ちいさな背中

 7月15日 木曜日 PM6:45 


 今日も翔は、バンドの練習にもドクの手伝いにもこなかった。


 あれから日を重ねるごとに親父との関係は悪化の一途をたどる一方で、目も合わさないどころか、行動を先読みして無理とに接点をもたないようしている節がある。お互い頑固だから歩み寄ることもなく、それに加えてバンドメンバーとの絆にも亀裂が入りモチベーションはだだ下がりで、バンド本来の目的も危ぶまれるといった、どうしようもない状況になりつつあった。


 メンバーの状況といえば、ポッキーにお願いして、もうしばらく様子をみるよう説得を試みたのだが、いくら姉御の頼みでもこればっかりは譲れないと言って頑なになっており、他のメンバーは、事件の当事者であるポッキーとどう接すればいいのか分からないといった様子で、肝心の練習に身が入らず、バンド間の友情にも亀裂が生じようとしている。


 仲間の絆も家族の絆にも悪雲が立ち込めようとしているなか、いかに解決にもっていくかが問題なのだが……


 ――そうか! みんな男だしここは俺の色仕掛けで、


「翔子ちゃん、大丈夫?」


「お、おお萌。悪りぃ、ちょっと考え事してた」


 萌の呼びかけで妄想の濁流の中から解き放たれる。しかもいつの間にか自宅前に着いていた。


 それにしてもこいつは本当にいい子だと思う。まったく関係がないのにバンドのマネージャー的な役割をこなし、内容をまったく知らないままドクの手伝いまでしてくれている。


 彼女は、メンバー間のぎすぎすした雰囲気と、もう一人の当事者である翔が練習に参加していないことからなんとなく事態を察しているようで、彼らとはなにげなく接しているものの、実際には相当気遣っているに違いなかった。あえて追求してこないところがとてもしおらしく思える。


「あのよ萌、前から思ってたンだが、無理して俺たちに付き合わなくてもいンだぜ?」


「ううん、へいき。私、みんなと一緒にいるのが楽しいし、それに……翔子ちゃんとも一緒にいられるからへいき」


 そう言って頬をわずかに赤らめて笑う。俺が男だったら絶対に押し倒しているほどの笑顔だ。


「う、先に言っとくが、俺にそんな趣味はねえかンな」


「うん。翔子ちゃんもあまり無理しないでね」


 萌の気持ちがいっとき俺の方に向いてしまったと心配していたが、どうも杞憂だったようだ。なぜなら俺には分かってしまったのだ。こいつが、翔に惚れているということを。


 思いあたる節は、今までにたくさんあった。


 一緒に試験勉強したときはわざと翔に密着しようとしていたし、弁当作って持ってきたときは取り皿に盛る量がみんなと違うし、それに、ピンチヒッターとしてギターを弾く俺の姿を見る目が翔と比べると明らかに違う、など。


 当時、俺がそのことに気づいていたらもっと違った方向に進んでいたと悔やまれるが、いまさらそれを言っても詮無いことだ。あとは、あいつをステージに立たせさえすれば、この恋も成就するはずなのだが。


「遅くなったし家まで送ってくわ」


 と、俺が申し出たにも関わらず、萌は首を左右に振り、


「へいき。鞄に……メリケンサック入れてるから」


「ブッフウウウウウッ、て、オメー、普段からそんなぶっ騒な物持ち歩いてンのか?」


「だって、翔子ちゃんが言ってたから」


 ――くうぅ萌のやつ、鳴神のときの一件で冗談半分で言った俺の話を真に受けてやがる。


「萌! オメーそれをどんなことに使うのか知ってンのか?」


 すると萌の顔から一切の表情が消え、説明書を読み上げるかのごとく淡々と、こんなことを口にしてきた。


「敵が女だとみて油断している隙に、ナックルを装着して鼻下辺りを照準に捉え拳をえぐりこむようにしてアタック。素人の場合どうしても躊躇いができるから、敵をその辺の野立看板かいま流行りのストレス解消で使われているキテーとかのぬいぐるみに見立ててアタック。背が届かない場合は下顎がおすすめ。一撃で無力化できる」


 こいつひょっとして、みんなの前では平然としておきながら、うちに帰って溜まったストレスをぬいぐるみにぶちまけているのではないか。


 彼女はそれに加えて「万が一警察ざたになったとしても敵はしゃべるどころじゃないから正当防衛に持ち込むのは簡単。それにどう足掻こうが警察は敵を絶対に信用しない。女性の弱い立場を利用して完全勝利。だからへいき」と言ったあと、いつも通りのかわいらしい表情に戻って嬉しそうに笑うが、俺にはどうしても笑えなかった。


 まずいまずいまずい。俺のあずかり知らぬところでこの世界の未来が変わっているような気がしてきた。こういうのなんて言ったっけな。ほら、カオス理論を映画にした、蝶の羽ばたきがどえらい竜巻を起こすっていう……そう、バタフライエフェクト!


 ――こ、このことはドクに内緒にしておこう。


「ま、まあまだ明るいし、それがありゃひとりでも大丈夫だな。てか本気で身の危険を感じた時にしか使っちゃダメだかンな!」


「うん!」


 萌は別れを告げると、何事もなかったようにツーサイドアップの髪を跳ねらせながら元気そうに走っていった。彼女の背中が闇を孕んだ夕焼けの景色に少しずつ溶かされていく。


 オレンジ色に染まる西の空には季節はずれの赤とんぼが無秩序に飛んでおり、空を横切る電線に止まって鳴いていたカラスの親子が彼女と同じ方角を目指して羽ばたいていく。この家から少し南側に離れた踏み切りの鐘が鳴り、電車が西から東へ騒音を撒き散らしながら流れていく。向いの山下さんの家の赤ん坊が授乳の時間を訴えている。その赤ん坊が桜ちゃんであることに気づいて、なんであのとき恥ずかしげもなくあんなことを言ってしまったのかと後悔に苛まれながら、彼女の姿が町角に消えるまで見送る。


 家の庭を通りドアノブに手をかける。


 とにかく、今できることをひとつずつこなしていくしかない。そうだ、今度ドクに相談してみよう。確かめないといけないこともあるし……。


「たでーま」


 玄関を開けると、ダイニングの方からいきなり怒鳴り合う声が聞こえた。


「いい加減にしなさい!」


「これは僕とパパの問題でしょ! 僕はもう大人なんだから放っといてよ!」


 お袋と翔が、近所の目もお構いなしにヒステリックな声を上げ、互いを責め立てていた。思春期で苛立つ翔に我慢の限界が訪れたのだろうか。いずれそうなるだろうと安易に予測してはいたが、やはり避ける事はできなかったか。


「関係なくはありません。それに大人だったらお父さんが言わんとしていることぐらい分かったらどうなのよ。仲良くしなさいとまでは言いませんけれど、せめて謝りなさい」


「なんで僕が謝らないといけないの? みんなで寄ってたかって僕だけを責めるなんてもううんざりだよ。どうせ僕は橋の下で拾ってきた子なんでしょ? 大人になったらすぐ出ていくからそれまで我慢してよ!」


「あなたさっきと言ってること矛盾してるわよ。わかりました。そんな態度とるなら今日の晩御飯抜きです!」


「いいよ別に。野たれ死んで化けて出てやる。フン」


 翔はダイニングを出て二階に駆け上がり、振動の波がここまで伝わるほどの勢いで自室のドアを閉めた。玄関に俺がいたのにも気づかないほど動転している様子だった。


 ダイニングへいくと、鍋からもうもうと湯気が沸き立っており、煮魚の複雑で甘い香りが立ち込めていた。お袋が夕食を作りかけのままテーブルに顔を伏せ、声を漏らさないように静かに悲しみにくれている。彼女の後ろをそっと通り、火を止める。


 俺がもたもたしているからこうなってしまったのだ。お袋の背中が、しゃくり上げるたびに波打っている。お袋は困っている様子を微塵も出さなかったが、思い通りにいかない子育てに今まで誰にも相談せず、ひとりで抱え込んで相当悩んでいたのだろう。この状況を目の当たりにして分かったことだが、思春期の子をもつ親の気持ちもまた、不安定なのだ。


 お袋の背中がいつも以上にほっそりと見える。俺はこの小さくも広い背中を見て育ち生かされてきた。どんな時でも明るく、どんな時でも気丈に振る舞い、俺の事を人一倍叱ってくれたお袋。裏ではこんな風に縮こまり、ひとり泣いていたというのか。この目で観測してはじめて分かる母親の実態。このことから鑑みるに、あの世界のお袋は、倍の涙を流したに違いない。


 そんな俺が、こっちのお袋にどんな慰めの言葉をかけるべきなのか。


「……お袋、大丈夫か?」


 お袋は涙をぬぐって顔を上げ、泣き腫らした目を細めて笑い、


「やだへんなところ見られちゃった」


 歪んだ笑顔。痛ましげなその表情に胸が締めつけられる。


 あっちの世界にいたときはなにも気にしてやれなかったが、この世界にきて彼女と色んな形で、接して、感じて、こうして第三者的な立場になってはじめて親の抱える子育ての苦しみや、難しさや、思い通りにいかない悲しみを理解するに至った。


 時代背景の違う親子関係に苦しみ、思春期の子供をはじめて持ってその気難しさに直面し、男女の違いもあるだろうが、自分の幼き頃と比較してそのギャップに胸を痛めている。


 お袋もまた、自分の母親の偉大さに気づいたに違いない。


 調子のいいときだけ親を利用して、わがままやりたい放題生きてきたことに心の底から後悔する。なんで俺はこんな大馬鹿野郎に育ってしまったんだ。


 結局この世界にきても俺のやってることは何ひとつとして変わらない。親を悲しませ、仲間を耐え忍ばせ、ドクに頼りっきりで、他人任せなところは向こうの世界にいるときとまったく同じだ。いっそこのまま、ここで起きた事すべてを放り出して未来に……


 ――バカヤロウ、それじゃもっとダメになるじゃないか。 死ぬ思いまでしてこの世界にきた意味がないじゃないか!


 困難に直面するたびに揺らぐ情けない心の闇を打ち払う。


 ここで起きてしまったことをこのまま放置して帰っても、後悔に苛まれるは目に見えている。もっとお袋を見ろ。理由はどうであれ俺が泣かせてしまったのだ。あっちの世界で叶わなかった親子の絆を、せめてこの世界では強固なものにしたいと願わずにはいられないのが、お前の本心のはずだろう。


 奥歯をギュッと噛み締め、


「お袋ごめんな。いつも……迷惑かけて、ごめんな」


 そうだ。慰めてやろうだなんて思い上がりも甚だしい。お袋の気持ちを分かっただ? 偉そうに。彼女の気持ちをうわべだけ知ってすべてを理解したように振舞いやがって、お前は一体何様のつもりなんだ。罪を認めた時点で謝らないと、過去だとか未来だとかごちゃごちゃ頭の中で考えて入るうちに時間は過ぎて、さらに後悔を重ねてしまうことになるんだぞ。


 目の前のお袋に謝り元気を取り戻してあげるのが、お前がこの世界で果たすべき使命だろう。


「……どうかしたの? あなたが謝らなくてもいいのよ」


「いや、謝らせてくれ。アンタは俺にとって過去のお袋だ。証明することはできねえが、俺は未来のアンタをいっぱい泣かせてきた。この世界にくるまで親の気苦労を理解してあげられなかった。過去にきて、はじめてお袋や親父に迷惑をかけていたことにようやく気づいたんだ!」


 この世界が俺のいた世界と違うとかそんな理屈はどうでもいい。目の前にいるのが、俺の母親なのだ。奇跡がこうして俺に、過去のお袋に謝る機会を与えてくれたのだ。


「馬鹿だった。肩のひとつも揉んであげることすらしなかった。与えてもらうだけでそれに対して報いることもしなかった。支えてあげることなんてちょっと考えりゃいくらでもできたはずなのに、親父やお袋に散々自分勝手な文句ばっかり言って、迷惑かけて、悲しませ、苦労かけさせ、そんな調子で30年間ずっと甘え続け、ただの一度たりとも孝行せずに生きてきた! それが本当の俺なんだッ。あんたが胸張ってこれが私の息子だって自慢することもできない、そんな情けないクズヤロウが俺の正体なんだ……ッ」


 お袋を泣かせた翔には自然と腹が立たない。思春期真っ只中の家庭はどこもこんなものだと思うから。


 問題は、俺が今までにしてきたこと。


 馬鹿な私立高校を出て、その後十数年も両親のありがたみをただの一度も気づかず、のうのうと暮らしてきた自分に、心の中を引っ掻き回されるくらいの憤りを感じる。


「だから謝りたい。目の前にいるあんたと、いずれ帰る未来のお袋に……両方に謝りたいんだ」


 お袋の目から再び一筋の涙がこぼれ落ちる。


 ――この涙は、俺のために流した涙だ。


 後悔がどこまで行っても地続きな俺の人生だけれど、それが俺の運命だとしたら、せめてこれからは前を向いて歩いていこう。軌道修正することはいくらでもできるのだから。


「ほんとうにほんとうに、ごめんな。苦労ばっかかけて、ごめんな。……それと、」


 あっちの世界で言ってあげれなかった言葉がある。


 伝える機会は幾度となくあったのに、恥ずかしがって何度もためらい、結局はうやむやにして横文字使って誤魔化してきた。

 はじめて口にする言葉。

 横文字ではけして伝わることのない、感謝の言葉。


 30年間のありったけの気持ちと生んでくれたことに、深謝と愛をこめ、


「いつも、ありがとな」


 子供のように泣き崩れるお袋を正面から抱き留める。テーブルに置いてあった花瓶が倒れ、床に水が零れ落ちる。お袋の涙が俺の右肩を濡らし、俺の涙がお袋の右肩を濡らした。


 お袋は泣き声混じりの言葉で、あなたが謝らなくてもいいの、と何度も俺に言った。抱きしめる力強さに深い愛情を感じた。ひきつけを抑えるために、彼女のちいさな背中を、かわいらしい頭を、何度も何度もやさしく撫ぜてあげた。


 もう二度と、悲しませてなるものか。


 嗚咽が収まりはじめたところでお袋から離れ、涙を指で拭ってあげる。


「お袋、もう泣くな」


「あな、あなたに、いわれたく、ないわよ」


 お袋が嗚咽を抑えようと背中で呼吸をはじめる。次第にそれが弱まっていき、落ち着きを取り戻していく。


「翔のことで苦労かけっけどよ。ま、思春期の多感な時期はどこの家もこんなもんだから心配すンな」


「生意気なのは相変わらずね。翔の未来が貴女なら、翔もそうなっちゃうのかしら」


「お、冗談言えるようになってきたな。その調子だ。だがまぁ、あいつは俺のようにはしねえから、安心して俺に任せとけ」


 お袋はぷっと吹き出し、説得力ないわよと言った。そして、瞳の奥に引っ込めた涙を再び流しながら、やさしくこう言った。


「苦労だなんてこれっぽっちも思ってないわ。……だって、翔もあなたも、私の大切な自慢の子供ですもの」


 お袋のにっこりとしたその顔には、真心をかき集めたような、まじりっけなしの慈愛に満ちた笑顔が刻まれている。

 俺はこの時、はじめてお袋の笑顔の秘密に気づいた。


 ――いつもこうして笑ってくれるから、俺は安心できたんだ。


 その陽だまりのような笑顔を見て俺は、この家の子として生まれて本当によかったと、心の底からそう思えた。

 しかし、そう思う心の更なる奥底で別のことも思う。


 俺は、都合よすぎるこんな自分が大嫌いだ。


 こんな結果になって、はじめて過去のお袋に謝ろうとしたこの根性。こうなるまで謝る気なんてさらさらなかったくせに。世話になるだけ世話になって、はいさよならって思っていたくせに。まるで後だしジャンケンのように、ズルして曲りなりにも勝ちを拾おうとするこの腐りきった性根に嫌気がさす。


 これは今にはじまったことではない。昔からずっと俺はそんなだった。むしろ後悔するよりも、この度し難き自分を許せないという思いの方が強いのかもしれない。


 前を向いて歩くと言ったとはいえ、俺は一生、自分を許せないのかもしれない。


 俺の心の中に巣食っている自己嫌悪の念は、後悔を積み重ねてきた自分への報いだ。謝って許されるとかそんな単純なことで解決をみることはない。翔と共に俺も成長しなければ自分の未来を変えることなどできはしないし、これから事あるたびに嫌悪感を抱き、自分で自分を傷つけることになるだろう。


 自分の成長を良しとするその時がくるまで、ずっと……。


 そのあと俺は、はじめてお袋と共に炊事場に立った。とにかく、まず自分で言ったことを行動に移そう。自分を許す旅はここからだ。そう思えたからの行動だった。


 生まれてこのかた料理を作ったこともなかったが、それなりにできた。お袋に言われる通りに野菜の皮を剥いたり、切ったり、米を研いだりもした。


 お袋は思った以上に喜んでくれた。あっちの世界のお袋が、事あるごとに言っていた「女の子が欲しかった」という言葉の意味がようやく理解できたような気がする。女同士でこうして色々やりたかったのだ。


 お袋がへこんだ反動で元気になりすぎて、いつも以上にはりきってフライパンを振るい、空腹を煽りたてる美味そうなシズルをキッチンに響かせる。献立になかった料理まで作るといった茶目っ気ぶりに調子に乗るなと冗談で叱ってやった。やがて親父が家に帰ってきて、学校であったことやバンドの練習のことなどを話し、今日は翔の調子が悪いから上で一緒に食べると言って、二人分の食事をトレーに乗せてダイニングをあとにした。


 俺が、苦闘のすえに作り上げたいびつな形をしたオムレツの上には、お袋がケチャップの赤で書いた「ごめんね」が書かれている。

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