉じていて、それなのにぼくが洞窟に姿を現した時には、まるで初めからぼくのことが分かっていたかのようにこちらの方を向いて、ぼくを歓迎するようににこやかな笑顔を浮かべていた。しかも不思議なことに、彼女は何やら口を開いたり閉じたりしていたのだ。ぼくがどんな反応を返したら良いのか分からずにいると少し不思議そうな表情をしたが、あれは彼女の部族で用いられている特別な挨拶なのだろうか。見たことがない。彼女は何者なのだろう。

 しばらく見つめていると、不意に彼女が身じろぎをした。慌てて少し距離をとる。しかし彼女の目は開かずに、安定した呼吸が胸を上下させている。どうやらまだ夢の中にいるようだった。

 身じろぎをしたことによって、彼女の服が少しはだける。暗い洞窟の中なので細部まで見ることは難しいが、想像していたよりもずっと白い肌に驚いたのと興奮したのとで、ぼくは彼女から目が離せないでいた。

 そして、何とかして気分を落ち着けようと彼女の肌から視線を逸らしたしたその時、ぼくはあるおかしなことに気付いた。



「ん……」

 雨の音がしない。止んでしまったのだろうか。雨と共にわたしの眠気も治まってしまったようで、もう少し雨を楽しんでいたかったけど、わたしは気持ちを切り替えて起き上がった。

 その時、わたしはわたしではない誰かが洞窟の中を動く音を聞いた。驚いて悲鳴を上げそうになったけど、眠る前の記憶が思い出されてわたしは何とかそれをこらえた。

お隣さんはまだいたらしい。

「雨も止んだみたいだし、わたしはそろそろ出て行くね。バイバイ」

 一応声をかけてみたのだが、返事はない。洞窟にやって来たときもそうだったけど、ひょっとして照れ屋さん?



 彼女は雨の上がった数分後に眠りから覚めると、目を瞑ったまま、またもあの時と同じように口を開け閉めして去って行った。

 ……間違いない。

 彼女は目が見えていない。ぼくは彼女のことをずっと見ていたが、彼女がまぶたを開くことは一度もなかった。それどころか、彼女は起きたとき、ぼくのことに全く気がついてすらいなかったのだ。ぼくはずっと彼女の目の前にいたというのに。

 彼女がぼくの存在に気付いたのは、彼女が起き上がって伸びをした後のことだったように思う。彼女がぼくの存在に気付かずに体を起こしたので、ぼくが慌てて移動したその時に、初めて彼女はぼくの存在に気がついたといった風に体をびくっと硬直させたのだ。

 彼女が一度身じろぎをした時、彼女の肩甲骨辺りまで伸びた髪が後ろに流れ、そしてぼくは、彼女の頭の両横に見たことのない器官が二つあるのを発見した。

 不思議な器官だった。手よりは小さいけど指よりは大きく、中心には小さな穴が空いていて、その穴は頭の方に繋がっているようだった。貝殻みたいな、だけどその色は彼女の肌と同じで白く透き通っていて、ぼくは彼女のその器官に触れたいという衝動に駆られた。

 彼女がこの洞窟に入ったぼくに気付いたのも、目覚めた後ぼくの存在に気付くのにおかしなタイムラグがあったのも、全てこの器官が関係しているのかもしれない。

 ……また会えるだろうか。

 雨の日にまたこの洞窟に来たら、彼女は今日と同じように笑顔で迎えてくれるだろうか。

 大嫌いだったはずなのに、ぼくは雨がまた降ることを心のどこかで望んでいた。



 集落に帰ると、一人でどこかに行くなと叱られてしまった。洞窟で雨宿りをしていたのだと伝えるけど、それは言い訳にしかならないようでわたしはそのままお説教を受けてしまった。だけどもそのお説教は段々話が逸れていって、早く夫を見つけろだの、元気の良い子どもを産めだのと、もはや無断でほっつき歩いていたこととは何の関係もない話へと発展していった。

 どうやらわたしは集落のリーダーの一人息子に気に入られていて、わたしと彼の両親の間でわたしたちは許嫁のような関係とされているらしい。わたしは何度も嫌だと言っているのに。アイツは性格が悪いし、何より声が下卑ている。最近は狩りにも連れて行ってもらっているらしく自慢気にその真似事を他のみんなに教えているのだが、上からの物言いでうっとうしいしわたしに教えるときだけ何やら手つきがいやらしいしで、何一つ敬うべき所のないただの嫌なヤツだった。

 お母さんの将来展望を聞いている中で、わたしは今日洞窟で会ったあの人のことを思い出す。

 不思議な人だった。わたしが話しかけても何も返事をくれなくて、ずっと黙っていた。

 もし次に会うことがあったら今度こそきちんと話せるようになりたいなと、わたしは密かに決意した。



 水の粒が目で見えないほど高い場所から降ってきては、土を、水を、生命を叩く。叩いて、叩きつけて、決して痛くはないはずなのに、何度も何度も懲りずに雨粒は地上にある全てを叩いて、本当に鬱陶しい。

だけど、今こうしてまた彼女に会えるかもと期待を抱きながらあの洞窟へと足を運ぶくらいには、不思議とぼくはこの雨が嫌ではなくなっていた。

数日前の記憶を辿りながら進んでいく。大して迷うこともなく、ぼくは無事にあの時の洞窟へ辿り着いた。

そして、やっぱりそこにはぼくの期待通りに彼女がいて、想像していた通りに笑顔を浮かべていて、推測通りにまぶたは閉じられたままだった。光を撥ね除けて洞窟の中は暗いはずなのに、相変わらず彼女の肌は白くて、まるでそこにだけ光が差し込んでいるかのようだ。彼女はこの前と同じように口を開いたり閉じたりしている。ぼくは安堵と共に、胸がおかしな風に締め付けられるのを感じた。



 雨音の中に、覚えのある特徴的な足音が不意にまじった。

 来た、と心が跳ねる。間違いない、この足音は洞窟で出会った照れ屋さんのものだ。あの人の足音は集落のみんなと違って、妙に迷いがなくて、リズムも一定でテンポが速い。きっととても良い耳を持っていて、ここがどこで目の前にどういった障害物があるのかとかが、まるで手に取るように分かるんだろうな、とわたしは想像する。

 前に会ったときは一言も話すことが出来なかった。今回こそは何か話せると良いなと思い、わたしはあの人へ近づこうと立ち上がり――



 ――雨のせいで湿っていた岩に滑り、転びそうになった彼女を抱いて助けたのは、本当に自分でもどうして動けたのか分からないくらいに一瞬のことだった。だけど、ぼくと彼女の距離がゼロになって、前は触れたくても我慢して見つめていただけの、ぼくにはない頭の横に付いた二つの器官が目の前にあって、見たこともないほど白くて綺麗だった彼女の肌に今ぼくは触れていて、抱きしめていて、そうして自分でもどうしていたのか覚えていないほど長い時間、ぼくたちはこうしているように思えた。

 彼女が遠慮がちに小さく口を開閉した。それはぼくが彼女を助けてから初めてのアクションで、ぼくはそれでようやく彼女に陶酔していたことに気付き、彼女をゆっくりと立ち上がらせた。



 硬くて力強くて、思わず身を委ねてしまいそうなほど逞しい体に支えられて、わたしは初めてあの照れ屋さんが男であることを知った。今まで何も話してくれなかったので、つまり声を聞いたことがなかったので彼の性別なんて意識したことなんてなかったけど、考えてみれば二分の一の確率であの照れ屋さんは男なのだから、もう少し身の危険というかそういうものを意識するべきだったと今になって恥ずかしくなる。さすがに見ず知らずの男性を前にして眠りこけるほどわたしは無防備な女ではなかったはずだ、多分。

 少しの緊張と照れくささを含みながらも、わたしが照れ屋さん改め彼に助けてくれたことへのお礼を言うと、彼はわたしをゆっくりと立ち上がらせてくれた。その手つきが優しくて温かくて、雨のせいでいつもよりさらに気温の低い洞窟の中、その温もりを失いたくなかったわたしは、いつの間にかわたしから離れようとする彼の腕を掴んでいた。

 違う……うん。これはきっと、そう……今度こそ、彼と話がしたかったから。岩の上を音も立てずに滑ったわたしをどうして助けられたのか、あくまでそれを彼から聞くためだけに、わたしは彼の腕を掴んだだけ。だから……これはきっと、そういうものではない。



 彼女はぼくが離れることを許さなかった。ぼくの腕を下に引いて座らせると彼女も同じように腰を下ろして、触れるか触れないかのそんなギリギリの距離までぼくの方に体を寄せる。そうして彼女の白くて綺麗な指が、無遠慮にぼくを撫ではじめた。いや、撫でるというよりも、まるで目隠しをされた人間が手の感触だけでそれがどういうものなのかを知ろうと探っているかのように、彼女は躊躇を感じさせない手つきでぼくをまさぐっていた。彼女の指は温かさも冷たさも両方持ち合わせていて、ぼくは彼女のそれを邪魔しないように、でも本当はただ緊張してどうしたら良いのか分からなかったという理由で、座った状態のまま動けずにいた。手足から胴体部へと、指、手、足、手首、足首、肘、膝、上腕、大腿、胸、腰、男性器、首、腹、口、鼻……そうやって全身をねぶるように伝った彼女の指は、とうとうぼくの頭の横にまで伸びていき、そして止まった。彼女が首を傾げる。「あれ、おかしいな」とか、「そんなまさか」といった表情で、彼女はぼくの頭の横、彼女にあってぼくにはない謎の器官を見つけようと執拗に手を伸ばしてきた。



「耳が……ない?」

 信じられなくて何度も何度も確認したけど、彼の頭の両横にはそれらしきものは何一つなかった。わたしは混乱する頭を落ち着けて、さっきの体験と今までの彼の行動とを照らし合わせて情報を整理しようとする。

 まずは初めて会った時、というか今でもだけど、彼はわたしの呼びかけに一切答えなかった。彼は照れ屋さんで、きっと受け答えが恥ずかしかったんだろうってわたしは勝手に解釈していたけど、そうじゃなくて、彼は最初からわたしの声が聞こえていなかったのかもしれない。いや、きっとそうなんだ。

 彼はその後、必死に彼の耳を探していたわたしの手を取り、それを彼のおでこと鼻の間に持っていった。そこには小さなボールのようなものが皮膚の奥に二つあって、それらはまるで独立した生き物のようにピクピクと動いていた。

 多分、あの不思議な器官で、彼はここがどこで目の前にどんな障害物があるのかを察知しているのだろう。その器官は私たちの部族のように音を感じることは出来ないけど、きっとそれ以上に多くのものを感じ取れるはずだ。だって、彼の足音はちっとも怯えていなくて、力強かったから。

 彼はわたしにその不思議な器官を触らせた後、まだ雨も止んでいないのにすぐに立ち去ってしまった。無遠慮にまさぐりすぎたせいだろうか、わたしの失礼な行動に怒ってしまったのかもしれない。もし次に会えるのなら謝りたいけど……でも、わたしたちはどうやってコミュニケーションをとったらいいんだろう?



 まだ雨は降っていたけど、ぼくは彼女を残して洞窟から逃げ出してしまった。まだ会って二回目なのにどんどん彼女との距離が狭まっていって、このままだと我慢できそうになかったのだ。

 あの後、彼女はお返しとばかりにあの不思議な器官をぼくに触らせてくれた。白くて柔らかくて温かくて、飾りなんかじゃない、しっかりとした彼女の体の一部で、彼女は一体あの器官で何を感じ取っているのだろう。気になってたまらなかったけど、あの器官を持っていないぼくには想像も出来なかった。

 ぼくの心の中で、彼女の存在は初めて会った時よりもずっと大きくなっている。

 あの洞窟で彼女と一緒にいるとまるで時が千分の一ぐらいのスピードで流れているみたいで、ぼくと彼女二人だけ時間から取り残されたような、そんな不思議な錯覚を覚える。それぐらい彼女は今までに見たこともないほど美しくて、彼女と触れ合っていたあの時間は神秘的なものだった。

 いつしかぼくは、降り注いでぼくを叩く雨なんか、もうどうでも良くなっていた。



 それから、わたしたちは雨の降る度に洞窟に顔を出しては、どうにか相手とコミュニケーションを取ろうと努力していた。わたしには耳があるけど彼はそれと思われる器官を持っていなかったし、逆に彼はあの二つの球体を露出させることによって何かを感じとることが出来るらしいけど、生憎わたしのおでこと鼻の間にはそんな球体はなく、眉毛と睫毛と変に柔らかい皮膚があるだけで、睫毛の近くには小さな隙間があったけど、開くような所はどこにもなかった。わたしたちの間にある溝は深く、簡単には埋まりそうもない。

 そうして、わたしたちは二人に共通しているだろう感覚器官、触覚でどうにか会話が出来ないかと、今四苦八苦している。

 例えば、二人で洞窟の岩に触れながら、片方が相手の手の平に一定の、規則的な信号を送る。素早い感覚で二回手の平を叩いて、丸を描いて、もう一回素早い感覚で叩いてと、そういった風に。そうすると、信号を受け取った相手はそのパターンを『岩』と覚えて、確認のため今度は同じように相手にその信号を送る。そうやって何度も何度も色々なものを信号化していって、わたしたちだけに通じる、わたしたちだけのコミュニケーション方法を作っていく。

 でも、それで簡単に理解し合えるのは名詞までで、それ以外の、例えば『走る』とか、『キレイ』といった用言を信号にして共通認識の元に置くのには、とてつもない時間がかかった。『静かだ』や『うるさい』といった、おそらく彼には必要じゃないだろう言葉は避けていたし、多分彼も彼の立場から同じようなことをしていてくれたと思うけど、それでも単語の数は多すぎてわたしたちは苦戦した。

 でも、進展は一つ一つとてもゆっくりとしたものだったけど、会う度により深く彼と分かり合えているといった実感があって、わたしはとても楽しくて、幸せな気分だった。



 今日は彼女が歌というものを歌ってくれた。彼女は頭の両横にある耳という器官で、空気のわずかな震えを感じ取っているのだという。彼女たちの部族は喉を震わせることによって周りの空気を震えさせて音というものをつくり出し、そうすることで意思疎通をしているのだそうだ。

 彼女はぼくの手を取って、それを彼女の白くて細い喉へ導いた。すると柔らかな喉がたちまち震えだして、ぼくは彼女が普段体験している振動を初めて感じることが出来た。彼女は同時にぼくの体を優しく叩いて、リズムというものも教えてくれた。不思議な体験だったけど、歌を歌う彼女はとても楽しそうで、それにつられて自然とぼくも笑顔になっていた。

 初めて彼女と会った時から数ヶ月も経つと、ぼくたちは普段仲間の部族たちとコミュニケーションを取るのとほとんど同じレベルまでお互いの心を伝え合うことが出来ていた。複雑なことや抽象的なものを伝え合うにはまだ時間がかかるけど、簡単な言葉や表現を使えばそれでお互いに理解し合えたし、別に問題はなかった。

 ただいつの間にか、約束はしていなかったけど暗黙の了解みたいなものが二人の間には出来ていて、二人が会えるのは雨の日だけだとか、お互いの事情には深く入り込まないだとか、ぼくの目や彼女の持つ耳などの特別な器官を除いた単純接触は禁止だとか、そういったものが確かに二人の間にはあった。

 でもぼくには、雨の日に洞窟へ行ってそこで待つ彼女とコミュニケーションを取るだけのそんな何でもない関係が心地よかったし、何より彼女と触れあえるだけでぼくは満足だった。



 今日はわたしの誕生日だった。いつの間にかわたしはこの部族の中で決められた、結婚を許される年齢にまで達してしまっていたのだ。成長なんてほとんど実感できていないけど、また一歩大人に近づけたということでわたしは素直に嬉しかった。

 そういうわけで、わたしは集落で一番大きな家に連れられて、たくさんの豪華な食事を前にして普段は食べられないごちそうに舌鼓を打っていた。部族のみんなが色々用意してくれたらしい。わたしより少し前に誕生日を迎えた友だちはこんなに祝ってもらっていたっけと不思議に思ったけど、まあいいやとわたしはみんなの厚意をお腹いっぱい詰め込んだ。


食事やら何やらを終えて気がつくと、何故か両親や兄弟といったみんながいなくなっていた。人のいる音が聞こえない。ただ黙っているというわけではなさそうだった。

どうしたのだろうとわたしは首を傾げた。そうしたら、頭が何かにコツンと当たった。いや、ぶつかったそれはまるで石のように硬くて、ゴツンといった方が正しいくらいだった。そう、これは……誰かの頭?

ぞわり。

「ひっ……」

 湿っていて生暖かいものがわたしの頬に触れた。その感触が気持ち悪くて、わたしは勢いよく後ずさる。だけどそれは一瞬で、すぐにわたしは手首を何者かに掴まれた。

「誰っ!?」

ううん、わたしはこいつの正体を知っている。というか、わたしにこんなコトをするのはアイツしかいない。部族のリーダーの一人息子だ。

どうしてわたしの誕生日なんかに部族のみんながごちそうを振る舞ってくれたのかが今になって分かる。彼らは決してわたしの誕生日を祝ってくれたのではなく、わたしが結婚出来るようになってリーダーの一人息子にもらわれるのを祝っていたんだ。

「っく……」

 ヤツがわたしの上に覆い被さってくる。腐っても狩りについていっている実力は伊達じゃないのか、ヤツの力は強かった。荒くて生暖かい息が顔にかかる。

 わたしは叫んだ。でもそれは助けを求めるためじゃなくて、どうにかしてヤツから離れようと気合いを入れるため。わたしはヤツの股間を力一杯蹴って、ヤツがひるんだ隙を突いて拘束から逃れた。そのまま建物を抜け出て、精一杯走って逃げる。相当ダメージがあったのか、ヤツは追ってこなかった。


 走って走って走って、気付けばわたしは集落から相当遠いところまで来ていた。ようやく立ち止まって息を整える。すると今になってようやく擦り傷だらけの足が痛みを主張し始めて、痛みに涙が出そうになる。

悔しかった。何だかんだでわたしのことを想ってくれていると信じていた家族に裏切られたことが。惨めで、無様で、心が潰れそうだった。理由があるとはいえ、いずれは部族を取りまとめるだろうヤツの求めをわたしは断って逃げ出してしまったのだ。もうあの集落にわたしの居場所はない。

……。

一人立ったまま動かないわたしを水の粒が叩いた。雨だ。わたしは強くなる雨に打たれて様々な雨音を感じながら、耳の聞こえない彼のことを思い出す。わたしの居場所がもうそこしかないからなのか、わたしは今、猛烈に彼に会いたかった。

わたしの足は痛むのも構わずに、再び動き出した。



 雨が降り出したのはもう日が沈んでからのことだったので、ぼくはあまり期待せずに洞窟へ向かった。ぼくの部族では夜になると月明かりを頼りにして生活しているけど、天気が雨ということはもちろん空に月なんか出ていなくて、ぼくは手探りで洞窟へ向かうしかなかった。

 でも、やっぱり洞窟には誰もいない。ほとんど期待はしていなかったはずなのに、どこかで落ち込んでいるぼくがいた。そもそも何でぼくは夜だというのに洞窟へ来てしまったのだろう。今までは日が沈んでから雨が降っても、別に洞窟へ行こうとは思わなかったのに。

 岩に腰を下ろして彼女の姿を思い出す。

 彼女は世界をどう感じ取って、どういった世界の中に生きているのだろう。彼女の喉を通って発せられた声は、一体どんな響きなのだろう。無理なことだとは分かっているけど、それでも、一度で良いから彼女の声を聞きたかった。


 暗闇の中でうっすらと彼女の白い肌を見つけたのと、彼女がまるで体当たりするかのようにぼくに抱きついてきたのはほとんど同時だった。突然の衝撃に肺の中の空気が押し出されて後ろに倒れそうになったけど、何とか手を付いて耐える。彼女の体は雨によってとても冷えていて、触れてみた感じ彼女の足は土や草で汚れ、そして切り傷が何ヶ所もあった。

 彼女の呼吸は荒くて、口を開いて喉を震わせていた。理由は分からないけど、彼女は泣いているのだとぼくは悟った。弱々しく、体全身を震わせる彼女の姿は、ぼくといる時にいつも微笑んでいた彼女とは全くの別人のようだった。ぼくに抱きつき、泣きつく彼女のその行為はぼくと彼女の間にあった暗黙の了解を破るもので、だけどこんなにも辛そうに泣いている彼女を突き放すわけにもいかず、ぼくはただ、彼女の背に腕を回して、意味もなく『ダイジョウブ、ダイジョウブ』と、ぼくたちだけに通じるメッセージを彼女に送り続けるほかなかった。

 ……なあ、雨よ。おまえも地面に降る時は、きっと大きな音を立てているんだろう?

 だったら、彼女の心の叫びであるこの声を、せめて誰にも聞かせることのないようにかき消してしまうことは出来ないだろうか。



 眠りから覚めると、わたしは彼の腕の中にいた。洞窟へ向けて歩き出した辺りから記憶がなくて、正直今この状況に混乱と戸惑いと恥ずかしさしかなかったけど、わたしはそれらを飲み込んで、まだ眠っている彼を起こさないように注意しながら彼の腕から抜け出した。

 足の様子を確認する。痛みは大分引いていて、無理に動かさない限りは痛みに顔をしかめるなんてこともなかった。草や土といった汚れを払い落とす。

「……」

 彼はまだ眠っているようで、一定の寝息が聞こえる。どうしてわたしは彼の腕の中に収まっていたんだろう。どうしよう、本当に覚えていない。きっとわたしを慰めてくれていたのだろうと思うけど、もしかして何かしちゃったかな、わたし? 何も恥ずかしいことしていませんように。

 色々と昨日のことを思い出そうとしているうちに、また眠気が襲ってきた。もう色々とどうでも良くなってきて、もうここしか居場所のなかったわたしは眠気に勝てずに、そのまま彼の膝を枕にして、もう一度眠りについた。



 彼女の指がぼくの手の平を撫でていく。その手つきは慣れたもので、淀みなく二人だけの言葉は紡がれていった。

『ワタシ ブゾク ダス レル タ スム バショ ナイ モシ アナタ ヨイ アナタ ブゾク ツレル ホシイ』

 何がどうなって彼女が部族から離れるようになったのか詳しい経緯は分からなかったけど、昨夜の彼女を見た限り、何か彼女にとってとても辛い出来事があったのは確かだった。彼女の表情を窺うけど、その表情には迷いなんかなくて、はっきりとした決意が込められていた。

『ナンデモ スル イキル レル ナラ ヨイ ネガイ』

 ぼくは、今まで彼女との距離が近くなる度に塗り直されてきた、一度踏み越えるともう戻って来られない、そんな危うい最後の一線が消えていくのを感じた。ぼくと彼女はもう引き返せないところまで来ていて、ぼくはその意味を噛み締めて、そして飲み込んだ。

『ワカル タ ダケド ヒトツ ヤクソク アル』

『ナニ?』

『ズット ボク カラ ハナレル ナイ コト ……イッショ イル ホシイ ……イキル タイ ナラ ボク ト ズット イッショ イル テ ……ジャナイ ト キミ ツレル ナイ』

『……ヒドイ ヒト アナタ ハ』

『ジャア ツレル ナイ テ イイ?』

『…………バカ』

 外を見ると太陽が輝いていて雲一つなく、昨日の雨を感じさせるものはどこにもない。温かな光は洞窟にも差し込んで、ぼくと彼女を照らしている。眩しくて、ぼくは彼女の顔が見えなかった。

 彼女がぼくの手を喉へ持っていき、歌を歌った。この歌は彼女が一番好きな曲で、ぼくは、彼女に合わせて歌詞をそらんじる。とても古い言葉で意味は分からないらしいけど、不思議とそれは、今の僕たちにふさわしいような気がした


Please hear me I want to tell you

Please sing to me I wanna hear your voice

Please look at me I am lonely

Please smile at me I want you to be happy

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