第四章②
「――とか何とか言いつつも、ネタバレしたのは自分のためなんですけどね」
と、陽目は先ほどまでの不敵さが嘘のようにぶっちゃけていた。
綴町もえーっと引き気味になって、それでも聞かなくちゃならないんだよなあ、と遠い目をしてマスターに問いかける。
「で、マスター。先ほどのトチ狂った会話が甘さでないというのなら、いったいなんなんですか?」
「まあまあ、それに答える前に、一つ面白いことをしてみせよう」
「……はあ。まあいいです。早くその面白いこととやらを見せてください」
呆れ返った様子の彼女を尻目に、陽目は断言した。
「――柳屋への初球、おそらくカーブが来るよ」
「えっ……?」
まさかぁ、と疑いの眼を向けてくる彼女の前で、『風神』は予言通り緩いカーブを放ってきた。それを予見していた打者がそれを逃すはずもなく、ショートの頭を越してタイムリーヒットとなる。これが『陽目ファイターズ』のこの日初得点であった。
いえーい、とハイタッチを交わす二人だったが、「じゃなくて!」と正気に戻った綴町が襟元を掴みグラグラと陽目の身体を前後に揺らす。
「いったいどうして解ったんですかマスター!? まさかマスターってば超能力者? 霊能力者? 予知能力者? 何でもいいですけどとにかく凄いです! その特技を活かして占い稼業を始めましょう! そんで宗教グループを作って信者を増やし、お金をジャブジャブ貢いでもらいましょーっ!!」
あまりの興奮に話が飛躍し過ぎている。それに、そんな大層な能力によるものではなく、単なる心理的なものだと弁明すると、彼女は途端に「なあーんだ」と冷めた様子に早変わりした。
さして興味がなくなったらしく、綴町は「で?」と半ば面倒臭そうに尋ねてくる。
「何でカーブだって解ったんですか。インチキ占い師さん?」
「根に持たないでくれたまえよ……。ごほん、自分はさっき錦守に対してネタ晴らしをした。それで自分が完全に攻略しているということが彼にも解ったんだ。とすると彼は、いったいどういう思考になると思う?」
「えーっと……シンキング・ファストボールは使えないし、風による球種のレベルアップも望めない。なら……その裏をかこうとする?」
「そう。だから『風神』はわざと追い風のまま、本来逆効果のカーブを投げてきたってわけだよ」
ふふん、と少し威張ってみる陽目だったが、予想していた反応は返って来ず、むしろ非難するような目付きになって、
「うーわー……。マスターって案外、狡い手を使いますね」
「失礼な。勝負事ではどんな作戦も正当化される、ってどっかの偉い人が言ってたし、自分の行いは正しいことのはず……だ」
そもそも株とかで荒稼ぎしている君が言うか、と突っ込む。
ともあれ、この手はもう使えない。『風神』はこの後風を封印して、純粋な高ステータスで抑えにくるだろう。彼女相手では、そう易々と連打は望めない。
無死一、三塁の場面で、六番は犠牲フライを打ってさらに一点を返すも、七、八番と打ち取られ三‐二と負けた状況のまま試合はラストイニングに突入する。
この回を無失点で切り抜けて、九回裏の攻撃に繋げたい陽目陣営だったが、そう都合良く試合を進めさせてくれるはずもなく、現在一死満塁の大ピンチに陥っていた。それに加え、打席には今日五打席目の三番近衛一本。まさしく絶体絶命の窮地である。
九頭竜坂の投球数も、もう一二〇球を超えている。彼女の持久力ではすでに限界に差し掛かっていても、それはむしろ当然と言える。
しかし、彼女は頑としてマウンドを降りることを良しとしない。それは控えの投手陣に不安を抱えているからであり――何より自分がエースなのだと、強い意志を持っているからであった。
近衛との勝負に移る前に、彼女はベンチにいる陽目に目配せをした。その意図を理解した陽目は、コクリと頷く。
満を持して初球、九頭竜坂の投じたボールは内角の高めに浮いてしまう。それを引っ張った打球は、惜しくもレフトスタンドのポールより左に飛び込む。球速も一四七キロと目に見えて遅くなっていることが幸いし、打者のタイミングが早まったらしい。
その打球の行方を見守っていた投手は、ふとタイムを取りマウンドを降りる。自分でやはり限界を悟ったのか――と誰もが思ったことだろう。だが実際は違う。彼女は近衛の眼前まで移動し、疲労困憊になりながらも衰えない眼光で睨みつけて言った。
「――やっぱりお前は、俺の知る近衛一本じゃねえ。お前がそいつなら、今のボールは絶対にスタンドに運んでいたからな」
「……、」
何を言い出すかと思えば、彼女は本人を前に今のあり方を否定してみせたのだ。錦守も打者の動揺を誘うための方便か、と考えたのか、文句を言いにベンチを出る――も、それを制したのは、この異例の騒ぎの渦中にいる近衛本人だった。
男は眼で己が主の足を止めさせたことを確認して、改めて九頭竜坂と向き合う。
「どういうことだ? 聞き捨てならんことを言う。私は近衛一本――貴様をここで打ち砕く者だ」
「……今のてめえは眼中にねえ。それだけの話だ。さっさと元いた主の下へ帰らせてやるよ」
彼女はそれだけ言うと、マウンド上に戻っていった。近衛はしばらく彼女の背中を眺めていたが、やがて己の仕事場へと戻る。
「――プレイっ!」
審判の合図で試合が再開される。先ほどのやり取りを静観していた陽目は、ここに来てようやく動きを見せる。
彼は綴町から一枚のカードを受け取り、それを九頭竜坂へ向けて唱える。
「――九頭竜坂。『アクティブスキル』発動――――」
そのカードが紅蓮の強烈な光を放つ。
「――――【昇り竜】!」
瞬間、陽目の持っていたカードが空気に溶け込むようにして消失する。代わりに、陽目陣営だけが視認することのできるオーラが、九頭竜坂に纏わりつく。
彼女は満塁だというのにかかわらず振り被り、天を割るつもりかと錯覚するほどの雄叫びを上げて、渾身の一球を投じた。近衛は今度こそタイミングを合わせて、それの通る軌道へバットを振る。
――この試合を見る者全てが、眼を疑ったことだろう。
それは現在に拘らず、これをデータとして見る未来の猛者たちをも驚かせるはずだ。
九頭竜坂の投じたボールは、あろうことか重力に逆らい伸び上がったのだ。比喩ではなく、物理的にボールが浮き上がった。
予想外――そもそも有り得ないボールに対して、その遥か下を空振ってしまう近衛もまた、いつもの鉄面皮が崩れ目を見開いている。
【昇り竜】――――九頭竜坂の持つ唯一の『アクティブスキル』であり、同時に唯一の変化球と呼べる球でもある。
常識的に考えれば、ボールは重力に逆らうことはできない。回転をどう工夫しても、どうしたってその影響を受け、ボールは僅かに落下してしまうのである。速ければ速いほど、その落差は小さくなるが、いかに一六〇キロを超えたストレートであっても浮き上がることはない。そう錯覚させる速球を投げる者もいるが、物理的に浮くボールは投げられない。絶対にだ。
物理的にその現象を引き出そうとするならば、一六〇キロ以上出た上で〇,五秒以内に五十回転以上する球は浮く、とされているが、これはあくまで絵空事で生身の人間では絶対に到達できないものだ。それはたとえカードの身であっても不変である。
九頭竜坂の『アクティブスキル』は、そんな不可能を一球だけ可能にしてしまうという、桁外れに強力なもの。そのスキルは一試合中何回も投げられるが、その代償として多大なスタミナを消費する。フルで使用することを考えたら、絶対に完投などできはしない。本来ならリリーフに適性があると言ってもいい。
(ここまで打たれても我慢してきてくれた九頭竜坂のためにもこの試合、絶対に負けられない! 勝利を以て、彼女の力投に応えてみせる!)
あの浮き上がるボールを一球見せたことで、もう伏線としては充分だ。この回まで投げたことで、もう彼女の限界は底をついている。これ以上負担をかければ、これ以後の試合にも悪影響を及ぼす恐れもある。
山郷は高めに構える。いつもの釣り球と同じだが、それまでの過程が決定的に違っている。脳裏に焼き付いた残像が、必ず近衛のバットを鈍らせる。
その計算通り、近衛は高めのボール球に手を出してしまい、空振りの三振に切って落とす。念願の、宣言通りの三振だというのに、九頭竜坂は露とも嬉しそうな顔を見せない。それもそうか、と陽目は心情を汲み取って、静かに頷いた。
(君がリベンジしたい相手は、『この』近衛一本ではなく『前の』近衛一本なんだな)
綴町が全身を使って喜びを前面に出していたが、次のバッターが打席に入ったのを見てその感情は萎んでいく。何故ならそのバッターとは今日、先制の二点タイムリーを放った強打者、『風神』シルヴィア・アレクサンドラであったからだ。
彼女は打撃性能だ見れば確実に近衛には劣っていて、相手打線の中でナンバーツーのスラッガーではある。直前の勝負でその主砲を圧倒した九頭竜坂ならば、抑えられる見込みは充分にあるだろう。
だが、今の彼女は傍目からも解るほど疲弊している。いや、彼女自身はそれを表に出すまいと堪えているようだが、あからさまに球威が落ちている。このボールでは九頭竜坂のボールにいい加減慣れたであろう『風神』に通用するかは怪しいところだ。塁が空いているなら敬遠もありだろうけれど、今はフルベース――歩かせてもぶつけても自動的に一点を与えてしまうのだ。
危機的状況は何ら変わらない。だというのに、九頭竜坂の表情は素振りをする『風神』を見てもピクリとも動かない。どこまでも冷めた眼。先ほど近衛に向けた闘争心が嘘のように霧散したようだった。
――その彼女の姿を見て何を思ったか、ここまで一言も――少なくとも陽目陣営とは――言葉を交わさなかった『風神』が、打席に入らんとする足をピタリと停止させる。それから九頭竜坂を観察するような目つきで目視する。
「……先刻のスキルで、どうもスタミナは底をついたと窺える。無理もない、ここまで投げてこられた方がおかしいのだからな。同じ投手として、余が手ずから引導を渡してやろう」
「――――て」
マウンドを馴らすために足元に目をやっていた九頭竜坂は、彼女の言葉に反応しゆったりとした動きで顔を上げる。――いかにも「どうでもいい」と言わんばかりの感情を携えて。
「御託はいいからさっさと打席に立て。雨が鬱陶しくて、早くベンチに帰りたいんだよ」
「…………!」
暗に『お前をアウトにすることは決定事項だ』と突きつけられた『風神』が次に向けたのは、滾るような激昂の視線だった。さもプライドが傷付けられたというような顔をしていた。
「――誰に向かって其のような口の利き方をしていると思っている! 余はSレアの王、全てのSレアの頂点に立つ者だ! いかに同じレアリティであろうと、本来貴様のような低性能がそのような不敬な態度を取って良い相手ではないのだ!!」
その豹変具合に、九頭竜坂は煽られるどころかむしろへえ、と感心した風に唸る。
「てっきり、お人形さんみたく無口な奴かと思ったら、中身は独裁気質の女王様かい。まあ、『神』と持て囃されているから、浮かれちまうのも解らんでもないがな」
変わらぬ物言いに、怒気を撒き散らしながら詰め寄るシルヴィア・アレクサンドラ。乱闘寸前の雰囲気になってようやく審判が二人に注意をする。これを破れば即退場となってしまうので、『風神』は怒りを宿したまま打席に入る。やっとかー、と当事者の一人である九頭竜坂は、呑気にクルクルと肩を回しながらそれを確認する。
彼女は丹念に間を取っているなと思いきや、陽目の脳内へ声を飛ばしてきた・
『――楽勝だなんて言ったものの、あいつは実際侮れない打者だ。……悔しいが、落ちてきた今の球威じゃあ、抑えられるとは到底言いきれねえ。だから、マスター。……頼む』
「……………………解ったよ」
少しの間熟考した陽目は、小さく声に出して頷き、綴町から補充してもらったカードを受け取る。一度決めたその行動に、迷いはなかった。
「――九頭竜坂。『アクティブスキル』発動――――」
そのカードには、天駆ける竜の姿が力強く描かれていた。
「――――【昇り竜】!」
スタミナが限界に達したところから、スキルを連発。九頭竜坂にかかる負荷は相当なものだろう。彼女の意識の一端に触れているからこそ、解る。それを少しでも和らげるために、彼は山郷の【導き手の矜持】も併用して使用した。そのスキルにより、彼女の『球速』が一段階アップし元の『A+』に戻る。欲を言えば持久力が上がる方が良かったが、変化球とかに割り振られるより何倍もマシな結果だ。
『いや、悪くねえ。下手にスタミナが回復されると、せっかくの集中の糸が切れちまう。それよりもこうして、阻害されてきた力を取り戻せた方がありがたい』
気休めではなく、九頭竜坂は本心から直接漏れ出たといった風の言葉を口にした。どう足掻いても全力投球ができなかったという事実が歯痒かったのだろう。
『――それに、今日はすこぶる調子が良い。マスターが俺を使役して、今までで一番の出来だ。今なら、マスターに真の実力を見せてやることができるかもしれねえ』
正直言って、今日この試合を迎える直前まで、九頭竜坂との同調は完全ではなかった。
大名寺との試合の時よりは改善したとはいえども、まだ七割の力しか出せていないと彼女は苦言を呈していたのだ。彼女の球をほぼ四割の意識で捕ることに成功し、必然的に投手に割ける意識は多くなったのだが、それではまだ足りないということだった。
思えば、九頭竜坂の直球を『受ける』練習は積んできても、彼女のそれを『投げる』練習は意識的に積んでこなかった。それでは力を引き出せていないのも当然だな、と苦笑いしたものである。
不完全なまま試合を経るにつれ、陽目は自分でも彼女の力を徐々に引き出すことができていると実感していた。ステータスが低下している中で一五四キロを叩き出し、コースもある程度投げ分けることができるようになってきた。
今なら、という思いは、当然芽生える。
(今なら、九頭竜坂の力をフルで使いこなせるかもしれない)
疲労が溜まっているのはお互い認知しているものの――それでも、より上が見渡せるかもしれない機会を、みすみす逃す気持ちが起きなかった。
初球、【登り竜】の恩恵であるボールが上昇する直球で、まず一つ空振りを取る。それを目の当たりにして、空振った状態のまま若干硬直する『風神』。
二球目、浮き上がるボールの残像が焼き付いていることを利用して、山郷は外角低めに構える。リリースの際、指先にボールの縫い目が強く引っ掛かる感覚が伝わる。九頭竜坂の力強い指先が、強力なスピンを生み出す。
これを三塁ファールゾーンへボールを飛ばした『風神』だったが、彼女の顔は渋い。今のはコースに逆らわず流したのではなく、差し込まれた上で振り遅れたのだと理解しているからだった。
そして、勝負球となる三球目。バッテリーは内角へのストライクゾーンを選択した。この時陽目の胸中にあったのは、確信にも似た予感であった。『今の九頭竜坂なら、誰相手でも打たれる気がしない』、と――――
ワインドアップから、脱力を思わせるゆったりとしたテイクバック。そこから視認困難なほどの高速の腕振りから投じられるボールは、ミットに吸い込まれるかのようにインコースへと伸びていく。九頭竜坂の指先には、ピリッとした痺れが――抜群の感触が生じる。
『風神』の反応は早かった。早く、速く振ろうと始動するバットは――されど停止した。内角を抉る直球をボールと判断したのか、それとも手が出なかったのか。ともかく打者の手が止まった。否――九頭竜坂が止めさせたようにも見えた。
球速にして今日のマックスを記録した、球速にして一五五キロの直球がインコースに決まり、ストライクを告げる審判の手が高々と上がった。
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