神はサイコロを振らない

「翔入るぞー、うお暗ッれ」


 翔子がノックもせずにいきなりドアを開けた。こういうところはママとそっくりだから嫌いだ。

 ブラウン管から発光される極彩色の光を受けながら、ゲームに夢中だった僕の右半身に翔子の視線を感じる。が、完璧に無視してやった。


 それでもまったく動じようともしない翔子は、ママのように「目が悪くなるから灯りくらいつけろ」と言って、問答無用に部屋の灯りを点す。天井に備え付けられた蛍光灯が光のまばたきを繰り返して発光し、部屋のありとあらゆる物体に色と輪郭がもたらされる。部屋中に反射した光のあまりの眩しさに目がくらみ顔をしかめる。


 暗闇。すなわち観測不能ともいえる状況下では、物質は波のように振舞う。この様な状態を重ね合わせといって、物があるのかないのかは確率で支配され、光を当てることによって波動関数が収縮を起こし、物質の状態が決まるのである、と翔子が教えてくれた。


 これを“コペンハーゲン解釈”という。


 しかし現実的に考えて、いつどのようにして波束の収縮が起こるのか。ミクロの世界ではそれが日常茶飯事なことでも、マクロ世界に住む我々にとってはまこと懐疑的な話である。まず普通に考えてあり得ない。この問題により他にもさまざまな解釈が生まれるが、かの有名な天才アルベルト・アインシュタンインも、理論的統一を図れない量子力学の、あやふやな見解を揶揄し“月はいつでもそこにある”と、言い残したままこの世を去った。


 量子力学が生まれてからおよそ100年が経ち、いまだ謎に包まれている量子論最大の難問。


 観測問題である。


 僕は質問した。


『じゃあ、暗闇の中で物質が波だとしたら、なんで触ることができるの?』


 翔子は言った。


『観測とは、目で捉えることだけを差さない。触るのも観測、脳の中で認識するのも観測、言わば五感で捉えるものすべてが観測だ。この世の物質はみな素粒子でできていることから、機械といった人間以外の物で捉える手段も観測といえる』


 まるで理解が追いつかない。摩訶不思議な量子論という物理学の問題は、僕の理解度を超えた遥か先にある難問だ。


 この引っ張り出してきたファミリアコンピューター略してファミコンが、押入れの中では波だったとどうしても思えない。よく見ると赤いコントローラーに見たこともない細かい傷がついている。記憶違いなのか、はたまた収縮するときに誤ってついたものだろうか。いずれにしても、この世界は驚異に満ちすぎて……た、大変なことに気づいてしまった。そうなのだ、最近とくに思う。いくらなんでも驚くことが多すぎる。


 この世界で驚異を感じる量が異常なのだ。


 悪寒が腰から頭まで一直線に駆け抜ける。


 前からおかしいと思ってたんだ。僕の知らないところで急に何かが流行してたり。周りは知ってるのになぜか僕だけが知らなくて「お前そんなことも知らないのー」ってバカにされたこともあった。それも両手で数え切れないほどたくさん。僕はひょっとして異世界の住人ではないのだろうか。実は、起きてるときはこっちの世界にいて、寝るときだけ向こうの世界に帰るみたいな……そうだ、きっとそうに違いない! これで僕が橋の下で拾われてきたってことが確信に、


「部屋ン中でオナニーでもぶっこいてンのかと思ったじゃねーか。言っとくが、俺はそんな自分の姿見たくねえぞ」


 あ、死んだ。――テテッテ、テテテテン。


「そんなことするわけないでしょ!」


 ああ、しまった。無視を決め込むはずが翔子の卑猥な発言につい反応してしまった。女の子のくせに無神経にもほどがある。ダメだ、このままでは翔子のペースになってしまう。平常心だ。まだ三機残っているから大丈夫。よし、とりあえず僕の異世界住人仮説はひとまず置いといてスタートだ。こんなデリカシーのないことを言う翔子なんか絶対に口なんか利いてやらないんだから。


 翔子はそれでもお構いなしにしゃべってくる。


「スーパーマリモってまたレトロなゲーム引っ張り出してきやがって、っておいおいまだやる気かよ? 飯持ってきたって言ってンだろーが。冷めちまう前に食っちまおうぜ……おい、キノコ行っちまうぞ。あ、あ、取れよ取れよ、あ、ホラみろ落っこちた。ぶわははヘッタクソだなあ。……あ、そこそこ土管の前。一機キノコあるから叩いてみ。な、言ったとーりだろ。お、お、お、ダッシしすぎっだって。ハハ、ダメだこいつBダッシュの仕方がまるでなってねえ。ひやひやさせんじゃ、そこのはてなキノコッ、よーし今度はしょうもねーミスすンじゃ、っておいクリ坊きたぞッ、そこ、ジャンプジャンプ! だからダッシしすぎだって、あ~もうイライラする、あ、ほらみろ言わんこっちゃねえ。クリ坊ごときにやられンなよ。だからはやる気持ちを抑えてもっとこう慎重になって、そこスタスタスタスター! スターだって! 取れ取れ、あ、カメだカメカメよけろよけろ、あ、あ、バカ、ジャンプジャンプ。あ死ぬ。あ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ、よけ、あ、ああ……ホーラ死んだ、テテッテ、テテテ――」


「もーいちいちうるさいってば! 横から口出しするから死んじゃったんでしょ。こんな面、余裕でクリアできたのに」


「スーマリごときで手間取らせンなよ。オラ、教えてやっからよこせ」


 翔子はそう言って勉強机の上にトレーを置き、僕を押しのけるように座り、コントローラーを強引に奪い取って「ヒッキーだったころ俺もこのゲーム機引っ張り出して一日中遊んでたわ」と言ってゲームを開始した。


「今のゲームは難易度が高すぎて逆にストレスが溜まるが、レトゲはプログラミングも単純だから簡単でスカッとするにはもってこいだ。けどその逆もあって難易度が高すぎるってのもある。ドラクエⅡしかり、滑ランカーしかり、スターウォーリアーなんか裏面は鬼畜だ。ま、ゲーム黎明期の時代だったし、クリエイターも手探りの部分があたっと言われればそれまでだが。あ、そういえば、たまごっちのドルアーガ借りパチしてね? あいつのんきだから貸したことも忘れてンのかもな。ま、いっか。うわははは」


 返そうと思っては忘れてを繰り返し、ついには押入れの中で眠ることとなったドルアーガの島。アイテムを出現させるのに非常にやっかいなゲームだ。今の流行はピーステだから彼にとってどうでもいいことなのかもしれないが、借りっぱなしはよくない事だ。しかしまだクリアできていないので、返すのはまだ当分先でも許されるだろう。


 それにしても上手い。たしかに言うだけのことはある。彼女は手っ取り早く全面クリアするために、隠れステージの土管を次々に探りあて、ワープを繰り返す。そしてノーミスのまま最終面のボスの城に乗り込んで、火の玉を数発当てて難なくクリア。見事スモモ姫を奪還した。


 得意満面の顔で僕を見てニタリと笑う。 

 くやしい。けどゲームでは翔子に歯が立たないのはわかっている。ぷにょぷにょとか、ストリートファイターズとか、対戦ゲームだとほぼ無敵。ハンデくれても勝てる気がしない。だから余計にむかつく。


 翔子はそのまま何も言わずにゲームとテレビの電源を切り、食事の乗ったトレーをテーブルの上に置いた。


「さ、食おうぜー」


「もう、いらないってママに言ったのに」


「お袋が言ってたことなら気にすンな。あいつも悪かったと反省してる。ほらみろ」


 翔子がトレーから、おかず、ご飯、取り皿、箸、スプーンと置き、大皿に盛られた黄色い料理を殊更自慢げに見せてくる。


 たまご焼きかな? ママが作ったにしてはいびつな形をしてて、中の具が所々はみ出し、端のほうが微妙にコゲている。


「なにこれ?」


「オメー、オムレツも知らねえのか? まいいや、コレ俺が作ったンだぜ」


 翔子は得意げに胸を反らし「はじめて作ったにしてはちょっとしたモンに出来上がってンだろ。いや~まさか俺に料理の才能があるとは思わなかったぜ」と言った。


 テーブルに所狭しと広がった色とりどりの料理。複雑に絡み合う食材の芳しい匂いに、からっぽになった胃が空腹を訴えてくる。唾液の分泌量が口の中で増大する。


 翔子が作ったオムレツ。……少し食べてみたいかも。いや、是非とも食べねば。


「このオムレツの上に書いてある言葉。これ、お袋がオメーのために宛てたメッセージなんだぜ」


 翔子が作ったというオムレツの上に、ケチャップで“ごめんね”という文字が書かれている。


「この時代メイド喫茶なんてものはねーが、未来はそんなぶっ飛んだモンが流行って、メイドたちは愛するご主人さまのためにこうやって想いを告げンだ。そんなことされた客はもーイチコロよ。俺も社会勉強の一環として行ったことがあるが、なんでもねえジュース一杯が千円近くして、銘打ったモンなんかメイドがツンデレアクションして客の尻をペンペンしたりすンだぜ。恍惚な表情でおしおきを受ける客を見て大いに笑ったモンだ。まぁ知ってか知らいでか、とにかくお袋も味なマネするモンだ。うわはは」


 ――ママ……


「おっと誓って言うが、これは俺が書いたンじゃねえゾ。正真正銘お袋が、懇切丁寧に真心を込めて書いたモノだ。オメーにあんな言いかたして悪かったとマジで反省してる。俺この世界に来てわかったンだけどよ、あいつもあいつで色々悩んで頑張ってンだわ。オメーには何十年先にしか分かンねーことだが、とにかくこれで手打ちにしてやれ、な」


 パパとの確執を突かれ、ついカッとなってあんなこと言ってしまったけれど、関係のないママにここまで気を遣わせてしまうなんて。


 この文字を、心を込めて書いているママの姿が心の表層に上がってくる。感情論に走ってしまったことを後悔した


 最近とくにそうだ。心の中にある小さな火種が、ちょっとしたことですぐに大火となって燃え上がってしまう。自重しようとするけど、どうも上手くいかない。常になにかに苛立っているような感じだ。


 パパと仲直りするのは別として、ちょっと言いすぎたのかもしれない。


「そんな暗れえ顔すンな。お袋は謝ンなくていいって言ってる。だからもうこれであの件は終わりだ。さ、とにかく腹ごしらえしようぜ」


「……うん」


 こうして翔子とふたりっきりの食事がはじまった。


 こういうのを不幸中の幸いとでもいうのかな。寝るときも、学校いくときも、普段は大体ふたり一緒だけれど、ふたりっきりで食事するのは今日がはじめてだ。デートではないことは百も承知だけれど、こういうのは気持ちの問題で、僕にとってはデートに匹敵するくらいの至福感がある。


 しかし毎度のことながら、男さながらの食べっぷりだ。口の回りがケチャップで汚れているのもお構いなしに、甘く煮炊いたブリに、豚肉のサイコロステーキに、豆と油あげをからめたひじき煮に、じゃこを上に乗せた大根サラダに輪切りにした冷やしトマト。誰も取るわけないのに大盛りご飯の上に白菜のお漬物を確保して、それらを次から次へと口の中に放り込んでいく。


 それにしても今日はなんでこんなにおかずが多いのだろう。とても食べきれたものではない。翔子が残りを食べてくれるから問題ないとしても、彼女が僕のために作ってきれたオムレツはたくさん食べることにしよう。卵の殻が入っていたのはご愛嬌だけれど、ママが手を加えてくれたのか、意外においしかった。


「はー食った食ったあ」


 翔子が僕の残したおかずを全部平らげ、ポッコリと出たおなかをさすりながら、満足げにうちわで扇いでいる。もう見慣れた光景だけど、爪楊枝だけはやめるよう釘をさした。

 するとやおら立ち上がり、今度は壁掛けの扇風機の前に立って、うちわで冷め切らなかった熱を冷まそうと、シャツのボタンを外して涼みはじめた。


 ある程度経ってから、彼女は僕に背を向けたままこう言ってきた。


「ところで翔、腹もいっぱいになったところでオメーに言っときてーことがある」


 そう言われてなんとなく予想がついた。

 翔子はポリポリと頭をかきながら、


「あンま言いたかねえが、ストレートに言うぞ。……親父と仲直りしろ」


 予想通りの一言だった。翔子の性格からして今までなぜ黙っていたのか疑問に思っていたけれど、いつかは言われると思っていた。ママとケンカしたのが原因かもしれない。


「何を言われるかなんとなく想像ついてたけど、翔子もママと同じことを言うんだね」


「同じじゃねえ。オメーに一方的に謝れと言ってンじゃねえ。冷静になって互いに協議して折り合いをつけろと言ってンだ。もちろん最初はこっちから歩み寄る姿勢を取るが、あくまでそれはきっかけで、話し合いの場を持つってのが重要なンだ。いっときは俺も様子を見ようと思ったが、現に仲間やお袋とも衝突を起こす羽目になっちまった。これに加えて萌とも衝突しちまったらどうする? ンなモン目も当てられやしねえ。な、わかンだろ? もう黙って見てられる領域を超えちまってンだ」


 前に翔子が、パパとケンカして何年も仲直りできないまま今に至る、とそう言っていた。すごく後悔しているとも言っていた。彼女は、僕の何倍もの辛さを経験している。


 彼女と同じケースではないにしろ、実際僕の身に同じようなことが降りかかってきたのは確かだ。今となっては彼女が経験した辛い気持ちがわかる気がする。しかしその一方で、彼女が頑なになってた気持ちもイヤというほど分かる。むしろ今はそっちの気持ちの方が断然に強い。仲直りはしたいけれど、今のところ僕は折れるつもりはない。僕は僕の矜持に従ったまでだ。


「……パパ相当頑固だし、どうせ僕の言うことなんて聞いてくれないし、無理だよ」


「前にも言ったが、俺は未来に帰ってちゃんと親父に謝って、ゼッテー仲直りする。だから無理とは言わせねー。オメーにも絶対できる。ようは気持ちの問題ってことヨ」


「また無茶なこじつけをしようとする……じゃあ話したと仮定して、それでも向こうが仲直りするのが嫌だって言ってきたらどうするの?」


 翔子は、はだける胸元もお構いなしに振り返り、


「ンなモン何度でも言ってやりゃいいじゃねーか。話がしてえって」


 火種が小さく揺らぎはじめる。

 僕も立ち上がり、彼女の目を見ながらこう言った。


「そんなゲームみたいに簡単に言わないでよ。君だって当時、自分の考え方をすぐに変えられなかったんでしょ? だったら僕の気持ちぐらい分かってよ。こんなに僕が真剣に悩んでるっていうのに、追い討ちかけるような真似しないでよ!」


「真剣に悩む? ハン、部屋に引きこもってゲームしてるやつの言う言葉かよ。そんなに夢中になってゲームできンならよお、ちったあリアルのこともマジメに考えたらどうだ?」


 今日はやけに突っかかってくる。僕のことを真剣に考えてくれるのはありがたいけれど、僕は僕なりの意地があって、間違っていないと今でも思っている。あんな言い方をしたパパが悪いのであって、僕が責められる道理はない。翔子の言い分も見方を変えれば正しいのかもしれないけれど、今はまだそっとしておいてほしい。それなのになんだかんだと言っておきながら、いつの間にか完全にパパの肩を持つ姿勢になってる。ああ、またイライラしてきた。


 ――結局、僕のことは誰もわかってくれないのだ。


 小さかった火種が一気に燃え膨らむ。


「僕なりに真剣に考えてるよ! 自分のことを棚に上げた君には言われたくない!」


 このひと言が翔子の泣き所を突いた。彼女の致命的な欠点は、己の言葉に説得力が足りてないことだ。引きこもってゲームしたり、パパやママとケンカしたり、ポッキーたちの気持ちをないがしろにしたまま何年も逃げてきたのだ。焦りの色を帯びはじめた表情がそれを物語っている。


「だ、だからこそオメーにこうなるぞって言ってンじゃねえか! 何年も何年も苦しい思いをしなきゃならねえって何度言や分かンだ! そうやって悩みから逃げて、親からも仲間からも見離される苦しみが分かるからオメーに言ってやってンのに、なんでわからねえ……ッ」


「だって仕方ないじゃないか! パパもママも僕のこと分かってくれないし、ポッキーだって事情を知らないくせにあんなに言い方して……なんで僕だけが悪くなるのさ! みんなだって悪いじゃないか!」


「ああみんな悪いと思ってる。けどオメーのは……いや俺たちのは異常なんだ。みんな悪いと思ってるのに、ひとりで妄想して勝手に暴走して八つ当たりして、それで相手が怒ったらさらに被害妄想を増大させての繰り返し。じ、自分で自分を苦しませる結果になるっていい加減気づけよ……」


 言葉の節々が微妙に震えている。自分で言ってて矛盾を感じている証拠だ。彼女の言葉は正論かもしれないけれど、完全に自信をなくした言葉は、僕の心に響くことはない。


「とにかく、同じことやってきた君に言われたくない」


「だ、だからってお前が俺と同じ道をたどる理由はねえだろう。オメーはこの境遇が幸せとは思えねえのか? うだつの上がンねー失敗例がここにいて、その道は誤りだってこっちに進めって示してンだぞ? こんな幸運、世界中どこをひっくり返したって見つかりっこねえ。今ならやり直しがきくところに立ってンのに、運命に抗えるところにいンのに、なんでオメーはそう頑なになるんだ」


「僕の運命をどう生きようが勝手でしょ。それにこれは神様が決めたことなんだ。みんなとの仲違いも、パパとのケンカもぜんぶ神様が決めたこと。君がどうおせっかい焼こうがどうすることもできない運命なんだよ。それを証拠に、君と同じ道をたどる結果に結びついてるじゃないか。これは仕方がないことなんだ。未来は、変えることはできないんだ」


 会話の主導権は完全に僕の手中にあった。翔子はそれを感じたのか、下を向いて悔しがっている。べつに彼女が苦しむ顔を見たいわけではない。言い負かしてやろうとは露にも思わないし、ただ僕の主張をわかってほしいだけなのだ。


 しかしそれでも彼女は説得をあきらめなかった。


「神が振ったサイコロの目通りの道を進んでいくのがオメーの人生なンかよ。違うだろ! 未来を決めンのはテメエで、どう転ぶか分かンねえ確率が支配する未来を、テメエでサイコロ振って右か左を決めて、たとえその道が間違ったとしても己の力で軌道修正しながら進んでくモンだろうが。人生って、そうやって生きてくモンだろうがよ……」


「僕は苦しんでまでそんな重い選択したくない。人生なるようにしかならないんだよ。君も今までそうだったんでしょ? だったらべつにいいじゃん」


 彼女の言っていることの正しさよりも、追い詰められた時に生じる反骨心のほうが気持ちの上で勝っている。どんなに正論であっても認めたくないという感情は、追い詰めれば追い詰められるほど顕著な尖りをみせる。僅かに残った良心が僕の胸をしめつけてくる。しかし、ここまで反抗しときながら引き下がるのも……


 心の中で燃え上がる炎から声が聞こえる。


 ――そうだ。お前は間違っていない。


「た、たしかにそうだが、俺は……お前を導くために、この世界に……」


 翔子が再びうつむいて、下唇を噛み締める。くやしさから悲しみに転じた彼女の顔色は、見ていてこちらが辛くなるほど悲嘆に満ちていた。


 もうやめておけ、彼女を悲しませてもなんの得にもならないぞ、言うに事欠いてのん気にゲームしてるやつが図に乗るな、説得力がないのはお前も一緒だろ、いいか、彼女は謝れなんてひとことも言ってない、話し合いの場を持てと言ってるのだ。少しは彼女の気持ちを理解してやれよ、と良心が訴えかけてくる。


 けれど、もうひとつの心の声がそれを許さなかった。


 ――いいやお前は間違っていない、悪いのはお前の気持ちを汲もうとせず逆に責め立てた親と仲間だ。お前の人生をどう生きようがお前の勝手だ、神様が決めた運命に抗おうとするから天罰が下るのだ。だから彼女の理解を得るためにあえてここで言い負かせろ、逆に彼女はお前を見直してくれる、惚れる可能性だってある。


 そう、悪いのは彼らだ。

 僕が、正しい。


「そういうのが重いって言ってるの。ふん、べつに神様が決めたレールの上を歩いたっていいじゃないか。それを選択するのは僕なんだから……だからもう僕のことは放っといてよ」


 翔子が弾かれたように顔を上げた。切れ長の目は見開かれ、口元がわずかに震えている。


 本当に大丈夫なのかな? 今更だけど、重大なことを犯してしまった気がする……


 ――今さら怖気づいてどうする。お前は自分の正義を貫いたんだ。それが悪だと分かっていながらも貫いた。後悔するとわかっていながらも、お前はその道を選択したのだ。


 心の声が嘲るように笑った。


 ――もっと言ってやろうか? 彼女を悲しませる道を選択した。すべて神任せの道を選択した。彼女がせっかく仲を取り持とうとしてくれてるのに、傷口が広がる前に対処できていたのに、くだらない意地のせいで、ひとりでは絶対掴めないチャンスをお前はふいにしてしまったのだ。世界でたったひとりの理解者の気持ちを、無下にしたのだ。ククク、それでよかったんだろう?


 違う! 僕は翔子を悲しませたりしたくない。そりゃ、ちょっとくらい言い負かしてやろうって気持ちはどこかにあったかもしれないけれど、彼女がここまでヘコむとは思ってなかった。僕のことを分かってもらいたかっただけなんだ。それだけなのに、


 ――だったらなぜ自分が正しいと言い切った。失敗例がこの道を進んではだめですよとわざわざ未来からきてお前のために言っているのに、それを足蹴にしたのはお前ではないか。


 そ、そうだけど、まだ気持ちの整理がつかない状態なのに追い詰められた気がして……、とにかく彼女をここまで悲しませるなんて思ってなかったの! す、好きな女の子にそんなことするわけないよ。なんでこうなったんだろう……そうだ、君がでしゃばってくるから冷静に考えられなくなったんだ。きっとそうだ!


 ――そうやってまた他人のせいにするのか。昔から全然変わらないな。ま、お前が選んだ道だ、もう何を言っても遅いハハハハ――……


 もうひとつの心の声はそこで途絶えた。


 しまった。正論を言われたことで見境がなくなり、心の後ろ暗い部分が暴走してしまった。彼女の言い分を受け止めつつ僕の主張も織り交ぜ、みんなと仲直りするいい方法を考えるって手もあったというのに、なんてバカなことを――


「あ、あの、えっと……君は、深く考えすぎなんだよ。僕は僕でいつか仲直りしてみせるから。すぐにってのは無理だけど、そう遠くない未来にってことでどうかな。そ、そうだ、せっかく過去に来たんだしさ、ここにいる間は君ももっと楽しんで」


 パシン――

 視界が右にぶれ、甲高い耳鳴りが脳内に響き渡る。平手でぶたれたことに気づいたのは、それから5秒も後のことだった。


 頬に手を当て元の視界に戻ったとき、翔子の瞳から清流のような涙が流れていた。

 思いが伝わらない悔しさや、悲しさ、この先を憂う失望感などがないまぜになった瞳の色は、濡れて宝石のように煌いているけれど、悲哀に満ちたせつない色をしていた。


 生まれてはじめて、女の子を泣かせてしまった。

 生まれてはじめて、好きな子を泣かせてしまった。

 泣きたいのは僕のほうだった。


 人生の中でもっともしてはいけない事をしてしまった。


 翔子は、歯を食いしばり、鼻で必死に嗚咽を堪えながら痛嘆の涙を流し、僕を見つめている。


 僕は、この世界でもっとも不幸な人間だ。


 なぜなら、世界でいちばん好きなひとを、泣かせてしまったのだから。翔子の震える口元から、世界の終わりを告げる声が聞こえた。


「もう、オメーにどうやって道を示してやれるのか分からなくなっちまった……勝手にしろ」


 頬にじわりと熱が帯びはじめる。

 壁掛け扇風機の風が僕たちの髪をやさしく揺らしている。

 部屋の中は静まり返り、駆動音だけが響く時間がゆっくりと流れていく。微熱を帯びた頬を押さえ、相対して見つめあったままの時間が流れていく。


 僕はこの先何十年とこの事を後悔することになるだろう。

 今になって思うことは、両親や友達を失望させることよりも、未来からきた時生翔子という、30歳で同い年の口さがない黒髪の美少女を泣かせてしまったことのほうが、波束の収縮を理解できない程度には、悲しかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る