橋の下で拾われた子だもの

「先生おねがい。僕を未来に行かせて!」


 翔子が未来に帰ってから、僕はすぐに彼女を追って未来にやってきた。


 なぜかというと僕は後悔していた。


 彼女に、想いを告げることができなかったから。


 過去の世界に戻れる保証はない、と先生はそう言っていた。


 そんなことは全然かまわないと思った。


 彼女が僕の世界にいた頃に、何事もやると決めたからには気持ちで勝れと教えてくれた。なので想いを伝えることができれば僕は死んでもかまわないとさえ思っている。これはけして誇大ではない。だから、どうしても彼女の住む未来の世界に行かなければならなかったのだ。


 しかし未来にきたとは言うものの、


「ここはどこだろう」


 僕は今どこかの街にいる。翔子と同じ量糸の道をたどる計算だと僕は歳天満宮に着くはずなのに、ここは見当違いもいいとこだ。先生がなにかの設定を間違えたのかもしれない。とにかく辺りを見渡してみることにした。


 歩行者用の信号機は赤。右には新聞を片手で見ている銀縁メガネの安っぽい紺色のスーツを着たサラリーマン。左にはどこかの学校の制服をルーズに着こなしバカ騒ぎしている女の子たち。何台もの車の群れとバイクが目の前の車道を横切っている。

 ここは街角の交差点。知らない街の交差点。


 僕は今、どこか知らない街角の交差点で、雑踏に紛れて立ち尽くしている。


「これが未来の街か」


 ここがどこで今がいつなのかも分からないけれど、どうやら先の未来でも、車を飛ばすことができなかったらしい。


 信号が青に変わってカッコウが鳴きはじめる。隣にいたサラリーマンが横目で僕をチラリと見る。知らないひと。ひょっとして僕が過去から来たことがばれたのだろうか。彼は何事もなかったように新聞紙を片手で折り込み前に進んでいく。気のせいだったようだ。そこで、背中を叩かれたので振り返ってみると、腰掛けエプロンと買い物かごを持ったパーマのおばさんが「なにしてんの早く行きなさいよ」という目で僕を睨んできた。僕は慌てて歩きだし、横断歩道のひび割れに足を引っ掛けながらもなんとか交差点を渡りきる。意味不明に威圧的で用心深い態度はいつ時代でも同じなんだと少しだけ安心した。


 交差点を渡りきった所にコンビニがあった。マチのほっとステーション、ローション。トレードカラーの青と白が、横じまの虹色になっていることに驚く。ようやくここが未来だと実感できた。


 そこから右に進路を変え、一階に商店が立ち並ぶ鏡張りの背の高いビルの隣を歩いていく。そこに鮮明に映し出された空の青とぽっかり浮かんだ積雲が、なんだか巨大な絵画のように見えてとても未来的に感じた。とそこで、


 キイイイイイイイイイ、ドンッ!


 自動車の急ブレーキの音と何かが衝突した音が聞こえた。


 事故?


 前を見ると50メートルほど先の交差点に人だかりができていた。そこでタイヤのゴムが摩擦によって激しく擦られる音が聞こたと思ったら、右前方のヘッドライトがへしゃげた黒い車が、猛スピードで車道を走っていった。


 ひき逃げだ。


 事故現場と思わしき交差点に群がる人たちのざわめきがここからでも聞こえてくる。


 胸騒ぎがした。


 そう思い立つや僕は人ごみに向かって走りだす。そして、竹のように立ち並んだ人だかりを掻き分け、事件現場とまろび出る。


 ……ッ!!


 そこで目に飛び込んできたのは、茶髪で口に髭を蓄えた小太りの男性だった。太っているせいか、ぴちっとしたグレーのスーツは体格から考えると不相応で、パッと見の年齢で三十代半ばだと推定すると、俺はまだ若い、と無理して着ているのにもいささか納得がいく代物ではあった。


 センター分けの間から垂れ落ちている血液。口から吐き出されたとおぼしき血が至る所に飛び散っており、スーツとシャツはおろか、風化して白みがかったアスファルトの上にも、おびたたしく流れている。


 知らない人で少しほっとする。とその時、サングラスの欠けた部分から、その男性の目がこちらに向けられていることに気づく。そして、


「か、翔……?」


 見知ぬはずの男性が僕の名を呼んだ。


 ――まさか、そんな……


 雑踏や車の喧騒が急激に意識の表層へと上りつめる。男性は、息苦しそうに次の句を告げた。


「オメー、翔じゃねーのか?」


 人だかりの誰かが「救急車」と叫び、周りにいた男子高生たちが四角い平べったい何かで彼を覗きこんでシャッターを切った。未来のカメラなのだろうか。先ほど僕を睨みつけていたおばさんがいつの間にかそこにいて、この男性ではなく僕のほうを不審げにじっと見ている。僕を犯人だと勘違いしてるかもしれない。


 僕は石のように重たくなった唇を開け、確かめるようにこう言った。


「……翔子、なの?」


「おお……やっぱそうか」


 いやな予感が的中した。


 茶髪で小太りのこの男性の正体は、あの夏に恋した口さがない黒髪の美少女だった。翔子、いや彼は、息も絶え絶えになりながら無理とに笑顔作ろうと必死だった。


「オメーの格好からして、あの後ドクに言って俺を追ってきたンだろ? 今度はタイムマシンでも発明したのかアイツ?」


 彼の言うとおり、僕は翔子を追ってきた。僕の想いを伝えるために。好きであることを伝えるために。


「バカなのは相変わらずだな……今、いつなのか知ってンのか? あれから10年後、オメーからだと26年後の世界。今は2025年。ここはお前の知ってる、翔子のいない世界なンだぜ」

 

 言われなくても分かっていた。けれど、本当にそうなのか、自分の目で確かめたかった。


「あれからみんなに許してもらって、どうにかこうにかアイツラのツテで音楽業界の職もらって、曲りなりにも生きてきた。が、どうやら最後の運、オメーとの再開と引き換えに使い果たしちまったようだな……ゴフッ」


「翔子!」


 駆け寄って苦痛に顔を歪める彼を抱きかかえる。


 薄汚れたシャツが口から流れ落ちる血で瞬く間にネクタイと同じ色に染められていく。声をかけていないと今にも目蓋が閉じてしまいそうだった。


「もう、翔子じゃねーだろ……」


 再び現実を突きつけられる。彼は、26年後の僕であり、僕の恋した彼女はもう存在しない。よく考えてみれば当たり前のことなのに、未来に着いたら男に戻ることは分かっていたはずなのに、なんで僕は未来にきてしまったのだろう。


 そうだ、認めたくなかったのだ。あの世界で彼女と共に過ごした日々を、彼女と共に過ごした時間を嘘にはしたくなかった。心のどこかで、彼女は未来に帰っても翔子のままだと信じ、勝手にそうだと決めつけていた。


 しかし、実際はそうではなかった。現実は所詮こんなものだ。彼女は、僕が見た夏のまぼろしだった。夏が終わると消えてしまう泡沫の夢。けして叶うことのない、ひと夏だけの片想い。


 翔子はもう、いない。


 そう考えに至ると気が早いもので、途端にどうでもよくなった。彼女がいない未来にいつまでいても意味がない、早く元の世界に帰りたい、そう思った。


 それにしても彼の格好。茶髪に髭にサングラスにメタボにおっさん。もはやなんちゃって業界人にか見えない。僕はこんな大人になってしまうのか。そう思うと、なんだかとても腹が立った。


「髭!」


 いっちょまえに生やして、僕のくせにえらそうに。


「は? 髭なんか男だったら当然じゃねーか」


「茶髪! 不良! デブ!」


「イテテ……ウッセーな、傷に障ンだろうが。そんなことよりも俺を助けてくれよ」


「ヤダ! 帰る!」


「は? 意味わかんねえ。この状況からして未来の俺のピンチを助けるってのがオメーの役目だろうが。ちゃんとあの映画見たのか?」


 彼女の申し出を首を振って拒み、


「だって翔子じゃないもん! おっさんだもん!」


「お前なに言って、」


「うるさいうるさいうるさい! 翔子がいないから僕は過去に帰る!」


「クッ、長ぇこと見ねえ間にバカさ加減に拍車掛けやがってこのとっつあん小僧!」


 パシン。

 ぶってやった。今回は力任せに本気でぶっ叩いてやった。僕は、茶髪で髭でグラサンでメタボのおっさんには容赦しないのだ。


「て、テメーこの俺様に向かってなんてことしや、ぐわはッ」


 彼の口から盛大に吐き出された血が僕の顔面を盛大に濡らした。学校の制服が血みどろになってしまった。


「うわあ、ど、どうしてくれんの! こんな姿で帰ったらママに怒られちゃうじゃない!」


「ク、まだママとか言ってやがる……うるせー! それもこれも全部オメーのせいだろうがッ!」


 こうして、互いに血まみれになりながらの殴り合いのケンカが切って落とされた。

 僕のバカバカバカバカバカ! 普通に考えて彼女が男に戻るに決まっているじゃないか。それを女のままかもしれないって、ほんとどうかしてる。いや、これは僕のせいじゃない。あれもこれも全部翔子のせいだ。翔子がすべて悪いんだ! 翔子のバカバカバカバカバカ――


「うわあああああああ!」


 飛び起きた。


「……こ、ここはどこ?」


 辺りを見回す。見慣れた天井に蛍光灯。手すりの光沢が剥げた二段ベットの上、白いタオルケットに青いパジャマ。

 ここが自室だということを認識して安堵のため息がもれる。


「よかったあ夢で……ん? ということは、今まであったことは全部夢……」


 一瞬で血の気が引いた。

 思考よりも行動が先行し、二段ベッドの上から上半身を逆向け、


「翔子ッ、うわあッ――」


 ドスン。

 無理な体勢で一段目を見ようとしたものだから、背負い投げをされたように体が回転して背中から床に墜落した。仰向けの姿勢から辛うじてうつ伏せの状態にもってき、目の前のオアシスを求める砂漠の遭難者のように一段目のベッドの側枠に手をかける。


「いてて……。しょ、翔子」


 彼女はベットで寝ていた。


 かなり大きな音を立てたのに、口を大きく開けていびきをかきながら眠っている。地震が起きても目が覚めないタイプだ。


 相変わらず寝相が悪く、きれいな黒髪はぼさぼさで、肌けたパジャマの隙間から、豊満な胸を晒している。


 翔子がいる。


 今まで翔子と過ごした日々が夢ではなかったことに安堵した途端、涙がこぼれ落ちてきた。


「うわああああああん。翔子どこにも行っちゃヤダだああ」


「はへ? なんだ翔か、朝っぱらからウルセーぞ。うお、」


 翔子が起きたのと同時に首元にしがみついた。


 汗ばんだ柔らかい体から仄かに漂うシャンプーの香り。殴られる覚悟で抱きついた。しかし彼女は存外にも「悪りぃ夢でも見たのか」と言って僕の頭をやさしくなぜてくれた。


 僕は幾分か落ち着きを取り戻し、彼女に嫌われるといやなので離れることにした。翔子は上半身を起こし照れながら、


「俺が男だったらキモいことになるが、今は女だから、たまにはこうやって慰めてやってもいいぜ」


 そのやさしさに、また涙がこみ上げてきた。すごくうれしかった。


「ほんとに? あと、どこにも行っちゃやだからね」


「ワリィ夢でも見たのか? どこにも行いくワケねーだろ」


「……未来にも?」


 答えは分かっていたけれど、なんだかいじわるしてみたくなった。自分が傷つくだけなのに。


「は? それはオメー、帰るに決まってるだろ。俺が言いてーのはだなあ」


「うそつき!」


 翔子はため息をついて頭をかきながらこう言った。


「聞き分けねーこと言うな。だいち俺がこの世界の異分子ってことはオメーだって百も承知だろう」


「……うん、けど」


 また彼女を困らせてしまった。


 そうなのだ。彼女はこの世界にいてはいけない人間。彼女がいなくなるのは避けられようのない事実であり、このままいたらとろとろぴーが大変なことになってしまうのだ。

 気まずい空気が流れる。彼女の曇った表情に気づいて、慌てて話題を変えることにした。


「あの、えっと……あ、今更だけどそろそろ胸しまったほうが……」


 慌てて口を閉じた。


 しまった。僕はバカだ。なんでこのタイミングでそれを言うのか。

 彼女が事実を確かめるため下を見る。目が大きく見開かれる。

 ヤバイ、考えろ。この場をできる限り丸く収める方法を。


「そだ、僕トイレに行こうとしてたんだ、ちょっと行ってくるよ」


 今日からまじめに勉強をしよう。そしたらもうちょっとマシな考えが思いつくはずだから。


 彼女は、自分が下着姿なのを存分に見定めたあとわなわなと震え、やばい、と思った瞬間には鬼の形相で僕に飛び掛ってきた。


「俺が寝てる間に服脱がしやがったなこのエロガキャあああ!」


「うわ、ぐるぢぃ……僕じゃないよ。君の寝相が、」


「危うくその泣きっ面に騙されるとこだったぜ。もう勘弁ならねえ、ここで死なせてやるああ!」


 あの日以来のヘッドロックだった。こうなればどう言い訳しようが信じてくれないに決まっている。本気で殺されるのかもしれない。


 ――帰るに決まってるだろ。


 自分が傷つくだけなのは分かっていたけれど、彼女の口から改めて事実を聞かされるのが、これほどショックだとは思いもよらなかった。


 こういうことをいつまでしていられるのだろう。くだらないことを言い合って、ゲームでズルして勝ってケンカして、一緒にご飯たべて、学校にいって、僕はずっとそうやって翔子といたい。時空転移装置なんかできなかったらいいのに……。



 7月13日 火曜日 AM7:20


「翔、あなたほんとうに翔子の寝込みを襲ったの?」


 ママに叩き起こされなかったら今頃僕は三途の川を渡っていた。僕を殺しかけた張本人はというと、素知らぬ顔で隣で朝ごはんを食べている。

 それにしても、なんでそういう解釈になるのか。ママのことだ、たぶん翔子の意見を一方的に聞きいれた結果そうなったのだ。言い返す気にもなれない。


 僕の前にパパが座っている。目を合わそうとしないパパの右手には、まだ包帯が巻かれている。あのあと僕が家に戻った時に聞いた話では、大事に至らなかったとママが言っていた。ママはこの怪我に関しては謝らなくていいと言ったから謝っていないけれどちょっと心配だ。いや、僕は悪くない。これはパパが勝手にやったことだし、あんな酷いこと言うパパなんて……あーもう。これから期末試験二日目だってのに、こんな気分じゃまともに受ける気も起こんないよまったく。


「ちょっとは自分の息子のことを信じてよママ。冷静に考えなくても、問題を起こすのはどちらかといえば翔子のほうでしょ」


「それもそうねえ」


「やいオバーバ! 勝手に俺を問題児扱いすンじゃねえ。イタッ。……なにすンだ。ちゃんとババアの前にオをつけただろ! あ、」


 ママは翔子の頭を叩いて、彼女の茶碗と目玉焼きとベーコンを乗せた皿を取り上げる。


「そんなことを言う子には朝ごはんあげません」


「お母様それだけはどーかご勘弁を! もう二度とそんなこと言いませんから」


 ママは翔子の涙ながらの訴えを横目でちらりと見て、ため息をついて元に戻す。パパはそのコントを見ても笑おうともしない。


 笑えばいいのに。


 僕に気を遣っているつもりだろうけど、逆にこっちが気まずくなるじゃないか。あれからずっとこんな調子だ。これもぜんぶ僕が悪いって言うの? 間違ってる。翔子の言いたいことも分かるけど、絶対に僕のせいじゃない。わざと僕を無視するなんて。ほんと許せない。


 そこで僕が目玉焼きにかけるウスターソースを取ろうとしたら、偶然パパも同じように手をかけてきた。


 二日ぶり、いや三日ぶりだろうか、どっちでもいいけど久しぶりに目が合った。ちょっと気まずかった。僕が手を引っ込めるのと同時にパパも引っ込めた。なんだかやさしくされたような気がして、あの時は僕もちょっと悪かったな、とだんだん思えてきた。何事もきっかけが大事だって翔子も言ってたような気がする。僕は先立って言うことに決めた。


「あ、あの、僕はいいからお先にど、」


 何事もなかったようにソースを取る僕のパパ。


 また無視された。

 せっかく僕の方から声をかけてあげたのに、あえて無視するとか絶対にありえない!


 苛立ちの炎がふたたび燃えあがる。


 このひとは本当に僕の父親なのだろうか。昔ママが「あなたは橋の下から拾ってきた子よ」と、いたずらした僕にそう言って、それが悲しくてわんわん泣いたことを思い出す。


 やっぱりあれは嘘じゃなかったんだ。そうだ。絶対にそうだ。だからこんなにも僕に冷たくあたるのだ。


 こうなったらあえてパパをじっと見てやる。僕から奪ったソースを少しだけ垂らして、おいしそうに目玉焼きを食べている。まだ僕を見ない。ケチャップのついたベーコンはどうするのだろう。マヨネーズを取って……ケチャップの上にかけた。え、醤油まで垂らすの? ケチャップとマヨネーズと醤油を無表情でかき混ぜている。うそ。そしてそのベーコンを口に入れおえええ! こ、こんな強烈な食べ方するひとはじめて見た。今確信した。こんな食べ方をするひとは僕のパパじゃない。だって僕そんな食べ方知らないもの。それに本当のパパだったら僕を傷つけることは絶対に言わないもの。やっぱり僕は違うひとの子なんだ。本当のパパはどこにいるんだろう。


 そこで翔子が「親父めずらしい食べ方だな。俺もやってみよ」と言ってパパの真似をして即席ドレッシングを作り、ベーコンにレタスをはさむという三段構えでそれらを口に入れた。そして「うめえ」と歴史的発見でもしたかのような顔でそう言った。ちょっとだけ僕もしてみたくなった。するとパパが「今度ちゃんとしたオーロラソースを作ってあげよう」と翔子にとびっきりの笑顔でそう言った。それはもうとびっきりの笑顔で!


 僕とは目も合わさないくせに、僕とは口も利いてくれないくせに、翔子には目を合わせて口も利いてあんな笑顔を見せるなんてほんとズルイ!


 みんなが僕を避けて楽しそうに食事している。翔子がざまーみろといった具合に目を光らせてこちらを見てる気がした。差別だ。僕はいらない子だからみんなでいじめようとしているのだ。もう我慢の限界だ。


 いきおいよく立ち上がると、みんなが僕を見てきた。パパもようやく見てくれたけど今更見たって知るもんか! 僕の本当のパパじゃないなら勝手に見ないで!


「翔、どうしたの?」


「もういらない」


「お、じゃあいっただきー」


 と翔子がいち早く、僕の残した目玉焼きに箸をかけてきた。

 パシン。

 彼女の手を叩いてやった。


「勝手に僕の食べないで!」


「痛って……オメー今いらねーつっただろうが!」


「いらないけどダメなの! あと太るから!」


 僕より後からきたよその子のくせに、パパとママとグルになって僕を仲間はずれにするからこうなるんだ。決めた。パパの味方は僕の敵。パパが小さくため息をついて食事に戻る。その勝手にしなさい的な態度もむかつく。


 ――絶対に僕から謝ってやるもんか!


「フン、ごちそうさま!」


 本当のパパじゃないパパを睨みながらそう言ったのに、それでもまだ見ようともしない。ほんと頑固なんだから。見たければ見ればいいのに!


「翔、まだいっぱい残ってるのにどうしちゃったの? お腹空くわよ?」


「いらないったらいらないの! それにどうせ僕は橋の下で拾われてきた子なんだからどうだっていいでしょ!」


 そう言ってダイニングから飛び出て、右手にある洗面所に入った。


 まず顔を洗う。僕にとってここは他人の家だから今日から洗顔フォームは使わない。だって、居候のくせに贅沢するなといびられて階段下の小さな物置部屋に閉じ込められるに決まっているから。タオルは端の方を使おう。つぎは歯磨き。毛先がちょっと広がってきたからこの歯ブラシも替えどきだなって思っていたけれど、あえてまだ使ってやる。広がり切って学校の便所たわしぐらいになるまで使いこなしてやる。歯磨き粉もいつもの二分の一に節約。僕のだけ百金の自社ブランド物に変えてもらうのもありかもしれない。とにかく贅沢は禁止。いつもは無意味に水を流しながら歯を磨いていたけれど、それも今日限りで禁止。だって、そのうち水道代も請求されるに決まっている。なのでうがいは二回までと決めた。


 僕がこんなに倹約しているとは誰も思ってもみないだろう。それでも文句を言うならこう言ってやればいい、大人になったら返すからそれまで我慢して。


 洗面所を出て食卓の方を見ると、翔子がまだ朝ごはんを食べていた。パパは、自分の食器を流しに持っていこうとしている。


「翔子まだ食べてるの? 遅刻しちゃうよ?」


「まだ全然大丈夫じゃねーか。あれだったら先に行ってもいーぞ?」


「そ、外で待ってる!」


 僕は玄関を出て家の門の前で仕方なしに彼女を待ってあげることにした。


 居候のクセになにあの態度。ちょっとパパとママに気に入られているからっていい気になっちゃって。お気に入りになったもん勝ちなんて世の中世知辛すぎるよ絶対。


 そんなことを悶々と考えているといつの間にか10分が経過して、パパが出てきたので物陰に隠れてやり過ごす。庭に停めてある白色のセダンに乗り込み、門の前で見送るママに手を振って出ていった。なんていう車か忘れたけれど、二度とあの車には乗ってやるもんか。それからさらに10分が経過して、ようやく彼女が爪楊枝を銜えながら家から出てきた。僕はその似つかわしくない姿を見て、今朝の夢に出てきた、おじさんになった彼女を思い出して無性に腹が立ち、爪楊枝を奪い取って道路の向こう側に投げ捨ててやった。


「遅い! それと、女の子なんだからいい加減にそういうのやめてよ恥ずかしい!」


「まだ8時じゃねーか。こっからチンタラ歩いてっても10分前には余裕で着くじゃねーか」


 僕は、彼女のとぼけたような顔と物言いにあきれた溜め息をつき、


「昨日の晩、もう限界だから明日の朝早く行って、鈴木くんに出そうなところ教えてもらおうぜって言ったのもう忘れたの?」


「あー、ンなこと言ったっけ? ワリィワリィ。けどよー、今さらジタバタしてももう無駄だと思うぜ? こーいうのはな、日ごろの積み重ねってやつが大切なんだ。授業サボって歌詞なんか考えてっからそーなるんだ」


「それ自分のことだからね。まーいいや、それよりちゃんと歯磨いたの?」


「オメーは俺の保護者か。磨いたに決まってンだろ」


 家の前の町道は、いつもこの時間帯だけ抜け道として使う自動車やバイクに歩行者で混雑を極める。車が来ないのを確認してさっさと反対側に渡り、道を左に折れて、年老いた瓦屋根の神輿収納庫と地元消防団待機所を通り抜けると、膝の高さまでに実った緑色の稲穂広がる田んぼの、小川沿いの細道へと差し掛かる。


 ちなみに僕の好きな神社へ行くには、ここから一本西側の村道で、民家が密集した、車一台がギリギリ通れる幅の道を歩くことになる。実は神社の隣に朝永中学校の西門があるのだけど、特別なとき以外は閉め切られているので、通常、僕らはもちろん教師も外来客もすべて正反対にある東門(正門)を利用することになっている。


 曲がりくねった小川沿いの道を歩きながら、彼女に今朝見た夢の気になってたことを訊いてみることにした。


「君ってさあ、向こうにいたとき、髭とか生やしてた?」


 昨日は雨だったのに晴れたせいかもう路面は乾いている。今はまだ涼しいけれど、日中蒸し暑さが倍増されるのを想像すると早くもうんざりとした気分になる。ここから少し離れた山からセミの合唱が聞こえてきた。


「あ? 向こうって未来の話か。おお、よく知ってンな」


 最悪だ。僕はひょっとして未来を予知できる能力を持っているのかもしれない。


「髪はオメーよりちょっと長めかな。そーだな、向こうに帰ったら久しぶりに髪でも染めて、」


「それだけは絶対にやめて」


「なんでだ?」


「き、君の未来が危なくなっちゃうかもしれないから」


「は? だからなんで」


「内緒。あ、あと、太ってた?」


「いんや、太ってはなかったぜ。あ……わかったゾ。オメーやっぱ今朝へんな夢でも見たンだろ」


「見てないよ! もし見たとしても、パ……父さんと仲良くする君には教えない」


「朝っぱらからなんか様子がおかしーと思ったら、そんなくだらねー夢なんか信じやがって。オメーもまだまだガキだな。……あれ、オメーひょっとして、親父にやきもち焼いてンのか?」


「そんなわけないし!」


「ほんとは仲直りしてークセに」


「違うし、絶対違うし! だって、僕は橋の下で拾われた子だもの!」


 いたって真面目なのに笑われてしまった。同じように通学してる子たちが不思議そうに僕らを見ている。


 それから少し歩き、学校から200メートルほど手前の十字路に差し掛かったところで、後ろから僕らを呼ぶ声が聞こえた。


 玉響だ。


 彼女は、荒い息と汗みずくになりながら走って僕らの前にたどり着くと「お弁当を作ってたの」と呼吸を整えながらそう言って、手に持った桃色の風呂敷に包んだ四段重ねの重箱をうれしそうに見せてくれた。試験で学校は昼までだから終わったらみんなで食べようと言いながら、もじもじする姿はとてもかわいらしかった。もちろん、みんなとは先生もポッキーたちも含めてのことである。


 けれど僕はみんなと顔を合わせたくなったので、それを理由に断ろうとしたら「せっかく四時半起きで作ったのに、食べ終わったらみんなと一緒に試験勉強をやろうと思ってたのに」と、たちまち彼女の瞳に大粒の涙が溜りだした。そこで翔子が「じゃあ翔抜きで食おうぜ」と言いだしたものだから、慌てて承諾することにした。


 どうせ、僕がひとりでお家に帰っても、ママはひとの子だからと言ってお昼ご飯を作ってくれないに決まっている。


 学校までの距離が近づくにつれ、校内を取り囲む背の高い緑色のフェンスと、濡れてこげ茶色になったグランドに景色が移り変わる。学校まであと50メートル。重箱は僕が持ち、玉響と三人、教科書を片手に今日の試験出題予測を話しながら歩く。彼女は賢いだけあって予測が的確ですごく参考になった。それでも頭を捻る翔子が、机を三回叩いたら先生にばれないように答案を左にずらして見せろと言ってきたので、僕はそっぽむき、パパの手先には絶対に見せないと断ってやった。


 校門前に咲いた紫色の朝顔。雨上がりの夏の朝の出来事だった。

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