すべてを受け入れる覚悟

「親父ッ! 何も言わず俺の話を聞いてくれ!」


 通学鞄を放り投げ、靴を蹴飛ばして玄関に上がり、両親のいるダイニングに駆け込んでから土下座になるまで、ものの5秒とかからなかった。


 そんなものだから、


 彼らが今どのような目を俺に向けているのかは分からないし、お袋への言い訳などすっかり頭の中から飛んでいた。


 それから3秒が経過。


 部屋の中はまるで時が止まってしまったかのような無言状態。食卓に広がる料理の匂いと何かを沸かす音が意識の表層に上ってきた頃合に、


「あら、未来では遅くなった謝罪を土下座でするのかしら」


「チャカすなお袋! 今大事な話をしようとしてンだ、少し黙っててくれ」


 沈黙。どうやら俺のただならぬ行動に事態を察してくれたようだ。


 そして精神を静めること6秒足らず。


 食卓の椅子が軋む音が聞こえた。お袋が座り、親父がこちらに椅子を傾けてくれた音だ。


 することは決まっている。


 だが、いざ行動するとなると、本当にこれでよかったのか、と性根の弱い部分が鎌首をもたげてくる。と、ここまでが約2.5秒として、玄関を開けてから土下座の今に至るまでに要した時間はざっと四捨五入して20秒となる計算だ。


 ――もはや一刻の猶予も許されない!


 俺はロスタイムを利用し、固唾を呑み下して息を吸い込み、腹を決め、


「お、親父……今から話すことを真剣に聞いてほしい。言い出せずに窮してる翔の代弁者だと思って聞いてくれ」


 黙ったままでいるということは、聞く耳を持ったことを示している、と判断して話を進めた。


「お、俺にとって一番の宝物といえば、なんといっても親父にねだって買ってもらったギターだ。今までに色んなものを親父やお袋に買い与えてもらったけど、あのギターだけは特別だ。使いくたびれてボディのあちこちが傷ついて、もう中古屋に持ってっても二束三文の値しかつかねえだろうが、ネックの収まりがよく、滑りがよくなるまで馴染ませたあのギターだけは、今でも、俺の中では何万カラットもするでっけえダイヤモンドよりも、一等価値のある宝物だ……」


「小四の頃、真夜中にふと目が覚めてテレビをつけてみると、バラエティ番組がちょうど終わる時だった。だモンでそこでチャンネルを変えようとしたんだ」


 そこである曲のサビ部分を口笛で吹き、


「親父この曲覚えてっか? まだ俺がぜんぜん弾けねえころ何度も練習に付き合わせたあの曲が、その番組のエンディングで流れたンだ。俺の未来が決定付けられた瞬間だった。歌なんて今でも諳んじることができるしもちろんギターだって。あ、いや……とにかく、ブラウン管を通して目に焼きついちまったソイツらのように俺も演ってみてーってそのとき思ったンだ。そしてこの中でやるとしたら俺は絶対ギターだなって、そう思った……」


「そっからは親父も知っての通り、なけなしの小遣いとお年玉の残りをかき集めてアンタに渡し、なんでもするから足らずは出してくれ、と、ねだってアレを買ってもらったンだよな。ところが念願のギターを手に入れたのはいいが、全然アイツらのようには弾けなくってよぉ、1時間足らずでほっぽりだして、買ったギターがワリィんだって駄々こねたら親父が、物事は地道に基本的なことを重ねていくモンだって、昔かじったことがあっから教えてやろうって、まずは基本のコードから覚えようって一緒になって練習に付き合ってくれたンだよな。それがあるから今の俺があるんだなって、そう思ってる」


「こうして俺にとってギターは三度の飯よりも大事になった。誰よりもゼッテー上手く弾けるようになってやるってずっと思ってた。したらいつの間にか親父の腕を抜いちまってて、バンド組んで栗ボーん家のただっ広いガレージ使って練習してたときふと思ったンだ、ああ、俺は将来ギタリストになるなって、そう直感したンだ。これが俺の進む道なんだなって……、これが俺の夢なんだなって……、お、俺は……」


 克服したはずのトラウマが去来し、あの頃のように手が震えはじめる。皆の前では笑われてしまったが、実の親に言うのはこれがはじめてだった。


「俺は……」


 笑われるかもしれない。けど、誤魔化しのない俺を知ってもらいたい。夢を持って生きているということを親に知ってもらいたい。拳を硬く握り、


「親父から買ってもらったギターで日本一のギタリストになるのが夢だッ!」


 粕谷アンケートにはこう書いた。プロのギタリストになりたい、と。

 だから笑われたのだと、今では思う。


「ところが去年、バンドの夢も膨らんできて、順風満帆の夏休みが終わった頃の話しだ。登校日初日に、担任にその夢を貶されちまった。俺は絶望した。クラスの連中にも笑われ、ドン底に叩き落された。今まで必死になって積み上げてきたものが、俺の気持ちを一切無視したデリカシーのない一言で、夢諸とも崩れ去ってしまった……」


「現実味のねえ恥ずかしいことを俺はしてるンだって……そう思ったら、いつの間にか、人前でギターが弾けなくなっちまった。他人からすれば聞き流せる程度でも、俺にとってはトラウマもんの出来事で、それが原因で、大人に不信感を抱くようになっちまって、無闇に自分を晒すこともしなくなった……ッ」


「そっから一年経って、また仲間と演奏するきっかけを掴むことができた。ひとりでギターを弾くだけの人生に終止符を打てる時がついにやってきたンだ。それが、親父と翔が衝突した日のことだ。……親父、昔俺に言ったよな、希望は人を成功に導って。……そんなアンタがよぉ、俺に夢を掴み取るチャンスをくれたアンタがいとも簡単に夢を蹴り飛ばすような言い方をした! 担任粕谷明42歳独身のような無神経な口ぶりで俺を地獄の底に叩き落しやがったッ!」


 床に叩きつけたおでこが痛った。だが、ここが石の床でも叩きつけていたに違いない。


「なんであんな言い方したンだ! それでも親父かよ! アンタ覚えてるか? Fのコードが押さえらンなくて泣いてあきらめようとしても、根気よく教えてくれたことを! ギターだけじゃねえ、歯の磨き方も、自転車の乗り方も、分数の解き方も。お袋に黙って映画に連れてくれたりもしてくれたよなあ、バイクの背に乗せてくれたりもしたよなあ、線路脇の公園でサッカーしてたら親父が蹴ったボールが線路に転がって、取りに行った俺が電車を緊急停止させちまって新聞沙汰になったこともあった。南部川の上流に泳ぎに行ったとき、足を滑らせて川に落っこちた俺を親父が飛び込んで助け、川から上がるとお袋が地元住民と警察と消防団を引き連れていて、捜索願まで出した大騒ぎになったこともあった、家族で海行ってバーベキューしてたら野良犬がやってきて餌付けしたら、そこら中から野良犬がわんさかとやってきて、野犬に囲まれながらバーベキューをするヘンな家族って夕方のニュースに取り沙汰れたこともあった……ッ」


「俺にいろんな世界を教えてくれた親父がこんなにも大好きだってのに……仕事疲れで帰ってきても嫌な顔せずいろいろかまってくれた親父が、夢を与えてくれた親父が世界でいちばん大好きだってのに……そんなこと言われたら、どうしていいかわかんなくなっちまうだろうがッ!」


 鼻水をすすり、


「……でも今の俺には、親父が言った言葉の真意がわかる。世間の厳しさを経験してる俺だからこそ、親父の気持ちが身に染みるほどよく分かる。時には息子を厳しく叱る必要性を、客観的に息子を見なきゃいけねえ必要性を、言ったあといちばん苦悩に苛まれてるのは実は親父だってことも、隠してるつもりかしンねーが、なんだかんだ言っときながら今でもずっと翔のことを気にかけてることも俺にはわかる。この世界に来て、みんな分かっちまった」


 本当は、ずっと前に、親父に謝るべきだった。


「……ご、ごめんな、親父」


 この言葉を言うために、14年もかかってしまった。


「文句たらたらであんな酷いこと言ったり、つらくあたって、無視して、30年間ずっとそんな調子で甘えて、親父のこと何ひとつとして理解してやれず、それでもなにも言わねぇで、ずっと草葉の影から成長を見届けてくれて……。与えてくれるのが当たり前になって、孝行のひとつたりともやってこず、仕事疲れで帰ってきてお疲れさんのたった一言も言ってやれずに……ッ、ほんとに、すまねえ!」


 床に流れ落ちる後悔の涙が、額の傷口に沁みる。


「俺はッ……、親父と、仲直りがしてえ。したくてしたくてたまらねえ。ほんでもってまた家族で、仲良く色んなとこに行きてえ。いや、ンな贅沢なことしなくていい、一緒に笑ってあったけえ飯が食えるだけでいンだ。お袋が俺たちのために心を込めて作ってくれた料理を机いっぱいに並べてみんなと一緒に食卓を囲みてえ。いつか親父が失業して家計が苦しくなってよ、白飯とたくあんだけのみずぼらしい食事になって、月に一度だけお袋があんころ餅買ってきて、ひとつをみんなで分けて食べるンだ。親父とお袋は我慢して俺に食わせようとするが、俺はそれを断固として断り均等に仲良く分け合って食べる。そして、また来月も食べようなって約束するんだ。……だから、仲良かったあの頃みてえな絆を、一緒に飯を食うだけで笑いあえてたあの頃のような、どこの家庭よりもあったかかった絆を俺は修復させてえ」


 ――これは、翔の夢でもあり、



「……これが、未来に帰ったら絶対に叶える俺の夢だッ!」



 お袋のすすり泣く声が聞こえた。


「未来の世界で俺は親父とケンカして、仲間とも別れ、ギタリストになる夢を捨てちまう! ……だから、翔を俺と同じ轍を踏ますワケにはゼッテーいかねえ! だから、頼む! 俺のように手遅れになってホントの夢を捨てちまう前に翔と仲直りしてやってくれ! 話し合いをするだけでもいい。けどそれには、親父のほうから翔に歩み寄ってやらねえと、しょんべん臭せぇガキのあいつには親の気持ちを理解すンのは早すぎてどうしていいかわかンねえ! だが仲直りしてえ気持ちはあいつを見りゃ一発でわかる。誓ってもいい。今はまだ何を言って歩み寄ればいいのかわかンねえだけなんだ! 親父に伝えたい言葉をさがしてる途中なンだよ、俺もそうだったから俺にはわかるンだよ……だから、親父から話しかけてやってくれねえか、頼む! 一生のお願いだ、頼むッ!」


 平手をつけ、床に額を何度も叩きつけて懇願した。

 俺の覚悟が通じるまでこうしてやろうと思った、


 その時―― 


「しょ、翔子、あ、頭が、頭が壊れちゃうよ!」


「ウルセー! オメーは黙ってろ。ひとが真剣にお願いしてンのに隣でのん気に鼻くそほじりやがってクソッタレがああ。誰のためにこうやってンのかわかってンのか。クソ、こうなりゃヤケッパチだ、これでもか、これでもか……って、え?」


 と、弾かれたように顔を上げ、正面を見る。

 滲んだ視界の先に、翔がいた。


「ち、血が出てるじゃないか。なんでこんなことするんだよばかあ……」


「オメーいつの間に……」


 翔が恐る恐る俺の額を手で触れる。俺が痛さのあまり顔をしかめると、素早く手を引き、瞳にじわりと涙を溜めた。


 そして、意を決したかのような硬い表情で涙を拭い、隣に座りなおして、俺がやってのけたのと同じ土下座を親父に向け、


「ほ、本当は僕が謝らないといけないのに、関係のないママに八つ当たりして、翔子に謝らせて、もうどうしたらいいのか……大変なことになっちゃってごめんなさい!」


 最初から聞いていたのだろうか。

 翔の全身が大きく揺れている。予想以上に悪化していた事態に恐ろしくなったのかもしれない。


「と、父さん、言いたいことも言わずに自分の中に溜め込んで、ずっと黙っててごめんね。内緒にして一年も黙っててごめんね」


 お袋が声を出して泣きはじめた。


「先生にあんなこと言われて、大人ってみんなこうなんだって、今まで父さんや母さんすらそんな目で見てた。翔子がいなかったら、大人ってみんな身勝手な生き物なんだってずっと思ってた。けどこれは僕の問題だったし、自分で解決しなきゃって、そう思ってた。でもそれは間違いだってようやく気づいた。たとえくだらないことでも、信頼できる家族や仲間と話し合うことが大切なんだって、時にはぶつかって自己主張することも大事だって……。翔子の好意を袖にして、仲間を傷つけて、父さんと母さんの信頼も壊してしまってから、ようやく気づくことができた。僕は、どうしようもないバカだ……」


 翔がいま、自分の意思で、すべてを受け入れようとしている。


 俺が土下座で謝ったのがきっかけになったとは思う。しかし翔のそれは、単に俺を真似たものではなく、自らの行動を反省し、心から親に謝りたいという気持ちがこいつをそうさせている。俺にはわかる。ここから逃げ出したい気持ちを抑え、頭の中にあるまとまりのつかない言葉を必死になって選択し、紡ぎだそうとしている。


 今まで目を背けていたダメな部分を受け入れ、前に歩きだそうとしている。


「大好きな母さんへ、毎日献立を考えるだけでも大変なのに、いつもいつも僕のためにおいしい料理を作ってくれて本当にありがとう。けど、僕の部屋に入る前にノックもしないでいきなり入ってくるのはやめてください。ひとりになりたいときもあるんだ、何をしているかは聞かないで……」


 泣いて泣いて泣きじゃくる翔。言葉として聞き取りにくいのを自覚してか、はっきりと言えなかった部分を何度も繰り返し、明確な言葉として発せるまで必死になって紡いだ。


「大好きな父さんへ、僕が傷つかないようにって何も言わずに見守ってくれてたんだね。なにもなかった僕に目標を与えてくれて、本当にありがとう。けど、トイレで新聞を読むのはやめてください。何度も漏らしかけたことがあるし、お風呂でしちゃったこともあるんだ……」


 翔を見る親父の眼差しは真剣そのものだった。お袋は泣きながら翔の言葉に何度も相槌を打っている。


 ふたりとも、翔の覚悟を真剣に受け止めようとしている。


「ぼ、僕は……、こんなあったかい両親に育てられて、本当に幸せです」


 翔は、今から僕のことを言うから笑わないで聞いて、と続け、


「僕の将来の夢は、父さんから買ってもらったギターで日本一のギタリストになることです。人前で弾けなくなって、バンドのほうはちょっと停滞しているけれど、ギターだけはちゃんと弾いてます。指先が擦り切れて痛くても我慢したし、指紋が薄くなって硬くなって、指の間接と手首が腱鞘炎を起こしてたまに痛くなるけれど、それでも弾いてます。先生にあんなこと言われたからってやめてしまったら、僕にはなにも残らない。だって今までやってきたことが、父さんに教えてもらったことが全部無駄になるのは嫌だから。いつかその壁を乗り越えることができて、夢が叶って、父さんと母さんに、自慢の息子だって言ってもらえるように……」


 翔は封印を解き放つように力をこめ、


「それが、僕がどうしても叶えたい夢ですッ!」


 進むべき未来を決定付ける言葉だった。


「疎かになっている勉強は、遅くなったけど、これからしっかりとやっていこうと思います。だから心配しないでください。けど、わからなかったら教えてください。これからは、疲れていようが遠慮なくなんでも相談するので、ちゃんと聞いてください。僕はこんなバカ息子だけど……ギターしか取り柄のないバカ息子だけど……きっと、いつかきっと、父さんと母さんに褒めてもらえるようにたくさん頑張って、いっぱい努力して、」


「翔……もういい。お前の気持ちは十分に伝わったよ。さぁ……顔をあげなさい」


 親父がそばに寄ってきて、包帯で巻かれた手を翔の頭にのせた。翔はくしゃくしゃになった泣き面をやおらに上げ、


「と、父しゃん……」


 親父が、翔にあったかい眼差しを向けている。親父は短く鼻をすすり、


「父さんの方こそ、傷つけるような言い方をして、申し訳なかった。父さんは、少し拗ねていたのかもしれない。翔が成長していくにつれ、パパ、パパと言わなくなってしまって、教えてやれることもなくなり、話す機会も薄れていって、翔の悩み事を誰よりも後に知ったことに嫉妬したんだと思う。幼い翔の気持ちを理解してやれず、いっときの感情を抑えることができなかった父さんの方にこそ非があるんだ。あんなに怒った姿を見て、恐い思いをしただろう。無視したのではないが、ずっと黙っていてすまなかった。頑固者の私をどうか許してほしい。本当に申し訳なかった……」


 親父が真摯な態度で翔に頭を下げる。

 俺にとっても、翔にとっても、生まれてはじめてみる親父の姿だった。翔と同じように親父もまた、自分の非を認めたのだ。


 続いてお袋がやってきて、親父の隣で膝をつき、


「翔、貴方の気持ちも考えないで、こっちの気持ちを無理に押し付けようとしてごめんなさいね。それに母さんだって、貴方が世界でいちばん好きよ。誰がなんと言おうと自慢の息子よ。今度の盆踊りで粕谷明42歳独身を見かけたら、懇意にしてくれる鳥野校長に言い寄って教育界から永久追放。いや甘いわ、やっぱり昔の走り仲間に集合かけて息の根が止まる寸前までボコるのが一番いいかもしれないわね。一年も辛い気持ちを抱えてたのに……わかってあげられなくてごめんなさい」


 お袋もまた翔に懺悔した。両手で顔を押さえむせび泣くお袋の背中は、引きつけを起こしてしまうほどに上下に揺れ動いている。幼い自分の息子を、守ってあげられなかったという、ふたりの後悔の気持ちが、俺の胸にも伝わってくる。


「父さんは今年も、大好きな翔がギターを弾いてる姿を見たい。去年の盆踊り以上に腕に磨きをかけた翔の勇姿が見たい。声を掛けた近所のひとや会社のひとに自慢したい。あれが私の息子だと、あれが自慢の息子だ、と。……翔、」


「お前を心から、愛している」


 泣き叫んで胸に飛び込む翔を、親父とお袋がしっかりと抱きとめる。


 恐かったと、なんで何も言ってくれなかったんだと、僕ばっかりなんで責めるんだと、俺が辛うじて聞き取れる言葉はそれくらいだった。親父とお袋が心を開いてくれたことに安心して、ようやく本音をぶつけてることができたのだ。


 はじめて見る親父の涙。深い愛情に満ちたその涙は、翔の頭上に流れ落ち、乾ききった心の傷を癒している。


 お袋も翔に負けじと嗚咽を漏らし、親父と翔を、強固な鎖で巻きつけるように両側からしっかりと抱きしめている。


 これが親子本来の姿だと心に刻みつけ、頬に流れ落ちる涙を拭った。


 未来は、……いや、自分は変えられる。


 たとえ小さな変化でも、自らそれを望み、明日のために一歩でも踏み出すことができれば、この先の自分の姿を大きく変える一歩となる。


 未来に帰って親子の絆を必ず取り戻してやる、と改めて誓う。


 俺は親子水入らずを邪魔してはいけないと思い、ダイニングを後にしようと静かに立った。


「翔子どこいくの?」


 その気配を感じ取った翔が背中越しに振り返り、見るに堪えない顔を晒した。


「いや、その……なんか邪魔しちゃ悪りィだろ」


 翔は立ち上がって俺に飛びつき、


「翔子のバカー! なんでそんなことを言うの? 君も家族の一員じゃないか! それに、僕はまだ君に謝っていない。翔子あんな酷いこと言ってごめんなさい。もう遅いかもしれないけれど本当にごめんなさい。だから、だから、僕のことを嫌いにならないで、お願いだから嫌いにならないで」


 翔の必死さに心を打たれ、俺の目からふたたび涙がこぼれ落ちる。少し、いじわるがしたくなった。


「ど、どーすっかなぁ、ほっといてくれって言われたし、あーまで言われちゃ俺も立つ瀬がねえっつーか、」


「ごめんねえ、翔子が正しいことを言ってるのはわかってたけど、いつも言い負かされてるからちょっと図に乗って、心にもないこと言ってごめん、なんでも言うこと聞くから嫌いにならないでえ」


 翔が一層泣きはじめたので、少しやり過ぎたことを後悔する。

 翔の頭を優しくなで、宥めてやった。

 ひきつけが弱まり、俺の胸の中で徐々に落ち着きを取り戻していく。


「たく、世話かけやがって……けどま、一件落着ってか」


 翔が顔を上げ、


「翔子がいてくれたから父さんと仲直りできたんだ……ありがとう」


「ま、なんにせよ、これでオメーはひとつ壁を乗り越えることができた。ない頭を必死に回転させせて、ようやくひとつの道をさぐり当てることができた。もう迷わねぇで、その道をまっすぐ進んでいけ、わかったな?」


 これで俺とは正反対の道を歩ませることができる。まだスタートラインに立たせたばかりで色々と面倒見てやりたいことも沢山あるが、この世界で翔に教えてやれることはもう、ないのかもしれない。


 それに、ああだこうだと横槍入れるより、自分で軌道修正させていく方がこいつにとってもいいはずだ。失敗なんてあとからいくらでも埋められる。


 ――時空転移装置の完成が早まりそうだよ。


 ポッキーの件や、萌の件がまだ片付いてないが、今の翔ならもう大丈夫だろう。ここが、俺の潮時かもしれない。


 そう思った。だから……。


「もう俺がいなくても、オメーはやっていける」


 翔はピタリと泣き止み、


「……な、なに言ってんの……それ、どういう意味」


「オメーに教えてやれることはもうなくなっちまったってことた。そろそろあっちの世界に帰え、」


「そんなの絶対認めるもんかッ!」


 ものすごい剣幕で言葉を遮られる。思いも寄らなかった翔の反応に戸惑い、


「そ、そうは言ってもオメー、俺が帰るのは必定って、前から言ってンじゃねえか……」


「わかってる。けど、夏休みが終わるまでいるって言ってたよね? それに色々教えてもらわないといけないことだってまだ沢山あるし……だから、まだいてもらわないと困るの! それにタイムマシンだってまだできてないでしょ」


「あー、そのことだが……ドクの見通しだと、近日中にはできるらしいわ。気が早えっかしンねーが、事のついでにと思ってヨ」


 翔の表情が氷のように固まる。


「うそ……」


「オメーに嘘ついてどうすンだ。てかオメーそんなこと言ってっと、いざ帰る時どうすンだ。そんとき泣き喚いたって俺は帰るぞ?」


「そ、そのときはそのときだよ。それに父さんや母さんだって悲しむに決まってるもん……ねえ父さん!」


「あ、ああ。……翔子がいなくなると、寂しくなる」


 親父が、真剣に寂しいですと言わんばかりの顔をしている。お袋は、せっかく賑やかになったのに残念ね、と言って概ね親父と同じような顔をした。


「てめえ親利用するなんてズリィぞ!」


 翔にうろたえた隙を突かれて抱きしめられる。


「く、くるし……離せ」


「ヤダ! 行かないって言うまで離さない!」


「甘ッタレやがって……わ、わかった、い、今すぐには行かねーから離せ。胸が、つぶれる……」


「絶対ウソに決まってる。ふん、離してやるもんか」


 機嫌よさそうな声に変わった。心なしか、俺の胸に顔をうずめて感触を味わっているようにもみえる。


「さ、さてはオメー、言うに事欠いて胸触りてえだけだろ! ふぎぎぎッ、い、いい加減離しやがれ! 俺の大事な胸が使いモンになンなくなったらどーすんだ!」


「ヤダ! ……てゆーか、別に男に戻るからいいじゃん」


「ク、生意気抜かしやがってこのクソガキがァ……ガキならババァのしわくちゃおっぱいで我慢しやがれこのエロガ、痛っ」


 お袋に頭を叩かれる。そのあとに親父の笑い声が続いた。


 翔は頑として離そうとせず、じゃあずっとここにいてくれたら離す、と無理な注文を押し付けてきた。しかし困ったことに、引き止められるのがまんざらでもない、という気持ちに心が揺れる。


 ――俺だって、いやだよ……


 過去、親戚の家に行って親しくなった姉と別れるのが嫌でわんわん泣いたことがある。あの時と同じで、みぞおち辺りがきゅんと締めつけられる。


 だが、俺がこの世界に来た時点で別れは必然のこと。それは親戚の家から帰らねばならないことと同じことで、なによりこんな俺でも、未来の両親が帰りを待ってくれているはずだから。


 もちろん最初はこの世界でどう生きるかだけを考えていた。けれど、今は状況が違う。未来に帰ることが可能だと知った。それもあと少しのところまできている。


 ドクが不干渉を唱えたのは、こうなることを予測していたのかもしれない。


 今思えば、翔は俺のカワイイ弟で、ここにいる両親が本当の親のように感じるときがある。されどそれは俺の作り出した都合のいい設定にすぎず、俺の過去の記憶には存在しない。


 限られた時間は短すぎるけれど、せめてそれまでは、精一杯この一家の娘としてこいつの姉を演じ、道標になってやろうと思った。


 別れの時がやってくる、その時までは……

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