最高の思い出

 7月24日 土曜日 PM7:05


「好きなひとができたんだ」


 別々のカキ氷を食べながらの帰宅路で、身を切る思いをしながら翔子に心のうちを告げたのが四日前。ところが彼女は、


「ヘッ、思い詰めた顔で突然何を切り出すかと思えばンなことか。ンなモン今さら言わねえでも分かりきってることじゃねえか、俺に告ってきやがったと思ったぜ。てかカキ氷はやっぱイチゴ味に限るぜ超うめえ」


 派手に笑われた。


 恥ずかしさがこみ上げてきて何も言えなかったけど、彼女ほど鈍感すぎる女子もいないと思う。その後やけ食いしたメロン味のカキ氷が頭と心に染みた。


 二日前なんかこうだ。練習中に翔子が「なんかたりねえな。オメーラもっとこうバーンて、ダイナミックに耳に残るようなサウンドを……んー何か足りてねンだよな」と言うものだから、すかさず彼女を見つめ、


「ひょっとして、僕の愛情が足りてないのかな? おかしいな……ぼ、ぼ、僕はずっと君一筋なのに」


 今度はみんなにも笑われた。翔子は大声で笑い飛ばしながら「リーダーに愛情注ぐなンて当たりめえだろ、なあポッキー」と言って接ぎ穂をふられたポッキーが「え、いや……姉御を愛すとか無理だし」と言ってボコボコにされていた。

 真剣に言ったつもりなのになんで分かってくれないのか。ひょっとしてムードが足りてないとか。うん、きっとそうだ。


 とにかくそんなこんなでまったく想いが伝わらず、色気ゼロ男臭満開の練習三昧の日々が過ぎていき、何ら思い出も作れないままあっと言う間に本番一日前となったリハーサル後の帰り道。翔子が強面おじさんの店で買ったたこ焼きを頬張りながら、


「アン? どーした翔、明日本番ってのに顔色悪りぃゾ」


 青海苔を気にせずたこ焼きを貪る美少女も逆にアリだと思えてきた今日この頃。


 心配してくれるのはまことにありがたいのだけれど、踏んだり蹴ったりの日々の繰り返しで、どうもモチベーションが上がってこない。夏休みが終わるまでまだ時間はあるが、僕は彼女ともっと濃密な日々を過ごしたかった。


 海に泳ぎに行って山にセミを取りに行ってプールで水着姿を見て線香花火をして浴衣のうなじを見てカキ氷を食べて間接キスして肝試しで抱きつきたい。


 残された時間を使って一年分くらいの思い出を作ろうと誘うのに、彼女は頑として「ンなことやる暇なんてどこにあンだよ。練習に集中しろ」の一点張りで、まともに相手にしてくれない。サマフェスが大事なのは分かるけど、せめてひとつぐらい、ふたりだけの思い出を作っておきたい。


「花火くらい一緒にしてくれたっていいじゃないか……」


 思わずして、内に秘めていた思いがポロリと口から出てしまった。翔子は面倒くさそうなため息をつき、


「明日でっけえ花火が見れンだろ、それで我慢しろよ」


「それとこれとはまた別なの! 僕は、君との思い出が……」


「あー、わーったわーった、たく面倒くせえなー」


「え? じゃあ一緒に花火、」


「たーだーし! 本番が終わってからな」


「ええええええ今日しないのお?」


「たりめーだろ、今日は明日に備えて早く寝るンだ。それはそーとオメー久々にやンのに緊張とかしねーのかよ」


「え……」


 言われてみれば、いくら人前で弾くことが克服できたとはいえ、舞台の上に立って弾くのは一年ぶりだ。


 理想の弾き方との差が埋まらず、練習すればするほど穴だらけの自分に絶望し、はたしてこんな状態で本番に間に合うのか、と自分で自分を駆り立て泥沼にはまってしまうあの感覚。今となってはそうなる原因もわかっているけれど、翔子のたった一言で、初めてのライブ直前に経験したあの感覚が蘇ってきた。


「うわあああ翔子のバカ! そんなこと言うから逆に緊張してきたじゃないか!」


「チッ、ほれ見たことか。てか俺のせいにすンじゃねえ!」 


 と言って逃げようとする彼女の肩をつかみ、


「どうしてくれんのさ! こんなんじゃ本番どころじゃないよ!」


 と詰め寄るもあえなく突き飛ばされ、


「あーもう知るかっ、自分でなんとかしろ!」


 PM7:20


 明日のためにと作ってくれた母さんのご馳走がまったく喉を通らない。今までなんともなかったのに、翔子が急にあんなこと言うものだから完全に意識がそっちのほうに向いてしまった。これは誰がなにを言おうと絶対に彼女のせいだ。


 僕が気負っているの察したのか、みんな一言もしゃべらずにご飯を食べている。それが逆効果だということになぜ誰も気づいてくれないのか。翔子も先ほどからブツブツと呟きながらご飯を食べている。最後の最後で僕がこんなだから苛立ちを隠せないのかもしれない。


 練習で、翔子が一生懸命になってみんなを引っ張っていく姿が思い起こされる。


 サマフェスに集中しろとあれほど言われてたのに、なんで僕はいつもこうなのだろう。このままでは彼女にいい所を見せるどころか、本末転倒になってしまう……


 そんな事を考えていると、翔子がいきなり机を叩きつけて立ち上がり、


「ヨシ決めたッ!」


 突然なにを思いついたのか、母さんたちがポカンとした表情で彼女を見上げている。翔子は思いの丈を打ち明けるかのように重々しくこう言った。


「こうなったら俺が人肌脱いでやる……。翔ッ、ひとっ風呂浴びンぞ!」


 意味が分からず、五秒ほど無音状態が続いた。


「え~と、お風呂に入りたいの? その……勝手に入っ」


「オメーと一緒に入るつってンだバカヤロー!」


 僕はようやく理解して、静かに箸を置き、睨み返し、


「あのねえ! お風呂に入るぐらいでなんで僕がそこまで怒られなきゃいけなの! 僕に断らずいつもどおり勝手に入ってくればいいじゃないか! それともなにさ、僕と一緒にお風呂に入るとでも……って、え? いやいやいやええええええええええッ!?」


 僕が立ち上がって驚くと「耳元ででっけー声だすな!」と翔子に頭を叩かれた。そして、


「二度は言わねえ。これでクソ度胸がつかなかったらぶっ殺してやるからな……お袋、水着の準備だ!」


 母さんは至って普通に食事を再開し、たくあんをボリボリと噛みながら、


「……あるわけないでしょ」


「なんでだ!」


「日に焼けるから泳がないって、未来からきたのに貴女そんなことも――」


「カーッ、水着のひとつも用意できねえとかなんて気の利かねー嫁なんだオメーはよう! 親父の苦労が身に染みてわか……痛って」


「気が利かなくて悪かったわね」


 母さんが必死に笑いを堪えている父さんをひと睨みで黙らせる。


 翔子がなぜこういう行動に出るのかがまったく理解できなかった。とはいえ、願ってもない幸運がいきなり舞い込んできた。そうか、これは今まで練習を頑張った僕に神様がくれた早めのクリスマスプレゼントなのだ。


「あーもぉどーにかなンねーのかよ!」


 PM8:30


 かくして水着は用意された。


 翔子のわがままに困り果てた母さんが、渋々二階の倉庫をひっくり返してなんとか探し当てたのだ。かなり面倒だったようで、母さんがぼやいている。


 だが、問題がひとつ。


 その問題の水着は、濃紺色で胸元にクラスと名前が書かれた布を貼り付けられており、前から見るとミニスカートを履いてるように見える旧時代の学校指定水着だ。すなわち、


 スクール水着である。


「なあー、なんでこんなのしかねンだよ~。物持ちよすぎンだろテメふざけてンのか、なー、他のねえのかよぉ、俺こんなのヤダよぉ、なあー」


 洗面所の狭い空間で、翔子がそう言って駄々をこねている。とはいえ、水着はすでに着用済みだ。彼女をじっくりと観察する。名札の文字が歪んで読めないまでに強調された胸の膨らみに、思わずため息が出る。母さんのよりデカイ。髪は上にあげてお団子にしていた。


「あら似合ってるわよ、それで我慢しなさい」


 呆れながらそう言った母さんに、翔子がさらにブツクサと文句を垂れ流す。そんな翔子にとうとう嫌気が差したのか、母さんが、論点とはまったく関係のない、彼女の私生活の態度や女性らしい振る舞いにケチをつけはじめ、それを聞いた翔子が、理想の母親とのギャップやら料理の味付けが薄すぎるといった難癖をここぞとばかりに当てこする。

 このままいくと大喧嘩に発展してしまいそうな論争が目の前で展開されているが、多分、ここで止めたら二人に殺されるだろう。

 と、そこで彼女が傍観している僕を見て、


「……よう、なにボケーッと見てンだヨ。誰のためにやってると思ってンだ、アン!」


「あ、えっと、僕も水着履いても、」


「オメーは俺なンだからフルチンでもかまわねぇだろーが! オラ脱げッ、もたもたしねーでとっとと脱ぎやがれコノヤロウ!」


「ちょ引っ張んないでよ、無理無理ムリだってばあ! 母さん止めて」


 よしなさいと母さんに止められ、翔子が悪態をついて引き下がる。


「はい翔、貴方の海水パンツよ」


 なぜ僕のも学校指定の物なのか疑問に思う。しかしなにはともあれ、願っていた事とは若干違うけれど、こうして僕の願望のひとつは成就された。


「理由が解ったから今回は大目に見ますけど、くれぐれも翔にへんな誘惑しないように」


「ウッセーなわかってンよ、自分にンなことしてたまっか」


 翔子曰く、このたびとった行動の原因は、僕に度胸をつけさせるためとのことだった。おかげで緊張はどこか遠くの空に飛んでいき、いまや別の何かが僕を支配している。一緒にお風呂に入る条件は「俺に一切触れるな」で、普段から普通にスキンシップを取っているのになぜかと聞くと「状況がまるで違う」とのことだった。


 翔子が髪と体を洗ってくれた。がさつに洗われたが、またそれがいい。至福の極みとはまさにこのことだといえる。今の彼女にナイ部分を洗い終え、先に湯船に入っていた彼女に「自分の体は洗わないのか」と聞くと「オメーが出てから洗う」と、上ずった声で湯船に入ってこいと言われた。


 ふたり並んで膝を抱え、湯船に浸かる。


「翔子、ありがとね。おかげで緊張がほぐれたよ」


 彼女が、巻き上げた髪のひと房を摘んでいじりながら、


「ま、俺もそーいうの経験あったからな。こんなときどーすっか考えたら、やっぱそれをかき消すほどの体験っきゃねえなと思ってな。でもってこうしたってワケよ。オメーもプール行きてえってウッセーし」


 うれしかった。口では否定していても、僕が言ったことをキチンと頭に入れてくれていたのだ。しかも結果的にはプールより断然こっちの方がいい。なんでも言ってみることは肝心だと思う。それにしても火照った顔がかわいすぎる。翔子の額から流れた汗が混じるお湯が僕の全身に染み渡るのを感じる。可能な限りずっとこうしていたい。


「そういえば、あれって完成したんだよね」


「アレって時空転移装置のことか? そういやドクのやつ、ンなこと言ってたな」


「あの、約束したよね? 夏休み中はいてくれるって言ったよね? 急に帰りだすとか言わないよね?」


「顔が近けンだヨ! オメーひょっとしてわざと俺に触ろうとしてンじゃねーだろうな」


 湯船に浸かった時点ですでに腕とか当たってますけど、とは口が裂けても言えなかった。


「ご、ごめん」


「ま、すぐに運用できるわけでもねーし、調整やらなんのかんのでまだ少し時間が掛かンじゃねーの」


「そう、だったらいいけど……」


 僕の不安を感じ取ってくれたのか、翔子がやさしく微笑み、


「安心しろ。男に二言はねえ」


「うん……」


 母さんからもらったあのハンカチを使い、量子の性質を利用して未来の世界に帰る方法。


 量子クロスオーバー。


 しかしそれは、彼女の世界に残った衣類に付着しているハンカチの粒子があることを前提とした仮説的手段で、先生は「ペアになった粒子は時空を超えても繋がっている」と言ってたけれど、本当にそれで未来に帰ることができるのだろうか。とはいえ、彼女が元の世界に帰る方法はそれ以外にないのはたしか。先生を信用していないのではないけれど、翔子の体を量子分解するという話は常識的に考えて実に疑わしい。なにより彼女の体が心配だ。翔子のために一生懸命作ってくれた先生には悪いけれど、壊れてしまえいいのに、て思ってしまう。未来に帰すと決心したはずなのに、別の心がどうしてもそう思ってしまう。はたまた運命のいたずらで、僕の決心、彼女の思い、先生の努力でもどうにもならないことが起きて絶対帰れない状況にでもならないかな。そんな可能性が少しでもあれば……


 いや、ダメだ。


 もしそうなったとしても、彼女はなんとしてでも、未来に帰る道を探すはずだ。


「でも、量子になるんだよね。大丈夫? 痛いかもしれないよ?」


 揺さぶっても意味がないのはわかっていた。


「た、多分問題ねえ。仮に痛かったら未来のドクをぶっ飛ばすまでよ、へへ」


 翔子はそう言ったきり黙りこんでしまう。


 今度は僕が余計な一言を言ってしまった。それともなにか不安になるようなことでもあるのだろうか。とにかく話題をそらすことにした。


「そういえば君、出会ったときからメチャクチャだったよね」


「はあ? ンなことねーだろ。フツーだろフツー」


「全然普通じゃありませんでした。だって素っ裸で家に入ってきたんだよ? みんなに自分は翔だとか言って、てっきり新手の変質者かと思ったよ」


「クッ……」


 湯船に口をつけて泡立てる姿が悶絶するほどかわいい。


 僕が思い出を口にしたのが切っ掛けとなり、ふたりでこれまでの出来事を振り返ってみることにした。


 翔子とふたりで夜中にひっそり起きてキッチンに忍びこみ、冷蔵庫の缶ビールを飲もうとしたら母さんにばれて大目玉を食らったこと。みんなとデパートに買い物に行ったとき、翔子が冗談で腕を組んであげたら父さんが感涙を流して買い物どころじゃなくなったこと。学校の駐輪場に粕谷明42歳独身元担任の原付が止めてあるのを見かけて「お前のことをよく知ってる者だ」と、彼女の過去で起きた粕谷の誰にも言えない不祥事の数々を書いた手紙を毎日のように残していたら、五日目の夕方にその場で泣いて空に向かって「もうしません許してください」と叫んでみんなで大笑いしたこと。翔子が家庭科の授業で作ったクッキーに大勢が群がり、その中に田中先生が混じっていて「ひと欠けらでエエからワシにも恵んでくれ」と泣いてみんなをドン引きさせたこと。ちゃんと後で僕の分と鳥野先生の分を小分けにしてくれたことに感動した。


 まだある。


 向かいの山下さんちに行ったとき、翔子が「俺将来この子と結婚するんだ」と言って桜ちゃんのおしめを替えていたら顔面におしっこをかけられたこともあった。いつもお世話になっているからといって先生を晩御飯に招待したとき、年の若い先生にデレデレの母さんに父さんが焼きもちを妬いて、翔子が「俺がいるじゃねえか」と言ったら父さんが「私も翔子だけでいい」と言ったものだから母さんが激昂して「実家に帰えらせてもらいます」と大騒ぎになったことも。


 まだまだ言い尽くせないほど沢山の出来事があったけれど、湯船の中で語れる範囲の思い出話に、笑いの華がたくさん咲いてくれた。今更ながら、色んな思い出が詰まっていたことに気づかされる。彼女のありがたみを心の底から感じる。


「君がこの世界にきてくれなかったら、僕はずっとあのままだったんだろうな」


「否定はしねえが多分そうだろうな、俺がそうだったように」


「ありがとね」


「なんだよ藪から棒に……照れンだろうが」


 と翔子が口を尖らせてそっぽ向く。巻き上げた髪の先に見えるうなじが女性らしさを感じさせる。


「あのさ、サマフェス終わったら色んな事していーっぱい遊ぼ。海行って泳いだり、遊園地に行ってお化け屋敷とか、あとジェットコースターにも乗ったりして……あ、そうだ! ポッキーたち誘って南部川でバーベキューやろうよ! 父さんが釣った魚焼いて、母さんが持ってきたおにぎりと一緒に食べる。翔子は何が食べたい? タマゴッチは何でも食べるけど栗ボーは好き嫌い激しいからなあ……そうだ、久しぶりにクワガタ取りに行こっか! 想像しただけでワクワクする。とにかく、沢山いい思い出を作りたいな……翔子と」


 翔子がそんな僕を鼻で笑い、


「いい思い出ばかりが、いい思い出とは限らねンだぜ。ま、オメーもまだまだガキ、つーこった。てかそろそろ上がるか」


 と言って立ち上がる。

 

 至福の時が終わってしまう。時間なんか止まってしまえばいいのにって思う。観念して上がろうとしたところで、ふと、あることを思い出す。


 ――彼女にまだ、想いを伝えていない。


 そう思ってしまった途端、彼女の存在が強烈に意識される。心臓が早鐘を叩き始める。


 ムードなんて考えている暇はない。今を逃したら、この想いを伝えられない気がする。


 彼女に続いて勢いよく立ち上がり、そして、なけなしの度胸とありったけの勇気を振り絞り、


「翔子あのねっ」


「は? なんだよ急に」


「そ、その……つまり、これから言うことを真剣に聞いてほしいんだ。じ、実は僕、前から……その、」


 言葉に詰まってしまう。早くも心の底からかき集めた決意が瓦解しはじめる。


 後悔すると分かっているのに、なんてバカな事をしようとしているのだろう。それに翔子だって嫌な気持ちになるに決まっている。なぜなら僕にそんな気持ちを抱いていないから。これは僕の一方的な恋であり、永遠に実ることのない僕だけの恋。これ以上彼女を困らせてどうするのか。いい思い出ばかりを作って帰らせてあげるのではなかったのか。


 ――いい思い出ばかりが、いい思い出とは限らねンだぜ。


 翔子の言った言葉が頭をよぎり、燻りかけた炎がふたたび勢いよく燃えはじめる。


 そうだ。フラれて居心地が悪くなってもかまわない。泥臭く告げた日のことも、ほろ苦さが心に染みる夜も、過去になれば笑って思い出すことができる。翔子と暮らした日々のすべてが、いい思い出なのだ。


 翔子のことだから、僕をおもいっきりフッて笑い飛ばしてくれるだろう。

 かまわない。

 それは僕にとって、最高の思い出になるのだから。


「翔子!」


「だから、なんだって言ってンだろ」


 翔子が胡乱げに僕を見ている。


 おもいっきりフラれてやろう。


「僕は出会ったときから君のことがッ、ああああああれ」


 と思いきや突然目の前が暗くなる。


「お、オイ、急にどうした――」


 肝心な時にのぼせてしまった。なんで僕はこんなにバカなんだろう……


 一瞬、目の前が暗くなった時はどうしようかと思ったが、体勢がさほど変わっていないのをみると、どうやら倒れ掛かったところで翔子が支えてくれたようだ。それにしても、倒れかける寸前に掴んだモノは一体何だったんだろう。それに、つい先ほどから顔面全体を支配しているこの柔らかい物体はなんなのか。懐かしさを感じさせてくれるこの凄まじき包容力をもったふたつの物体。気持ちいい。癒される。ずっとこうしていたい。


 だが、やがて視力が戻り、それに気づいた。


 ――ッ!!


 朦朧としていた意識が一気に覚醒した。


 手を引っ掛けてしまったのは彼女の水着だった。僕はいま、上半身をひん剥かれた彼女の裸体のふくらみに顔をうずめている。すなわち、この懐かしいぬくもりと柔らかい弾力性をもったこのふたつの物体の正体は、翔子の、


「て、て、てんめええええ」


 翔子が怒りを溜め込んでいる。胸に七つの傷をもった漢のように。


「あ、いや……これは、その」


 胸の谷間から覗いて見える彼女の顔がとんでもないことになっていた。なので慌てて離れようとしたら不可抗力で、彼女の胸を掴む形になってしまう。素早くその手を離すが、思わず鼻血が吹き出てしまうくらいの丘が顕わになってしまい、まずいと思ってふたたび丘に手をつけて隠すが当然のごとく逆効果。


 翔子がさらに怒り狂うのは当然のことだった。


「グギギギ、いいギャグ持ってンじゃねえか小僧おおお」


「違うんだ、これは事故だよ、わざとじゃないよ、ほんとだよ! でもこの手を離しちゃうと見えちゃうし隠さないとダメだから仕方なく、」


「この思い出は、逝きがけの駄賃にとっとけやウラアしねえええええ!」


 神様のイタズラによってもたらされたこの出来事は、彼女には不運だったかもしれないけれど、僕にとっては、この夏最高の思い出となった。そんな幸運を掴んだのもつかの間、僕は今、腹と背中をおもいっきり殴られ湯船に沈められようとしている。まさに天国から地獄だ。


 翔子の怒声に駆けつけてきた母さんが水中から見えた。


 母さん、自慢の息子になるどころか変態の息子になってしまってごめんなさい。ひとつ聞きたいのだけど、これが青春というものなのでしょうか。僕は今あの世に旅立とうとしています。思い残すことはもうありません。どうかお元気で。


 苦しさが薄れ意識が遠のいているのを感じる。


 けれど今、僕は満足している。

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