想像は宇宙をも包み込む
7月16日 PM7:50
ドクの手伝いが終わったあと、俺はみんなを先に送り出し、ひとり残ってうじうじと昨日のことを考えていた。
研究をやめようとしないドクの背中を見つめながら、シュレを膝の上に乗せて木の椅子に座り、昨日起きてしまった翔との諍いごとを、自分の犯した罪の後悔と、そして棚に上げた行動と矛盾に嫌悪しながら、いつまでもうじうじと考えている。
ずっとこうしていたい気分だった。
しかし、いつまでもこうしてはいられない。
俺がここに残った理由は、ドクに、相談を持ちかけるためだった。
「仲間はおろか、家族の絆さえも後退してしまった、か。実に興味深い話だね。けれど僕は、物理学に関しては人並みに理解しているつもりだけれど、人間に関してはほとんど理解していないに等しい」
話しかけるタイミングを見計らい、説明に割いた時間はおよそ10分。これまでのことをかいつまんで、できるだけ分かりやすく話したつもりだ。もちろん、ドクが渋るのは分かっていた。
「面目ねえ、それをわかった上での相談だ」
ドクにあれほど言われていたのに、過去の自分に干渉するだけしといて、いざ首が回らなくなったら、いともあっさりと助けを求める。そんな自分が吐き気がするほど憎らしかった。かといって、あんなことを言われたあとだ、もう自分の力だけでは翔を導けるとは思えない。恥を忍んでドクに助言を乞い、今後の身の振り方を決める、それしか方法はないと思いはじめている。彼がそれでも不干渉を唱えるなら、今度こそ素直にそれに従うつもりだ。
ドクは、電子レンジを改造して作った解析器の窓越しに、量子分解されたハンカチの粒子を見つめながらこう言った。
「君に、忠告したはずだよ」
表情は見えないが、やはり怒っているのだろうか。膝の上で気持ちよさそうに眠るシュレがうらやましい。俺は叱られるのを覚悟して、
「……すまねえ。認識が甘かったというか、こんなに影響するとは思わなかったンだ」
「ふむ。まぁそれも断言はできないことだけど、一応は自覚しているようだね」
ドクが作業中の手を止めてこちらを見る。いつもの表情で少しホッとした。
「二重スリット実験。君は、電子銃で打ち出された一粒の電子が、なぜ二重のスリットを通ると干渉縞を作るのか、わかるかい?」
……?
くどくど叱られることを覚悟していたのだが、突拍子もない質問となって返ってきたことに、思わず面食らってしまう。
「あ……ああ、そりゃ粒子の持つ波の性質が干渉しあうからできンだろ?」
ドクが俺を物知りだと褒めながら椅子を持ってきて正面に座った。そして、意味ありげな目で俺を見て「僕の解釈は少し違う」と前置き、
「ここだけの話、電子は、僕たちがけして見ることのできない、不可視の次元を通過していると僕は推測しているんだ」
「なッ、不可視の次元って……7時限目突入待ったなしってか?」
「五次元なのか、はたまた六次元なのか、そこまでは分からない。僕の仮説によるとこうだ、電子銃から発射されたミクロの電子は、真空中の不可視の次元を通過する過程で、電子よりもさらに小さなある粒子と衝突しながら進み、軌道を変えられた電子は、スリットの壁に弾かれたり、着弾想定位置のズレを引き起こす。電子の軌道をも変えてしまう謎の粒子。ミクロの次元に存在する粒子。その名を重力子と言う」
自然界に必ず在るとされながらも、いまだ発見されていない、重力を司る粒子と言われている
「その衝撃によって生まれる波、いわゆる重力波が、電子の波と干渉して写真乾板に干渉縞の痕跡を残す。電子が二重スリットを通り抜けて着弾する位置が一定ではなく確率的と言われているのは、実は重力子の影響によって軌道を変えられるからなんだ」
――重力波だと?
アインシュタインが存在を予言してから一度たりとも観測されていない天体現象。重い天体どうしが衝突、または自転する際に生じるといわれる重力の波。時空のさざ波となって宇宙空間に広がるその波は、すべての物質を通り抜け、音のように伝わる。と言われている。
しかしそれは、あくまでも重い天体どうしが衝突、または回転する際に生じるもので、たとえば、まだ存在が決定付けられていないブラックホールどうしの衝突だとか、超新星爆発といった、太陽の何百万倍以上の質量を持つ天体の運動でしか、その波は観測できない。できたとしても、原子の何億倍も小さいノイズ程度にしか観測できないと言われている。
そうか、これはあくまでマクロの世界の話。
ミクロの世界の常識が通用しない世界、一般相対性理論での話だ。
「真空中に限らず今もここに見えないミクロの次元が無数に存在している。小さすぎて最新技術をもってしても観測することはできないけれど、この不可視の空間に存在する幾多のミクロの次元の中に、いまだ発見されていない重力子が隠れている。重力子の集団を形成する
ドクが俺を見て吹きだしたは、笑いの壷を突くに見合った顔をしているに違いなかった。
――なんてやつだ。とんでもない理論をブッ込んできやがった。
それが本当かどうなのか仮説止まりでなんとも言い切れないが、そんな発想が生まれてくること自体、頭がおかしいとしか思えない。覆された。量子力学のことをほんの少しだが理解できていると思っていた自分がバカみたいに思えてくる。
「と、とはいってもまだ、空想レベルの話だよな。ハハ、まさか発見したとか言うんじゃねーよな?」
「想像は宇宙をも包みこむ。完璧な仮説より、誰かに一笑に付されるようなバカげた仮説のほうが、探求する余地があると僕は思う。知識には上限があるが、想像するのは無限だ」
「……ほ、他でもねえオメーが言ってンだ。俺はバカげてるなんて思ってねえぞ。誰も信じてくれなくても、俺はお前の味方だ。戯言ぬかすヤツがいたら俺がそいつを校舎裏に連れ込んで、めったんめったんのぎったんぎったんにしてとっちめてやるガルルル。コホン、ま、そン時は俺に任せてくれよな……って、今の俺が言っても説得力に欠けるよな。てか、なんで急にそんな話を?」
「君は僕のように、一笑に付されるような仮説を本気で考えてみた事はあるかい?」
――ッ!!
体に稲妻が突き抜けるほどの衝撃を覚える。
「仲間とよりを戻せる方法を、家族の絆を修復させる方法を、本気でバカになって考え、誰も思いつかない領域に達するまで考えてみたことはあるのだろうか」
心の中にどんよりと渦巻いていた雲の裂け目に、一筋の光が射しこめる。
「物理学の研究というのは、仮説を立て、そこに向かってあきらめず何万通りもの実験を重ねて理論へと結びつけるもの。翔くんに笑われたっていい、友達や両親に笑われたってもいいじゃないか。君の言うとおり、僕は君がどんな発想をもってその問題を解決させようが、けして笑わない。……僕も君の味方だ」
並大抵の女なら完全にトリコにしてしまうほどの、強い信念のこもった瞳でドクはそう言った。
そうだ。いつの間にか、時間をかけてだとか、様子を見ようだとか、他の意見を鵜呑みにして、難問にぶつかっていくことを後回しにしていた。翔にあんなことを言われてヘコみ、思考するのをやめてしまった。やることは決まっていたはずなのに、たった一回打ちのめされただけで、壁を乗り越えることをあきらめていた。
考えることをやめると何も生まれない。ドクはこれを俺に伝えたかったのだ。俺が翔に言った言葉を思い出す。
――何度でも言ってやればいい。
あきらめてしまったら終わりなのだ。
心に光が溢れだし、無尽蔵の勇気が湧いてくる。
もうなりふりかまっていられない。親に笑われようが、仲間に貶されようが、翔に間違っていると言われようがかまわない。全ての問題を解決させる方法を編み出してやる。
答えは、俺があきらめず行動し続けることだった。
どうこう理屈でこねくり回すよりも先に、己の直感を信じて行動する。最初からわかっていたことではないか。あとは一刻も早く行動に移すだけ。無理を、可能に変えてみせる。
――単純? へっ……上等ッ!!
熱くなった拳をギュッと握り締めて立ち上がり、
「これで何をしたらいいかやっとこさわかったぜ。やっぱオメーは頼りになる親友だ。ありがとな、ドク」
と、抱いていたシュレを床に置き、猫毛のまとわりついたプリーツを払う。
「どういたしまして。あ、水を差すようで悪いのだけど、帰る前にちょっと言っておきたいことが」
「オウ、なんだよ?」
「君たちが手伝ってくれたおかげで、時空転移装置の完成が、予定よりも早まりそうなんだ」
突然のことで一瞬反応に戸惑ってしまう。
「そ、そっか……ワリィがその話はまた今度だ、じゃあ俺帰るわ!」
と言って通学鞄を引っさげ足早に教室を出ようとした、が、最後にあることが聞きたくて振り返り、
「ドク、ひとつ聞いときてーことがあンだが……オメーは、スピノザの神を信じるか?」
ドクはそれを聞いて、少し考えるように頭をかきながら、
「そうだね、人間の神よりも信じるに値する」
それを聞いて心に火がともる。
確信する。
万物の神は、サイコロなんか振らない。
旧校舎を出て西門をよじ登り、神社に続く坂道を駆け登っているところで、あの出来事が頭に去来した。
一瞬だったが、腕が消失した。
ドクに言いそびれてしまったが、あれからなんともないので黙っていても問題ないと思うが、兎にも角にも今俺の成すべきことは家に帰って翔と親父を仲直りさせること。
自分のことは後回しでいい。
神社を左に折れ、黒くなった桜並木の間を走りぬける。夜に鳴くピントはずれのセミが、俺の気配に気づいて鳴くのをやめた。
「へへ、今思えば昔からそうだったな。なんでもやってからでないと理屈がつけらンねえ性分つーか。……とにかく絶対やってやる」
ひとりごちた言葉と弾かれた汗が背後の闇に飲まれて消える。
すっかりと辺りは暗くなっており、心もとない民家の明かりを頼りに、誰もいないちびっ子広場の隣を、四辻の街灯に照らし出された公民館の隣を、蛙の合唱が聞こえる畑の隣を、まずはお袋に、遅くなった言い訳をどうやって説明するかを考えながら、目の前の闇を走りぬけていく。
町道に映った自分の影を追いかけ、家族が放つ光を目指して、走りぬけていく。
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