第四章⑤

 刹那。

 一時落ち着いていた風は、突如としてその勢いを取り戻した。むしろその勢いは先ほどまでのそれを大幅に超えている。

 轟ッ!! と風速十メートルにも達するであろうその暴風を目の前に、陽目葵は「おお」と感心した風に唸る。

「これが『風神』の『アクティブスキル』か……。効果は『風速十メートル前後の風を生み出し、それを自在に操作できる。なおこのスキルは打者一人を打ち取るまで効果は持続するが、そのイニングが終了するまで風を操作することはできなくなる』、だったか。もう大詰めのこの場面なら、使ってきてもおかしくはないな」

 現実の試合ならば中止になるであろう暴風は、されどこの世界では受け入れられる。これも戦略の一種なのだと。それにしても、と彼は人智を明確に超えた力を目の当たりにして感動しそうになっているのを見咎めて、綴町が吼える。

「って、何ちょっと涙流してんですかーーーっ! これ見るからにヤバいですよねえ!?」

「まあ、ね。追い風状態で固定されたら、球速は三キロくらい増すだろうし、フライは例外なく押し戻される……。それが良い方向に作用することもあるかもだけど、長打は狙いづらくなるだろうなあ…………」

「何故慌てていないんだこの人は……! これじゃあまるで、縁側に座り込む死にかけのジジイ…………っ!?」

「まだ自分、十七なんだけど……」

 二死一、三塁と、サヨナラ勝ちも望めるこの状況で、勝つにせよ負けるにせよ、おそらくは最後の打者になるであろう九頭竜坂は、そのことを良く理解して打席に入る。

 ステータス面では元より押されている。その上スキルを使われては一層顕著だ。それに対抗するため――彼女を後押しするために、陽目もカードを切る。

「――九頭竜坂。『アクティブスキル』発動――――」

 それは投手である彼女をアシストする類のものではなく、打者として打席に立つ彼女を助けるためのものだった。

「――――【ジ・エンゴ】!」

 どことなくおっさん臭のするスキル名を唱えた瞬間、九頭竜坂の持つバットに赤いオーラが宿る。『任意で一種類の野手ステータスを一段階上げることができる』というもので、エースでありながら主砲を務める彼女の在り方を、まさに具現化したかのようなスキルである。

 陽目はここで迷いなく筋力値を上昇させた。風があるのだから、堅実性を増すために巧打力を上げるべきなのだろうが――前者の方が、いかにも九頭竜坂らしいと思ったからであった。

 そんな根拠も意図もないことをもし綴町に伝えれば、きっと彼女は激怒を通り超えて呆れ返り、一周回って後日怒るだろう。その姿は容易に想像がついた。

 九頭竜坂は振り返らない。今、彼女の瞳に映るのは打ち倒すべき敵――『風神』シルヴィア・アレクサンドラだけだ。そして、マウンド上の『神』もまた、そのバッターのことしか目に入っていないように思えた。

 『風神』はゆっくりと右脚を上げて、大きく全身を捻った。ランナーは一塁にいるものの、二、三塁にはできないのだからスタートは切れないと考えているのだろう。その豪胆なまでの読みは的中していた。九頭竜坂にはその捻りが、台風の渦であるかのように錯覚した。

 充分なタメを作って投じられたボールは、大気を屈服させるほどの威圧感を纏わせていた。ズドンッ!! と、キャッチャーのミットが弾き飛ばされるように移動する。身体の正面で受け止める形を作っていなければ、後ろへ逸らしていたのではないかと疑う威力。――それは、陽目との猛特訓時、九頭竜坂の直球を受け切れずに溢していたそれと酷似していた。

 初球は外角高めに決まってストライク。バックスクリーンに表示された球速は、一五〇キロとなっていた。なるほど、それだけの球威を秘めていたのだなと納得がいく。

 九頭竜坂はヘルメットに手を当てて被り直す素振りを見せた。逐一押さえておかないと、そのうち吹き飛ばされそうな印象を受けているからだ。それほどまでに、一身に吹き荒ぶ風は強烈であった。雨が気にならなくなるほどの暴風。

 二球目、三球目と立て続けに縦スライダーで攻めてくる。平時でも一三〇中盤は出ていたこのボールだが、この暴風下の恩恵を浴びて変化は控え目になっていたが、その代わり球速が一四〇キロ近くまで伸びていた。ほぼストレートと見分けがつかないそれに、まったく手が出ずに一‐二と追い込まれてしまった。

 あと一球、と明々白々な形で窮地に立たされる陽目。彼はそれでも必死に頭を回転させ、攻略の糸口を探っていた。

(まずカーブはない。あれは緩急をつけるためで、この否応なしに球速が増す中で緩いカーブはデメリットでしかない。あるとすれば残りの三球種だが、どれか一つにとは絞り切れない……! 特に縦スライダーと直球、この二つが厄介だ。ほとんど判別がつかない上に、読み誤ればまず空振りしてしまう…………)

 そんな迷いを抱いた相手を意に介さず、『風神』はトドメと気迫を込めた一投でこの死闘に幕を下ろしにかかる。

 それは、高めに伸びるストレートだった。ゴオッ! とあたかも咆哮しながら、九頭竜坂は咄嗟の判断でバットを振る――――

 完全にボールの下を叩いた打球は、スピンがかかっているのか捕手の後ろへ後方のゾーンへのフライとなる。ッ!? と、心臓に直接冷水をぶち込まれたように少年の身が凍るも、それはネットに当たりファールだった。ふう、と真面目に止まりかけたのではと錯覚した心臓に手を当てホッと撫で下ろす。

(迷ったままの状態で打席に入るなんて……どうかしているな。自分では平静を保っているつもりでも、内心ではひどく怯えているのかもしれないな)

 自分でも気付かないほど、感情のコントロールが上手いと言えば聞こえはいいが、この時ばかりは喜怒哀楽の激しい綴町が幾分羨ましく映る。自虐になるが、何故こんなにも面倒臭い人間になってしまったのだろうか、と。

 一度九頭竜坂にタイムを取らせて、新たに考える時間を設ける。猶予はさほどない。

(今のはストレートだった。シンキング・ファストボールなら良い具合に真芯で捉えられていたかもしれないし、高めで使ってくるのは考えづらい。あるいは低めであれば投げてくる可能性もある、ということだが……)

 正直言って、二択に絞ることさえ難しい。『風神』のボールは、それぞれが武器となるほどの効果を秘めている。いかにマシンで練習を積んできたといっても、所詮は付け焼刃を研いで多少切れ味を戻した程度。彼女の球を完璧に捕まえるのはいよいよ以て困難であると断言せざるを得ない。今まで何度かやってきた読み打ちも、相手にその気がなくては始まらない。何よりも、錦守アキラにはさらさら乗る気もないだろう。『風神』の力を誇示するだけで勝てる、これはそういう戦いなのだから――――

「…………、」

 この時、陽目にはある一つの仮説が立てられていた。

 せせこら布石を打っていたのではなく、これまでの錦守アキラという人物を振り返っての仮説。推察。当たっているという保証はどこにもありはしない。

 ただどのみち、このまま挑んだところで三つ目のアウトを献上することになるのは火を見るよりも明らかだ。中途半端なスイングで悔いを残すよりも、思い切って山を張り、フルスイングして幕引きした方が次戦以降にもプラスに働くに違いない。

「……マスター」

 ――決意した風の主の表情を、いち早く察した綴町はか細い声でユニフォームの袖をちょいと摘まんでくる。早まらないで、という不安を表に出さず、彼女は精一杯の激励を送る。

「――――大一番でのマスターの強さ……、私は信じてますから」

「――任された」

 これが、二人の主従の形。多少の上下関係など石ころ程度の感覚で蹴飛ばし、ほぼ対等な関係性を築いている。綴町が期待をするのなら、陽目はそれに全力を以て応えよう。その逆もまた然りである。

 九頭竜坂に狙い球だけを告げて、彼女はその理由を聞くこともなくそのまま打席へと入った。その指示に頷く顔に、疑いの色はなかった。

 勝敗を分ける五球目、『風神』の左腕が鞭のようにしなる。出所の見えづらい独特のフォームから、全身を活用したような剛速球が高めへ――――


 思いきり踏み込んだ九頭竜坂は、狙い澄ましたスイングでそれを振り抜いた。


 打球音は暴風雨によって半ばかき消され、視界も安定しない。その悪条件下の中で、投手と打者――両監督はボールの行方をきちんと捉えている。それはレフト方向へとややライナー性の打球が飛んでいた。

 当然、その打球は風の影響をモロに受ける。空は『風神』の領域だ、それを無視することなど何人たりともできはしない。

 ――それでもなお、九頭竜坂の放った打球は押し戻そうとする暴風に抗いながらも伸びていく。しかし詰まらせようと、三塁ファールゾーンに押し出そうという風によって徐々に失速していくのが解る。

 陽目は、無意識のうちに腰を上げていた。今まで大きな声を張り上げた経験が薄かったこともあり、自分の心情を声にして出すことに若干のタイムロスが生じてしまう。

 この打球は平時なら間違いなくスタンドインしていただろう。弾丸ライナー、そう形容しても何ら問題ない打球。だがそれも、やはり風によって押し返されていく。フェンス際まで飛ばしている時点で彼女の力強さは証明されているが。

 打球が落下点を探る、永遠とも思える時間。実際の所、それは五秒にも満たないだろう。九頭竜坂のパワーと、『風神』の象徴とも言える上空支配能力。それがまるで鍔迫り合いのような錯覚を覚えた。

 綴町もまた、ベンチから身を乗り出していた。その懸命な様子を見て、ようやく陽目の膠着が解ける。遅ればせながら彼も彼女の隣に移動して、吼えた。――ベンチにいた他の選手たちも同様に。


「「「行けェえええええええええええぇぇええええええええええええええええッ!!!!!!」」」


 十数にも及ぶ声援は、音の塊となって炸裂した。

 ――それが、どれだけ打球を後押ししたかは解らない。

 世界は元の速度を取り戻したようで、ボールは左にスライスしながらも突き進む。レフトポールに吸い込まれるように伸びていく。

 飛んで。

 飛んで。

 飛んで――――

 

 ――こん、と乾いた音を立てて、それはレフトポールに直撃した。

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