前に出ない限り僕の未来は変えられない

 PM9:15


 正門を出ると、暖簾を下げた屋台が通学路沿いに所狭しと伸び拡がっており、本番までまだ日があるにも関わらず、活気ある人の群れで溢れていた。このような状況が当日まで連日連夜続くのだ。


 無言のまま歩く僕らの隣をお面をかぶった子供たちの群れが駆け抜けていく。綿あめの甘い香りと焼きもろこしの香ばしいにおい、色とりどりのボールを浮かべた青い水槽、一等のゲーム機は絶対に当たらないくじ引き、意外と難しい輪投げとヨーヨー釣りを横目に、気まずさを気取られないようにしながら30歩ほど歩いたところで足を止める。


「あのさ、よかったらたこ焼きでも食べながら帰らない?」


 しゃべる切っ掛けが欲しいだけに決めたことだから、逆に玉響のうれしそうな顔を見ると罪悪感に胸が痛む。僕たちの前に並んでいた親子が、待ち時間なしにお目当ての商品を受け取り、屋台を後にした。もうすぐ店じまいなのかもしれない。


「あい、らっしゃい」


 角刈りにねじり鉢巻をまいた強面のおじさんに元気な声をかけられ、カウンターの前に出る。玉響が感激の色濃い顔でかばんの中から財布を取り出そうとしていた。


「あ、いいよ。いつもお弁当持ってきてくれるし、ここは僕が奢る」


「あれは私が勝手にしてる事だから!」


「遠慮しないでよ。そうだ、ひとつ買ってふたりで分けて食べよっか」


「はあう」


 何気ないその一言が玉響の赤面値を上昇させた。


 ――しまった。これじゃまるでデートじゃないか。


 翔子の目論見に気づいた矢先、おじさんの怖そうな目が視界に入ったので慌てて注文を繰り出した。


「すみません、たこ焼きひとつください」


「あんちゃんたちデートかい?」


 おじさんのその余計な一言が、玉響を一瞬で茹で蛸に仕上げる。


「違います、単なる部活の帰りです!」


「そんなにムキに否定しちゃ隣の彼女に申し訳ねえぞあんちゃん」


 玉響を見ると、赤面値が一気に下降して、重たい雰囲気を漂わせていた。ここは冗談でも話を合わせたほうが良かったのだろうか。いや、変に期待させるのは逆にまずい気がする。


「まぁ姉ちゃん、彼氏も照れ隠しでそう言っただけだからあんまり気にすんな」


「か、彼氏……」


 会心の一撃だった。彼女の赤面値が一気に上限を突破して計測不能となる。


「ちょ、玉響、しっかりしてよッ」


 倒れかける寸前の玉響を抱きとめた。翔子の目論見どおりの展開が再び訪れる。ひょっとしてこれは翔子が仕掛けた罠ではないのか。そう思い至って辺りを見回すがいない。どこかで福引の「大当たり」の快哉を叫ぶ声が聞こえた。


「しかしせっかく寄ってくれたのに悪いが、実はあと五つしか残ってねえんだ。金を出してもらうからにゃ八つ持って帰ってもらわねえと商売人の名折れっつーもんでよ、てなワケで、これ持って帰えんな。おもしろいもの見せてもらったお礼だ」


 と恐持てのおじさんがニカッと笑い、大玉のたこ焼きを乗せたフードパックを渡してくれた。案外いい人かもしれない。


「いいんですか?」


「また友達連れて寄ってくれよ」


「ありがとう、強面のおじさん」


 あいよ、と元気そうに応えてくれたおじさんに、ふたりで礼を言って屋台を後にする。


 無言の帰り道がふたたびやってきた。食べよっか、の一言をどのタイミングで言いだそうかと迷いながら歩いていると、


「よう翔。俺の萌とふたりっきりのデートにしけこむとはお前も出世したよな」


 今一番会いたくないやつと鉢合わせてしまった。鳴神猛だ。同じクラスの竹下と坂本を引き連れている。


 顔を見た瞬間、体が拒絶反応を起こしたように震えはじめる。中学生とは思えない体格。上から押さえ込むような口の利き方。悪事を働くことに微塵のためらいも浮かぶことのない凶悪面の本日のファッションは、サイケデリックな色のじんべいと同じ色のビーチサンダルといった塩梅で、正直言ってかなりダサいレベルである。


 何も言い出せずにいると、玉響が予想を超えたとんでもない事を口走りはじめた。


「私たちが何をしようと貴方には関係ない。10のマイナス32乗程度にも関係ない。これがどういうことか貴方は理解できない。なぜってバカだから」


 最近とくに思う。翔子に出会って彼女は変わった、と。


 鳴神はその言葉にあっけなく感情を崩壊させ、玉響の腕を強引に奪い取る。


「離して、偏差値が下がるわ!」


「生意気言いやがって、お仕置きしてやるからついてこい」


「いやあ!」


 玉響が必死になって拒絶する姿はとても見ていられず、震える声を抑えて勇気を振り絞り、


「あの、女の子に……そういう乱暴なこと、しないほうがいい……と思う」


 鳴神はねぶた祭りの鬼もかくやの形相で僕を睨みつけ、


「翔……今なんか言ったか? 気のせいだよな?」


 背筋に冷たいものが滝のように流れはじめる。下顎が上下に揺れ、その場から逃げ出しそうになるのを必死に耐えた。言いたいことは山ほどあった。けれど、なにも言い返すことができない。


「あ、いや……僕は、その……あ、気のせい、だったかな」


 言ってしまった。その言葉がまるで解放の呪文のような役割を果たしたかのように体の震えが収まる。安全圏内に脱したという安堵感。ただし引き換えに得たものは、色の消えた目で僕を見る玉響の姿であった。


「か、翔……くん?」


「よくわかってるじゃねえか翔。もういいぜ、お前はとっとと失せな」


 鳴神が笑いながら僕を肩ではじき、赤やオレンジの光が連なる屋台通りの方へ、玉響を無理やり引いて仲間とともに歩いていく。玉響は抵抗する気力を完全に失い、呆然として僕を見ていた。


 僕は、最低な人間だ。


 たとえ難い胸の痛みに苦悶していると、いつぞやの声が聞こえてきた。


 ――なぜ何もしない。


 彼らに歯向かうなんて僕には出来ない。それに、抵抗してもし怪我でもさせられたらサマフェスどころじゃなくなっちゃうじゃないか。


 ――本当にそれでいいのか? 良心が痛まないのか?


 もう終わったんだ。僕のことはもうほっといてよ。


 ――そこまで言うなら止めないが、お前のその情けない姿を見て悲しむやつがひとりいる。


「……翔子」


 翔子のこれまでの行動や言葉の数々が脳裏に去来する。


 ――彼女だったらこんな時どうする。


 そんなの言うまでもない、鳴神をぶっ飛ばして玉響と僕を助けるに決まっている。彼女はいつだってそうだった。


 ――ずっと、そうなのか?


 翔子が言ったあの言葉が脳裏をよぎる。


 もう俺がいなくなっても、オメーはやっていける。


 この言葉は今でも受け入れられないでいる。けど……


 みぞおち辺りがどうしようもないほど締めつけられる。

 涙で滲む視界に、彼女が見えた。


 翔子がこの世界にいられるのは、どんなに長くてもこの夏の間だけ。別れは必然的にやってくる。


 ダイヤモンドの魂ってやつがようやく入ってきたじゃねえか。


 この言葉をくれた時の彼女はとてもうれしそうに見えた。この世界にきて一番の笑顔だったと思う。目を閉じてもすぐ浮かんでくるくらい、脳裏に焼きついている。


 気づきたくなかったのに、気づいてしまった。


 彼女はもう、僕を助けてくれない。


 彼女のおかげで僕の未来は変わった。彼女はこの世界での役目を終えてしまったのだ。これからの未来は、僕一人で切り開いていかなければならない。


 翔子がこんな姿を見たらどう思うだろう。逆に殴り飛ばしてくるんだろうな。彼女がいてくれるのならそれも構わないけれど、あんな言葉をくれた彼女を裏切ることだけは、絶対にできない。たとえ僕が打ちのめされるくらい傷つこうとも、いつも一助となってくれた彼女を失望させてしまう未来だけは、絶対に選択してはならない!


 みぞおち強く叩きつけ、決意を改める。


 もう目の前にある未来を変えることができるのは僕自身だけ。だからこそ――、


 ここで前に出ない限り、僕の未来は変えられない。


 武者震いを抑えるかのように拳をぎゅっと握りしめ、涙を振り払う。


 翔子だったらこんな時どうするのだろう。決まっている。翔子だったらこんな時どんなことを言って自分を奮い立たすのだろう。決まっている。彼女の背中だけを追いかけてきた僕にしかわからない言葉。彼女だったら絶対にこう言うはずだ。


 ――上等だああああッ!!


 そう決意した時には鳴神の肩に手を置いていた。引っ張って振り向かせ、


「その汚え手を放しやがれえええええッ!」


 あらん限りの力を振り絞って、鳴神の顔面を殴りつける。


 鳴神は、小川沿いのガードレールにはじき飛ばされ、口から血を流しながら恨めしげに僕を睨み返してきた。効いているのだろうか。けど大丈夫、翔子が教えてくれた喧嘩必勝法その三、なにがあっても負けないと自分に誓え。翔子の魂がここにある限り、理不尽に屈することは絶対にない!


 仲間たちが鳴神を助け起こしている間に玉響を背後に隠し、頭をフル回転させて引きずり出した台詞に、日本刀のような鋭い怒気を孕ませ、喧嘩必勝法その二を実行する。


「ひとが黙ってりゃ調子ノリやがってえ――」


 そこで、誰かの声と重なった。


『――シロクロつくまで逃げンじゃねえぞゴラァッ、オラかかってこいやああッ!』


 彼女だった。翔子が、僕の隣にいた。

 張り詰めていた感情が張り裂ける。


「翔子!」


 彼女を力いっぱい抱きしめる。


「コラ、オイ、今泣いてる場合じゃねえだろ!」


 安心した途端、彼を殴った右手が痛みだし、人を殴ったという事実に体が震えはじめる。翔子はやがてそれに気付き、僕の背中を優しく叩いてくれた。心が溶かされていき、落ち着きが戻ってくる。


 涙を拭って翔子から離れる。そして、疑問に思った事を口にする。


「で、いつから見てたの?」


「げっ、そ、それはオメー……チッ、ああずっとだよずっと! オメーのことが心配でずっと見てた!」


 すごく嬉しかった。


「君ってやっぱり最低だね」


「ウルセー! てかあン時帰ろうとしたらオメーをぶん殴るところだったンだぜ?」


「うん、知ってる」


「ま、赤点ギリギリってとこだが大目に見てヤンよ。オラ、こっからは俺の出番だ、下がってろ」


 と言って僕を後ろに下げ、体制を立て直した鳴神に向かって、ものすごい目で睨みながら拳を鳴らし、


「オメーあんな目に遭ってまだ懲りねえようだな、言っとくが今度は骨の一本、二本の話じゃ済まねーぞゴラア!」


「俺をナメるのも大概にしろよ、ここで決着をつけてやる」


「上等じゃねーか、ぶっ倒れるまでイモ引くンじゃねーぞゴラ。萌、ナックル出せ!」


 と言って右手を差し出すと、玉響が、すでに用意をしてたといわんばかりにメリケンサックを手渡した。翔子はそれを両手に装着した。


「ククク、これでテメーは墓場直行よ。ヨシ、萌も下がってろ」


 ところが玉響はそれを拒み、


「私もたたかう」


 と言って、両手にトゲ付きのメリケンサックを装着した。


 玉響の未来が変わっている。


「ブッフウウウウウウっておいコラ萌! そんな攻撃力が一気に50は上がるシロモンどこで手に入れやがった!」


「それと同じとこで買った」


 翔子に引き寄せて耳打ちした。


「ねぇ、玉響が変わった責任どうとるの?」


「は? お、俺のせいじゃねえ! きっとバタフライ効果のせいだ、蝶々が飛んで嵐になるっていう……オメーも知ってンだろ?」


 玉響が変わった原因がたったいま確定した。今までどんな会話をしてきたのか知らないけれど、彼女は、翔子が話す事柄をいちいち真に受けていたのだ。


「絶対責任取らせるからね」


「クッ、ちょっと口をすべらせただけだろーが」


 そして僕らは改めて鳴神たちと対峙した。六人が揃ってじりじりと間合いを詰めていく。緊張の一瞬。とそこで、遠くから誰かの叫ぶ声が聞こえた。


「ウオオイシャコタアアン、ドドドナイシタンヤアアア!」


 ドップラー効果により、その声の主が段々とこちらに向かってくるのが分かった。見ると、田中・カール・エルンスト・ルートヴィヒ・計画久先生が、以下何十人もの群れを引き連れ、周りの人波を切り裂きながらこちらに向かって走っていた。その中にはポッキーたちや、なぜかあの厳ついたこ焼屋のおじさんも混ざっている。まるでそこら中からかき集めてきたようなノリだった。


 そして瞬く間に大勢の人間が僕らの周りを取り囲んだ。田中先生がその輪から一歩前に出て、


「射的でシノいどったらシャコタンの舎弟どもがやってきてのう、姉御の出入や言うさかいテキ屋の連中かき集めて来たったんやで」


 よく見ると、田中先生は禿頭にねじり鉢巻のステテコ姿で、射的用の銃を携えていた。


「けどワシが来たからにはもう安心や。生粋の江戸ッ子は火事と花火は男の華つッテてなあ、昔ベルリンで敵ナシやったんやでワシ。ああ、ハノーファ制圧したときのこと思い出すわあ」


 翔子が矛盾につっこめないまま顔を引きつらせている。ポッキーが僕の肩に手を置いてこう言った。


「お前らが絡まれてるのを見てクラスの連中片っ端から集めてきてやったぜ」


 周りを見渡すと、同じ学年の男子や女子が多数いた。思いがけない友情の連鎖に思わず胸が熱くなった。


「我が盟友に手を出す愚か者に死の裁きを。フ、ゆけ、我がしもべたちよ! ……ええいどうした、行けと言っている!」


 栗ボーの言葉に誰も無反応を示そうとはしなかった。そんな彼が大好きだった。


「大丈夫、ブラックヘッド? ここはみんなより体の大きい僕に任せてよ」


 なんと頼もしい事か。はこれでチャラにしてあげる。

 田中先生が鳴神に近づき、追い討ちをかける。


「ナンヤまたオンドレかいやデブゴリ。せっかく商売しとんのにワシの邪魔ばっかりしやがって、ワレいっぺん本気でどつき回したらなアカンのう。ヨシャ、今日は無礼講や、サマフェスの前夜祭や思てドたまカチ割って引き摺り回したる……オ? ワレそのベイどないしたんや、中々えーセンスしとるやんけ。後で没収や、ワシの寝間着にしたる。ッて先生サイズ合わんのとちゃうけ~ッてじゃかましいわ!」


 とそこで、さらに別の声が周りを取り囲む向こう側から聞こえてきた。


「コラア! お前たち何をやっとる!」


 人垣の隙間から見ると教師連中がこちらに向かって走ってくるのが見えた。すると周りのみんなはとばっちりを食らわぬよう、まるで蜂の子を散らすかのように散りはじめた。翔子に引っ張られる形で僕たちもその場から退散した。


 田中先生は「シャコタン、あとはワシがケツ拭くさかい先に行け」と言って鳴神たちを束縛した。偶然駆けつけたふりして手柄にするつもりだろうか。ポッキーたちとは帰り道が別なので「また明日な」と言ってそのまま別れることになった。


 暗い曲がりくねった田んぼ沿いの薄暗い町道を走る。翔子が笑い出したのをきっかけに、僕たちも続いて吹きだした。みんなが僕らのためにきてくれた。怖いのを我慢してよかったと思う。未来を切り開くって、こんなに気持ちのいいことなんだと実感する。

 そんなことを思いながら彼女の背中を追いかけていると、


 ――ッ!?


 思いがけない現象を目にしてしまい、足がもつれるようにして立ち止まる。背中に悪寒が走った。


 ――消えた。翔子の体が一瞬だけ、消えた……


 翔子が立ち止まった僕に気づいて、走るのをやめ、


「どうした翔?」


 そして彼女に続き、玉響も立ち止まって振り返る。


 今はなんともない。が、たしかにそれを目の当たりにした。


 目を何度も瞬かせながら彼女の手に恐る恐る触れてみる。が、反射的に振り解かれ、


「いきなりなにすンだよ気持ち悪りィな」


 なんともない。……見間違えなのか。


「ご、ごめん、蚊が止まってたんだ」


 僕がそう言ってとぼけると翔子が肩をすくめ「とっとと帰ンぞ」と言ってまた走りはじめた。玉響が心配そうに僕を見てきたが、続いて走りだしたので僕もそれにならう形で走った。


 ――気のせい、かな……


 心にわずかばかりの光がともる。


 ――そうだ、きっと目の錯覚に決まっている。今日は色々あったから頭が疲れているのだろう。絶対そうだ。


 しかしその光は、あっという間に消えてしまった。残った影が嫌な予感として、心の片隅で揺らいでいる。


 ――とにかく、今は、そう思うことにしよう。


 どうにか不安をねじ伏せ、彼女を追って走る。光の加減でたびたび闇に隠れる彼女の後ろ姿に怯えながら、そのまま突然消えてしまいそうな背中を必死になって目をこらしながら、彼女を追いつづけた。

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