第四章 主従の形

 試合は八回裏にまで突入していた。設定なのだから当然だが、雨の止む気配は依然としてなく、サーッとやや霧状に降っている。

 スコアは六回表から動かず三‐〇のまま、陽目側に残った猶予はアウト六つだけだ。いよいよもって物理的に追い込まれてきていた。

 しかしながら相手バッターは三番から始まる好打順。こちらの投手からしてみればこのイニングさえ凌げば勝ったも同然、と捉えていることだろう。

 だが、錦守は微塵も油断した素振りを見せない。『風神』を完投させて、隙を与えないまま勝利する。加えて、彼は一つだけ懸念を抱いていた。

(てっきりシンキング・ファストボールを見切ったものだと考えていたんだがな……。ここまでまったく動きなし。確信を持っているのなら何らかの策を講じてきてもおかしくはないが、それすらないとは本格的に杞憂だったか……?)

 その可能性が高いからといって、もう回も終盤の半ばに入っている。さすがに気付いていても不思議ではない段階まで来ているのだ。なるべくシンキング・ファストボールを多投せずに他の三球種で勝負すべきだろうと、錦守は結論付けた。

 『風神』の数ある武器の一つとして、緩急が挙げられる。速い直球と緩いカーブ――この二つの急速差は四十キロもある。大抵の打者はこの緩急に狂わされて、自分のスイングができぬままアウトになるのが多い。

 彼はその組み立てを軸にリードしようと、捕手に初球は直球を要求させる。インコースに決まったこれを見逃し、次にカーブを投げるよう指示を出す。これで打者の体勢を崩して、一球見せ球を投げた後縦スライダーでとどめを刺す――――

 カキンッ! と強く振り抜いた打球は三遊間を鋭いゴロで破った。仕留め方まで描いていたというのに、その過程を狙われてしまった。

(今のは明らかにカーブだと読み切ったスイングだ。緩急を利用してくるとバレていたのか? ちょっと単調に攻め過ぎたか……)

 いかんいかん、と反省をして、頭を切り替えて次打者の四番に意識を集中する。今日相手チームで『風神』を捉えているのはやはりこのSレアの九頭竜坂だ。侮っていて打ち取れる相手ではない。

 無死一塁のこの場面、あまりランナーを溜めたくないのが本音だ。それならばランナーなしで一点くれてやった方がまだ守りやすい。最高の結果はダブルプレーだが、そのような欲は捨て去り、まずこのバッターをアウトにすることに専念する。

 大事な初球は、カーブを低めに外しボールとなる。先ほどが急から緩であったのなら、今回のは緩から急だ。『風神』は二球目にアウトコースギリギリに投げ込み、ワンストライクを取る。三球目に選んだのは縦のスライダー。急激に落ちるその球は空振りを取るのに最も適しており、ストライクを取ることにも使える。その球がバッターの膝元に落ち――

 ――カッ! と火の出るような打球が一塁ファールゾーンへ飛ぶ。完全に芯で捉えられていた。ファールになったのは結果論、幸運にほかならない。

 反対に今のをフェアグラウンドに飛ばせなかったのは痛いだろう、と九頭竜坂の顔色を窺うも、大してショックを受けているようにも、それをひた隠しにしている風でもなかった。また次がある――そんな雰囲気を感じ取った。

(あのスライダーをああまで捉えられていると、三球種の中で安心して投げられるボールがなくなるな……。仕方ない、ここはシンキング・ファストボールで打ち取るとしようか)

 ほぼ見極められている三球種に比べて、そのボールはまだ掴み切れていないはずだ。その正体を完全に掴まれているのなら、ここまで無失点で収まっているわけがないからである。まだ九回の攻撃を残しているのが不安ではあるものの、シンキング・ファストボールは高確率で相手打者の芯をズラし、内野ゴロを生む魔球だ。この状況でこそ威力を発揮するボールだろう。

 打者に確実に手を出させるためにコースをわざと甘くして投げる。力めば百中、そうでなくとも普段通り手を出した時点で勝敗は決まっているも同然だ。

 一‐二からの四球目、真ん中やや高めのボールに対し、普通に振りにいく初動を見せる九頭竜坂。間違いない、相手はまだこのボールを見切ってはいな――――


 気付けば、ボールは右中間を抜けていた。


 センターが自動でその打球を追い、クッションボールを処理して素早く二塁へ投げるも間に合わず、一塁走者の足があまり速くなかったことと打球が強すぎたことが幸いし、タイムリーとなることを防ぐことに繋がった。

 この日初めてといっていいピンチを前に、錦守は恥も外聞もなく動揺を露わにしていた。

(馬鹿な……っ! 相手の監督は……陽目葵は、見極めていたというのか…………っ!? 俺たちが絶対の自信を誇る、シンキング・ファストボールを…………!)

 だとしたら、それに気付いたのは四回裏の攻防だろう。あの時の九頭竜坂のカットの仕方、こうして判明した後で思うと明らかに球質を確かめにきていた。何故これほどまでイニングを消費することになっても、あえて撒き餌を続けていたのかは解らない。解らないが――もう安易なシンキング・ファストボールは投げられなくなってしまった。

「――どうして今までそのボールを打ちに来なかったのか、って顔が丸見えですよ」

 捕手に話しかけてきたのは五番の柳屋だった。それは外見上の話で、実際は陽目葵が一時的に男の意識を借りて話しかけているのだ。

 柳屋はベンチに座っている錦守の方を見ながら声量を上げて、あろうことか種明かしを始め出した。

「それはね、待っていたんですよ。『風神』を打ち崩すためのピースが、全て出揃うのを」

「何だと……?」

「自分が『風神』に対して抱いた違和感は二つ。まず一つは四種類目の変化球の存在。これはおそらくご想像の通り、四回裏の時点で気付いていました」

 だったらどうして、とありきたりな質問を予測していた男は、雨風に晒すようにして人差し指を立ててみせた。

「――もう一つが、この風です。この風そのものが、自分にとっては違和感でした」

「…………!」

 そこまで言われて、錦守もようやく気付く。この回の先頭打者がカーブを打ったことと、多分関係があると。

 またもや表情に出ていたのだろう、陽目はそれを見透かした風に頷いた。

「そうです。『風神』は投球時、【風の申し子】により風を自在に操ります。直球やシンキング・ファストボールの時は追い風――そして緩いカーブの時は、向かい風へといった具合にね」

 少年の推測通りだった。速い球の場合は当然球速を上げるために追い風にする。しかしその風だと、緩いカーブには逆効果で変化量も小さくなってしまうのだ。

 だからこそ、『風神』はカーブを投げる時のみ、追い風だったのを向かい風へと変えた。そうすることによってカーブの変化量は増加するからだ。

「これは気付くようで存外気付かないものです。風を意識するのは守備の時くらいで……あとはホームランを狙う際に注意を払う程度ですから。――だけどこの試合に限って言えば、自分はこの雨天に救われました」

 今風は投手にとって追い風の状態で――それに流されて雨がバッターの体半分を濡らしている。肌で雨を感じているのだ。

「散々悩まされたこの雨が、カーブの時だけ身体に当たる部分が違うことに気付いた時は、さすがに震えましたよ。――そして同時に、反撃に必要な手札は揃った」

 固有スキルである風と、相手を確実に仕留めるシンキング・ファストボール。この二つの種が割れた以上、シルヴィア・アレクサンドラの脅威は半減する。

 その事実に奥歯を噛み締めながら、錦守は最後の質問をぶつける。

「――何故だ。何故、そんなことをわざわざ明かす? 黙っていれば、まだそれを利用することはできたんじゃないか?」

「……簡単なことですよ」

 何? と訝しむ錦守に対し、不敵な笑みを浮かべてみせる陽目葵。彼はその笑みのまま口を開く。

「――自分は、正々堂々と勝負がしたいんですよ。それにこんなこと、貴方ならすぐに気付くでしょう?」

「――――っ!」

 何だその笑顔は、と錦守は拳が赤くなるほど強く握る。

 『チーム戦』は冗談抜きで己の人生がかかっている。たったの一敗が明暗を分けるこの世界で、何故そんな甘っちょろいことをのたまえるのか、彼には解らなかった。

(なおさら、この試合を落とすわけにはいかない……! 現実を見ることのできん輩は、ここで躓くべきだ。わざわざ弱肉強食の世界に足を踏み入れるまでもない……。俺が、今日、この場で、その芽を摘み取ってやる…………っ!)

 無死二、三塁。

 この試合の趨勢を握る攻防が、幕を上げた。

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