乗り越えられなかった壁

『乾いた風にかき消されて 最後の声もきこえない』


 ギターのリズミカルなカッティングをシンプルなルートで支えるベース。4ピースバンドの特徴を殺さないように、キーボードがしめやかなバッキングで彩り、ドラムが規則正しい8ビートのリズムを刻んでバンドを牽引する。

 そうして出来上がった音の土台に乗せるのはもちろん声。そんじょそこらの声と侮るな。女性らしからぬ、腹の底から出した野太くかすれた声である。


 文句なしの出だし。


『ふりむかないで今はまだ、思い出をLONELY ANGEL』


 僕の状況は依然として変わらず、下を向いて立ち尽くしたまま。


「そ、そうだ、弾くフリだけでもしなきゃ……あ、」


 力の入らなくなった指からあっけなくピックが転がり落ち、予備のピックがマイクスタンドに取り付けているのを忘れて拾おうとしたら、ピックアップが雑音を拾い耳障りなハウリングを引き起こす。慌ててギターのボリュームを下げようとしたら、今度は足がもつれてワウペダルを踏んでしまい、うねりを上げた金属音がスピーカーから放たれる。


 スピーカーの間近にいた客がとっさに耳をかばい、僕を睨む。


 PAの人がなんとかしてくれたおかげで最悪な状況を脱することはできたが、なにもしようとしない僕を最前列の客が胡乱げに見る。


 翔子が懸命にギターをかき鳴らしながら歌っている。ポッキーと玉響が、僕の異常に気づいたらしく、こちらを見る。


 ――なにやってんだよこんな時に。


 そう思われたかもしれない。いや、きっとそう思っているに違いない。終わりだ。仲間たちにも迷惑をかけてしまった。でもどうしていいのかわからない。不安と焦りで涙がにじんでくる。


 今すぐこの場から立ち去りたい。


『ポケットにつめこんだ、夢だけですごせたネ』


「翔子……」


 そのあとに続こうとした「助けて」という言葉を我慢して、唾と一緒に飲みこむ。


 翔子は自分でなんとかしろと言った。


 でも……


『夜の吐息に飲み込まれて、ふるえていたLONELY ANGEL』


 みんなの躍動感に満ち溢れたパフォーマンスによって観客のボルテージがさらに上がった。そんな彼らの勇姿を見て、客が腕を突き上げ全身で拍子をとって歌っている様子が、刹那的に照らされたスポットライトの光で浮かび上がる。


 翔子は、練習から帰ったあとDVDを何度も繰り返し見ながら表現力について研究していた。もちろん自分が演奏するためではなく、僕たちに教えるために。


 翔子の指導の下、新校舎の階段の踊り場に設置された縦長の鏡の前で、何度も振り付けの練習をした。最初は、他の人も通るので恥ずかしかったけれど、慣れてくると色んな案が生まれて、自分をかっこよくみせるためにこうしたいとか、みんなとノリノリになって練習したのが記憶に新しい。


 その甲斐あってか、去年はほとんど棒立ちの状態で演奏したのが嘘みたいに、みんな水を得た魚のように活き活きとしながら楽器を弾いている。


 彼女の涙ぐましい努力の結果が生んだ成果だった。 


『ON THE WING WITH BROKEN HEART やぶれた翼で come on SAY !!』


《ON THE WING WITH BROKEN HEART !》


『もう一度翔ぶのさ』


 翔子がモニターに片足を上げて煽りを入れ、観客がそれに応える。序盤は誰もが知っている曲で観客をのせ、バンドに興味を抱かせるという翔子の作戦は、目の前に広がる観客の反応を見れば明らかであり、見事に的中したといえよう。


 彼女は、僕の未来。

 本当に、未来の僕はこんな風になれるのだろうか。


 翔子は女だけれど、未来の僕だということは、彼女の話しを額面どおりに受け取れば、間違いない事実と言える。しかし、僕はそのことにずっと懐疑的だった。乱暴で、がさつで、口さがなくて、生意気で、人を惹きつける力があって。今の僕にはないものばかり。僕の未来がそうなるなんて、とても思えない。


 ただでさえ、今もこんなに人の目に怯えているというのに。


『もう一度笑ってよ、TO THE BOYS & GIRL』


 翔子はサビを歌い終えると、甲高い音を弾かせながら舞台端に躍り出て、観客が見惚れるような男まさりの弾き方でギターソロを奏でる。


 地鳴りのような歓声が巻き起こる。


 テクを要求しないソロは単純明快な簡単なものだけれど、そのメロディラインはいまだに耳に残って色褪せてくれない。


 僕の最初の見せ所だったけれど、あれほど練習してアレンジも加えたのに、お披露目できないままこんな状況に陥ってしまった。観客の盛り上がりようと、みんなの活発的な演技を見ていると、これでよかったのかもしれないとさえ思えてくる。こんなときに冷静に分析している自分が、憎くてくやしくてたまらない。みんな必死になって演奏しているのに、練習の成果を思う存分に発揮しているというのに、最後の最後で、なんてざまなんだろう。


 そんなことぐるぐるいつまでも考え続けていたら、いつの間にか曲が終わっていた。


「翔くん!」


 玉響が今にも泣きだしそうな顔で僕に近寄ってこようとするが、翔子に後ろ手で止められ、


「行くな萌! ……これは、こいつ自身の問題だ。オメーは自分の心配だけしてろ」


 玉響は立ち止まり、いつまでも名残惜しそうに僕をみつめている。ポッキーが左端から僕に向かって声にならない檄を飛ばしてくるが、翔子のMCに遮られてしまう。


『遅くなって悪かったなオメーラ! サマフェスラストを飾るライヴ、おもいっきり楽しんでくれてるかッ!』


 威勢のいい煽りと共に叩かれたドラムと大歓声に舞台が揺れる。


『OK, 事情があって俺がボーカルを務めることになっちまったが、オメーラのその声を聞いてほっとしたぜ。あー、次の曲にいく前にひとつだけ、俺に加えて新しいメンバーを紹介します。天才キーボーダー萌!』


 玉響は、肩から吊り下げた桃色のキーボードを自在に操り、メロディアスなソロでそれに応える。出演を予想だにもしなかった観客が、奇声混じりの声を上げて彼女を祝福した。


『どーだ萌、俺たちのバンドは? サイコーだろ』


 そこでポッキーがマイクを通し、


『姉御、なに二人だけで盛り上がってんだよ。俺たちも紹介しろっつーの!』


 と言って、フレッドの端から端まで使ったアグレッシヴなベースソロを勝手に展開し、後ろのタマゴッチがそれに続いてヘヴィメタバリの高速ドラミングで観客を盛り上げる。


 翔子が笑い、


『オーライ、とにかくこんな自己主張が強くて、とびっきりのヘタクソ共が集まったバンドが、俺たちシャコタンズです』


 演出用の花火が飛び散り、ふたたび楽器が弾きならされる。翔子が、ライトの影に隠れようとする僕を一瞥するが振り返り、


『もうあまり時間がないが、このあとは続けざま、とびっきり曲をオメーラに送ります』


 辺りの照明が消されピンライトが翔子に点る。彼女がコードをかき鳴らすとみんながそれに続き、


『ちょっとぐらいの汚れものならば 残さずに全部たべてやる OH ダーリン』


 次の曲がはじまった。


 大半の観客が口ずさむ一体感のある会場の中で僕はひとりぼっちだった。下を向いたまま、もう顔を上げることすら叶わない。今になって思えば、父さんや母さんにも迷惑をかけてしまった。とうとう自慢の息子になれなかった。


 父さんたちは今どこにいるのだろう。見に来てくれているのだろうか。いや、たとえ見に来ていたとしても、この様を見れば幻滅するに違いない。


 もうみんなに顔を合わせることができない。


 もう僕がこの場にいても無意味だけど、このまま大人しく弾いているふりをしてやり過ごし、ライブが終わったら、ほとぼりが冷めるまで、どこかにひとりで旅にでよう。


『あるがままの心で 生きられぬ弱さを 誰かのせいにして過ごしてる』


 翔子が振り返り、僕を睨んで演奏を促す頻度が増ふえる。下を向いていも気配でわかる。でも僕はもう終わった。もう期待に応えることは無理だ。


 歌は大サビが終わって短い間奏に入る。そして、終盤に突入する手前に入り、


『成り行き任せの恋に落ち時には誰かを傷つけたとしても、そのたび心痛める時代じゃあああああもう我慢ならねええええッ! はいストップ、ストーップ!!』


 激しい怒号がハウリングを帯びて場内を駆け巡ると共に辺りが静まりかえる。


 ――翔子が、キレた。


 突然の出来事に僕は面を上げ、メンバーたちも唖然として彼女を見ている。翔子はギターを床に置き、スタンドからマイクをもぎ取り、僕を指差し、


『オメーは一体そこでなにしてんだ、アアンッ?』


 怒号のたびにまき起こるハウリング。


『カーッ、なんなんだそのヘタれっツラは! こんなのが俺だなんて、だらしねえったらありゃしねえッ。舞台に上がったとたん急にもう弾けなりましたーってバッカじゃねえの? ヘッタクソのくせにいっちょ前に緊張とかしてンじゃねーよ! 昨日の晩、晒してやった俺の超過剰的行為は水の泡じゃねえかこのクソッタレ!』


 ――翔子が壊れた。


 そこで今度は、唖然とする観客に向かい、


『みんな聞いてくれよ、こいつ舞台に上がるまでやる気満々だったくせに、上がった途端「やっぱり無理だよ、どうしよう弾けないよ」って。情けねえ顔して俺を見てくるンだぜ、みんなどう思うよ?』


 客の失笑が飛び交う。


『ロクな才能もねえのにプロになるとか言っちゃってよお、そんな根性なんてこれっぽちもねえのに、なに調子ぶっこいてンだよ!』


 僕は今、未来の自分に、10万人を目の前にして、罵られている。これで完全になにもかもが終わった。


 彼女の罵倒はそれでも終わらなかった。


『オメーは昔っからそうだったよな。バカで、のろまで、人の目を気にして、クッダラねえやつの言い分鵜呑みにして、ちょっと貶されたらすぐ拗ねて傷つくし、人と比べてばっかで、いまだにお袋のことママとか言いやがるし、ギターはじめた頃だってすぐにあきらめようとして、どーにかこーにか続けてやっとこさ伸びたと思ったら、誰かに中傷されたのがきっかけで落ち込んで、自分嫌いを爆発させて、気が遠くなるほど自分を追い込んで傷つけまくって、一年も悩んでどーにか乗り越えたと思いきやこのざまだ。それでいて自分はこんなもンじゃねえって、いっちょ前に自分の理想像だけは高くって、今はちょっと調子がワリィんだって、もう少ししたらって、事あるごとにクサった女みてーにネチネチネチネチみみっちい理屈こねやがって。あンなあ、言っとくがそりゃオメーが頭ン中で作り出した白髪三千丈バリの妄想なンだヨ!』


 突き刺すように伸ばした人差し指を乱暴に下げて舌打ち、


『なあ、いー加減気づけよ、バカだって認めちまえよ自分のこと。ああクソッ、オメーのその煮え切らねえ態度見てると昔の自分思い出してイーッてなンだよこのクソッタレが!』


 ずっと味方だって言ったのに、なんで彼女は僕の傷つくようなことばかり言うのだろう。口さがないのはいつものことだけど、僕のことをそういう風に思っていたことも知り尽くしているけれど、なんでこんな大勢の前でそんなことを言われなければならないのか。


 心の中に、ちいさな赤い点が生まれる。


『これだけ言ってもだんまりか。誰かこいつにバカヤローって言ってやってくンねえか、セイ』


 ほどなくして会場の誰かが遠慮がちに言った。


「バカヤロー」


 会場から爆笑の渦がドッと立ち上がる。


『お、いいノリだ。オーライ、もっと言ってやってくれ、翔のバカヤロー』


 最初の一言が切っ掛けとなったのか、今度は10万人が発した声が波となって返ってきた。声が風となって前髪を揺らし、圧倒的な音圧に思わず仰け反ってしまう。耳鳴りまで聞こえた。町全体が揺れたと思う。騒音レベルは優に上限値を超えたと思うし、スカウターを装着していれば測定不能でぶっ壊れたに違いなかった。


 絶対に近所迷惑だ。


 三軒隣の西田のおじいちゃんの入れ歯が外れたかもしれないし、コンビニ店員の佐々木くん推定年齢16歳がバイト帰りに腰を抜かしたかもしれないし、山下さんちの桜ちゃんがびっくり起きて泣きだしたかもしれない。


 そんなことはどうでもいいけれど、とにかくめちゃくちゃ恥ずかしかった。


 平均点以下の答案用紙を他人に見られることよりも、人前でギターを演奏することよりも、好きな女の子に告白することよりも、恥ずかしいことだった。


 思う。


 なんで僕は、関係のない人たちにまでバカにされなければいけないのだろう。


 認めたくはないけれど、バカなのは自覚している。けど、迷惑なんて掛けた事のない赤の他人に、なぜそこまでバカにされないといけないのか。全く理解できない。


 バカでなにが悪い。


 赤い点が、くやしさの炎となって一気に燃え膨らむ。


 ――これもすべて翔子のせいだ。


 混乱の極致にあった頭が怒り一色に上書きされた。


 無性に腹が立って仕方がない。


『みろ、こいつらもオメーのことをバカだって言ってるぜ? もうバカでいーじゃねえか。僕はバカじゃねえって頑なにバリア張って一生過ごすつもりかよ、バーカ』


 もう彼女が何を言っているのかも聞こえない。


 ギターをそっと床に置き、震える手を抑えながらコーラス用のマイクを殴り取る。そして大きく息を吸い込み、翔子を睨みつけ、


『バカって言うやつがバカなんだよ!』


 キィーーーン…………


 今度はみんなが僕を見る。


『……はは、やっと言い返してきやがったか』


 ムカつく。翔子のことが超絶ムカつく。

 彼女の暴走を止めようともしないメンバーにもむかつくし、彼女に乗せられ無神経に僕の悪口を言って笑った観客にもムカつく。


 翔子は偉そうに腕を組み、僕の更なる返しを待っている。その態度がいちいち癇に障る。


 言ってやる。


 今まで心の中に留めてたけれど、もう我慢できない。この場で洗いざらいぶちまけてやる。僕を怒らせたるとどうなるか思い知らせてやる。


 ――ライヴ? んなモンどうだっていい!


『僕のことを散々好き勝手に言いやがって。だったら言わせてもらうけど、君はどうなの? 自分はさも完璧だって口ぶりだけど、そんなこと全然ないね! 女のくせに歯軋りするし寝言は言うし下着のままで寝るし寝相は悪いし、いい年して食べ散らかすし何度注意しても爪楊枝で歯をせせるし、女の子なんだからもっと女の子らしくしたらどうなの!』


 そこで翔子贔屓の客が僕にむかって野次を飛ばしてくる。かまうもんか。翔子の嫌な部分を知って幻滅しろ。いい気味だ。


『やかましい! もっとあるンだから黙って聞け! 目つきなんか最悪で、他人と目が合えばガンクレだってすぐケンカ売るし、ガニ股歩きで、猫背で、授業中平気で鼻くそほじろうとするし、おならはしないけどゲップはするし、コンビニのエロ本見てにやけるし、この前なんかよだれ垂らしながら自分の胸見てうれしそうに、』


 翔子の思いつく限りの失態が、とめどなく口から流れ出ていく。会場に今までにない笑いが生まれた。メンバーたちも笑っている。


 翔子は思わぬ反撃に顔を赤らめ、口をふにゃふにゃさせて狼狽するが、彼女の後ろで大声で笑うポッキーを睨みの一線で射殺したあと、振り返り、


『だ、黙って聞いてりゃいい気になりやがってッ!』


 怒り狂って叩きつけたマイクが、凄まじいノイズと金属音を発生させる。


「そんな減らず口叩けンなら曲のひとつやふたつ弾いてみやがれ!」


「うるさい! 君だって僕をバカにしたでしょ、その仕返しだ!」


「くうううッ、ナマ言いやがってえッ。今日という今日は本気でぶっ殺してやる!」


「それはこっちのセリフだ!」


 かくして取っ組み合いのケンカがはじまった。


 翔子が先制して平手打ちをかましてきたのに対しすかさず平手打ちを見舞う。二度目が来たので腕を掴んでそれを止めるが、不意を突かれて足払いを食い、マウントを取られそうになるが、腕の力を使って横に共倒れてそのまま舞台を転げ回る。


 会場全体の笑い声が聞こえる。


 負けるな、もっとやれ、そこだ、などの野次も飛んできた。夜店で売ってるヨーヨーや、空になったペットボトルまで飛んできた。こっちは至って真剣なのに。


 そこで会場のどこからから、聞き覚えのある声が飛んできた。


「翔子! 人様の前ではしたないマネはやめなさい! それと翔になんてこと言うの! 謝りなさい!」


 ――母さん……ッ!?


 翔子が、僕の手で顔をひねり潰された状態で、


「ふぎぎぎ、ウルセーッ、お袋は黙ってろ! テメエの息子に性根を叩き込んでやってンだ、感謝こそされても非難される道理はねえ! ふぎぎぎ」


 僕もそう変わらない顔をしていると思うが、翔子の顔がもみくちゃにされてひん曲がっている。


 が、それどころではない。


「痛い痛い……ッて、翔子ごめん、僕の負けだよ。ね、だからちょっとどいて!」


 翔子を無理やり突き飛ばして立ち上がり、声のした方に目を凝らしてみる。


 一瞬で見つけた。


 目を凝らすもなにも、ここからほんの数メートル離れた先に彼らがいた。今までどんなに探しても見つからなかったのに、こんなに近くにいてくれてたなんて……


 僕たちを激励する文字が書かれた白い横断幕。それを腕いっぱいに広げて、父さんと母さんが僕を見ていた。


 母さんが、その布切れの文字が読み取れないくらいに振り乱しながらこう叫ぶ。


「かけるーッ! 私たちはどんなことがあっても貴方の味方よ! 貴方は、私の自慢の息子よ!」


 横断幕の黒い文字は、くちゃくちゃになった今でも頭の中で鮮明に残されている。


 “ガンバレ翔&翔子!!”


 夜な夜な父さんと二人で居間にこもって何かをしていたのは知っていた。僕たちを応援するために二人でそれを一生懸命に作っている姿が脳裏に浮かんでくる。


 父さん、母さん……ッ。


 隣にの父さんに目を合わすと、親指を突き立ててにっこりと笑ってくれる。が、なぜかそこで態度を一転させて周囲の観客に向かってこう叫んだ。


「バカと言ったやつは誰であろうとこの私が許さんからな! ただし、翔子だけをのぞく!」


 どれだけ親ばかなのだろうと思う。なりふりかまわず必死になって声を上げる姿が、僕の心を温めてくれる。すごくありがたかった。


 翔子が程なくしてマイクを拾って立ち上がり、ヘコんだヘッドを見て「フン、安モンが」とマイクに悪態をつきながら、もぞもぞとスタンドに戻し、


「ヘッ、親バカなのは相変わらずだな。お、どーした、なに嬉しそうなツラしてンだよ」


「え?」


 確かめるように顔に手を当てた。わかるはずなんてないのに。


 翔子が砂埃のついた制服をはたきながらさらにこう言った。


「どーだ今の気持ちは。自分をバカって認めちまったら、案外、世界が変わって見えるモンだろ、違うか?」


 その通りだった。


 心臓を叩きつけるような動悸が、滝のように流れだした汗が、指の先から体全体に広がっていた震えが、あの凄まじかった不安感が、行動に歯止めをかけた無気力感が、いつの間にか収まっている。


 そこでポッキーがベースヘッドにピックを差し、翔子に続いてこう言ってきた。


「翔、お前はお前だ。そんなバカで臆病なのがお前なんだ。……って多少なりとも誰だってコンプレックスぐらいあんだろうが。俺なんかなぁ、」


 タマゴッチがスティックを器用にくるくる回しながら続いてこう言った。


「そんなヘタレなところがあって人間臭いブラックヘッドが、みんな好きで集まったんだよ。これからはポッキーの言うとおり、悩み事があったらみんなに相談して。仲間なんだからさ」


 僕が自分で嫌悪している部分を、みんなが認めてくれている。


 翔子は言った。


 ――バカでいいじゃねえか。


 バカでいいと、みんなが言っている。 それがお前なんだと、みんなが言ってくれている。


「てかオメーラそんな風に俺を見てたの? 自覚してただけにある意味ショックだわ」


 翔子が自分のことのように言った言葉にみんなが笑う。そこで栗ボーが、舞台袖から大声でこう言った。


「貴様は仮にも俺様の次の次に選ばれし者! あくまで俺様以下の存在であることは確かだが、盟約に結ばれし同志を見捨てるほど俺様は落ちぶれてはおらん!」


 涙が溢れてとまらなかった。


「ま、ちっぽけなプライドなんて犬に食わせろってこった。アーァ、いいよなオメーは。こんなに自分のことを理解してくれるダチがそばにいて。俺なんかオメーより欠点だらけでしかも30年もそれに気づきもしねーで苦しんできたンだぜ。うらやましすぎンだっつーの」


 人はみな、自分の欠点に苦悩し、傷つきながら、今を生きている。同じような悩みを抱え、時には傷つけ合いながらも、今をがむしゃらになって、生きている。


 それなら僕にだって……


 翔子が口を傾けて不敵に笑う。いつもの、憎らしいほどハマった笑顔だ。


 ……ッ!


 それを見て、ようやく気づいた。


 彼女が、ライヴを台無しにしてまで気づかせたかったことに、それを気づかせるために一計を案じたということに。観客を巻き込んだのはわざとだ。バカでも平気だと思わせるための、彼女なりの演出だったのだ。


 彼女は、ギターを弾きながら、歌いながら、本番中に必死になってそのことだけを考えていた。


「翔子……もしかしてまた僕のために……」


 翔子は声には出さず、口パクで何かを言った。


 ……こ・れ・が・さ・い・ご・だ・ゾ……


 そう言ってるような気がした。


 彼女はウインクひとつ。人差し指を口に当ててすぐに振り返り、マイクスタンドに両手でもたれ掛かるようにして観客に向かってこう言った。


『ヨシ、オメーラ聞いてくれ! あー、みんなも知ってのとおりこいつはバカだけど、たったひとつだけ、オメーラにも自慢できる取り柄がある。それは……ギターだ』


 翔子の言葉にふたたび静まり返る場内。


『聞いたことがねえやつにはわかンねーだろうが、コイツの腕は特級品だ。この会場にいる誰もが目を見張る天下一品の代物よ。ただ非常に残念なことに、俺にはねえ輝きを持っているコイツが、どーしても乗り越えられなかった壁に今、ぶち当たっている』


『はたから見りゃ些細なことかもしンねえが、それでも俺やメンバーたちがどう手を尽くそうがどーにもならなかった。だがあと一歩、あと一歩で、それを乗り越えられるところまでコイツはきている。頼む、一生の願いだ。コイツを知ってるやつも知らねえやつも、好きなやつも嫌えなやつも、この会場に集まったというだけの理由で、コイツのすべてを受け入れてやってくンねえか。コイツの心にオメーラの勇気を届けてやってくンねえか。コイツは、こんなところでくたばるやつなンかじゃねえ。この先、今日集まってくれたテメーラが「俺、過去にアイツのこと応援してやったンだぜ」って誰もが自慢できる力を秘めた腕の持ち主だ! だから、だから頼むッ!』


 翔子がマイクを祈るように握り締め、観客に頭を下げた。


 ――そこまでして僕のために……ッ


 すると、静まり返った会場の中から、誰かが手拍子と共にこう言った。


「か・け・る」


 続いて誰かが呼応して、


「か・け・るッ」


 何十、何百と呼応の連鎖がはじまり、それは瞬く間に10の5乗分の翔コールとなって会場を駆け巡る。


 中傷の声は、すべて僕が作り上げた妄想だった。心震えるこの声援がなによりの証拠だ。


 そこで玉響が突然――


 タタタタタタタタ、タタタタタタタタ、タタタタタタタタ、タタタタ、タタタタ、


 近未来を想像させるような電子音を弾き始める。


 テンポはアレグロ141BPM。規則正しい拍子をとって四小節目で繰り返す。


 彼女の粋な計らいを読み取ったベースとドラムが、何のとまどいもなく三回目の繰り返しでそれに続いた。


 ターン、、、タタン、、、タタタン、、、タタタン、タタタン、


 この曲……


 ギターの音だけが足りない状態で、彼らは揃ってその四小節を繰り返しはじめる。


『オイオイ……萌、これを土壇場で演れってのか? むちゃブリにもほどがあンだろーが。おいみんな、練習しなかったけど大丈夫……へっ、心配して損したぜ』


 そこでポッキーが、


『あったり前よ姉御! 俺を誰だと思ってんだ、朝中イチ、いや日本イチのベーシストだぜ!』


 と翔子の前に躍り出て、幾何学模様が描かれた白いベースを自慢するかのように、規則正しいビートに合わせてアドリブを加える。


 観客の声援に舞い上がり、すごく調子にのっていた。


『萌ちゃんセンス抜群だね。誰の影響? あ、言わなくてもわかるか』


 玉響が僕を見て真っ赤になって下を向く。翔子が僕を見ないでこう言った。


『翔、もう、とべねーとは言わせねえゾ』


 答えは決まっていた。汗ばんだ手の感触を確かめながら、床に置いていたギターを拾い上げる。


 僕は、落ちるところまで落ちた。もう二度と迷わない。今度こそ、弾いてみせる。みんなが僕のギターを待ち望んでいる。この上ないバカで、いつまで経っても小心者の僕の腕を、思い知るがいい。


 マイクスタンドに備えていた新しいピックを取り、ボリュームを上げ、ハーモニクスで音程を合わせていく。


 翔子が後ろを振り返り、僕の顔を見てニヤリと笑って前を向く。


『時間なんてとうの昔に通り越してンが、最後に一曲だけ。どんなやつらが来てンのか知ンねーが、最後の夜がオメーラでよかったと思います。……いくぜ、こんな夜にうってつけの、おもいっきりぶっ飛んだやつをラストに送るぜッ!』


 翔子の甲高いシャウトが夜の校庭に響き渡る。


 僕はここぞとばかりに放たれた叫び声に続き、四分の一の一に合わせておもいっきり――

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