第六章 観測問題
翔のためにしてやれること
7月12日 月曜日 AM9:10
湿気と緊張感が渦巻いている教室の外は生憎の雨。期末テスト1日目、最初の科目は英語だった。
禿頭にどじょう髭と黒メガネの担任、田中・カール・エルンスト・ルートヴィヒ・
そして10分が経過。
テスト問題よりも、机に刻まれた卑猥な文字の意味が気になる。……W・X・Y。
解るわけがない。
精神的拷問とも思わせる考査科目は九つ。その期間が三日もあるなんて、考えるだけでも恐ろしい。試験勉強を毎日せっせと寡黙にやり遂げるやつの気が知れない。こんなことを考える時点で人生の負け組み確定なのだが、あの頃もっと勉強してればよかったという殊勝な思いは、テスト問題に目を通した時点で霧散した。改めて己の心の弱さを思い知しらされてしまう。
そもそも転校してまだ数日しか経っていない人間に、試験を受けさせるとかどう考えても無理ゲー過ぎると思うのは俺だけだろうか。今日日のギャルゲーですらそんなイベントはない。とはいえ始まってしまったものは仕方がない。やるだけやって帰ったらお袋に八つ当たりでもしよう、と閉め切られていた窓を少し開け、雨音と隙間から入り込むそよ風に心癒されながら、水浸しになったグランドを眺めている。
最低の週末だった。とくに親父と翔がケンカした土曜日は最悪だった。
翔が家を飛び出た後にたどり着く場所は分かっていた。足取りは迷いもなく近所の歳天満宮に向けられ、走って10分もかからないうちに石造りの鳥居に到着した。
荒くなった息と杉の木の新鮮な香りと虫の声。階段を二歩で上がって石畳の参道に足を滑らせる。頭上には杉のフレームに収められた星降る夜空。つっかけの小気味よい音をゆっくりと響かせ、参道の中央で足を止める。
額から流れ落ちてくる大粒の汗。肌にまとわりつくシャツの不快を和らげようとリボンを外して胸ポケットに捻じ込む。夜の清らかな風が火照りきった体を冷やしてくれた。
いない。
てっきり俺は拝殿の階段に座り込んでいるところを想像していたが、どうやら違ったようだ。しかし他に行き場所なんてなかった。そこで視点を切り替え、拝殿に点された灯りを頼りに辺りを徘徊することにした。
いた。
ここだと目立たないとでも思ったのか、拝殿に向かって右隣にある寂れた末社の、両脇に据えられた石灯篭の隙間にすっぽりと腰を下ろしてうずくまっている。
「ハハ、なにもこんな所に座らなくったって。なんかオメーの人生表してるみてーだな」
慰めるつもりだったが、気を遣ってわざわざ末社を選んで座るという構図がどうもシュールで、つい弄ってしまう。
俺の声にぴくりと反応した翔は、膝を抱えた両腕にさらに顔をうずめながらこう言った。
「……それ、どういう意味」
「なんでもねーよ」
窮屈そうだがなんとか二人分の隙間はあるようだ。翔の肩に手を回して隣に座り込む。
「オメーそうしってっと呪音のとしおくんにそっくりだぞ」
「……だれそれ」
「来年辺り一世風靡するホラー映画だ。父親に殺されたちっちぇガキが幽霊みたいな顔してミャーって、」
「だからそういうのやめてってば」
「なんだ、オメ-怖えのダメか?」
「違うってば。……その、未来の話」
「あーなんだそういうことか、ワリィワリィ」
翔が目をこすりながら顔を上げた。おぼこい目と鼻の周りが無残に腫れて真っ赤になっている。少し落ち着いたのか、しゃくりは幾分かましにはなっていた。
「あの、未来の話なんだけど……。翔子も、パパとケンカしたって本当?」
おもいっきり未来の話聞いてンじゃねーか、とつっこむのはやめといた。はじめて親父とケンカしたのが余程ショックだったのだろう。気になって当然だと思う。それに、聞かれずとも俺が話そうと思っていた。
「よく覚えてたな。今日の親父もすごかったが、俺のときはもっとすごかったんだぜ」
「ほんとに?」
「たりめーよ。怒鳴り散らされるわ顔面ひっぱたかれるわお袋は泣きながら止めに入るわで、エレー難儀したんだぜ」
そこで俺は一旦話しを区切り、この話をしてどのように翔を諭してやろうかと考える。今回とは軋轢が生じた内容が違うので、翔が参考にするには不十分だと考えたからだ。
しかしながら、今考えても親父のあの憤りようは度を越えていたと思う。当時のショックは尾を引く内容としては十分過ぎたし、その点においては翔も同じだといえる。今日の事件は親父の言葉足らずが原因だったとはいえ、俺からしてみれば双方に分がある内容だ。なので、親父の肩を持つ言い方をすれば翔の反感を食らうだろうし、かといって、こいつのことを重視し過ぎても問題があるようにも思える。
つまるところ、どう思うかはこいつ次第だが、やはり探りを入れながら親父の気持ちを伝えることにしよう、と心に決め、
「親父もあんな性格だからよ、ケンカのあと一切俺と口を利こうとしなくなっちまって往生したんだよな。オメーそんな日が続くとどうなるか知ってっか? 相手の悪りぃところばっか目につくようになって、それが増幅されて、する事なすこと気に食わなくなって、お互い顔も見たくなくなるっつー悪循環になっちまうンだ。いやだぜ~。俺はそれを14年間。まぁそこは親父もお互い様なんだが、オメーはそんな俺をどう思う。ま、こんなのはよぉ、ほんのちょっと自分が引くだけでそれを回避することができンだよな。中々難しい問題ってのは分かってっけどよ、もしお前が俺と同じ道を辿るとしたら、オメーはそうなっちまってもいいのか?」
翔がピンとこない顔をしているのは当然のことだった。親元を離れ、彼らのありがたみを肌で感じている俺とは、理解度がまるで違うのは当然のことだといえる。
「……それでも、やっぱり僕は許せないよ。何年もしゃべらないことが辛いのは分かるよ。けど、どうしても許せないよ! 最近せっかく色んなことを前向きに考えれるようになってきて、もうちょっとで人前でも弾けるかなって思ってたところなのに。あんな酷いこと言うパパなんて嫌いだ。君ならわかるでしょ? 僕の気持ち」
あんな言い方をされれば誰だってそうなる。俺が冷静でいられるのは、親父が何を言おうとしてるのかが分かるからだ。人生の酸いも甘いもしらない翔が、理解できなくて困るのは当然の話だ。親父がそれを理解してやれないのもまた悲しい話だが。
「わかるさ。けど、親父も色々お前のこと考えてっからあんな風に言ったンだと俺は思うぞ。親父の言葉足らずは今に知ったこっちゃねーだろう」
「か、考えてるならなにもあんな風に言わなくったっていいじゃないか。僕の気持ちを無理やり逆撫でる言い方するなんて父親失格だよ。翔子もなんだかんだ言ってパパの味方だね。期待して損した」
やはりそうなってしまうか。この問題も少し時間をおいて解決をみた方がいいのかもしれない。俺が強引に仲直りさせてもまた同じようにケンカするのは目に見えてる。これは、こいつが自分の力で気づき、解決しなければならない問題なのだ。
時間がないとは言ったが、バンドのこともあるし、8月いっぱいここに残ってじっくり面倒をみてやるしかないのかもしれない。問題はドクがそれを許容してくれるかどうか。とは言うものの、すでに答えは決まっているのだが。
「バカ、オメーにも一理あるが、それは親父も同じだってことだ。オメーにはまだ理解できねえことかもしんねーが、今、俺から言えることはそれだけだ。この困難をどう乗り越えるかはオメー次第。安心しろ、見捨てるこたあしねえ」
「フンどうだか。……そうだ、翔子」
「お、どうした?」
翔がうつむき加減にそう言ってから少し間が空く。翔の表情はここからだと髪に隠れて見えない。
「あの、やっぱり……未来に帰りたいって、思うのかな?」
「ンなもん考えるまでもねえ。帰りてーに決まってンだろ」
「……そっか、そうだよね。未来に帰ってどうするの?」
「まー、やること色々あるけどよ、帰ったらまず親父に土下座してでも許してもらって、それからお袋に謝って、あとみんなにも謝って……俺謝ってばっかだな。てかオメーがそんなこと聞いてどうする?」
「ん、んん。……なんでもない」
「ヘンなやつ」
翔の頭を小突いてやると、先ほどまで泣いていたのが嘘のように思えるくらい、元気そうに反発してきた。表面だけかもしれないが、こうして冗談を交わせるぐらいに戻っただけも今日はよしとすべきだ。俺は腰を上げ尻についた砂埃を払い、
「ホレ靴。とっとと帰って風呂入ってゲームでもしよーぜ。……ん? オメー足から血が出てンじゃねーか! なんで裸足で出てくるかな、ほんっとバカだなオメー」
「いたた……だから僕は君だって言ってるのに」
「しゃーねえなあ。ほれおんぶしてやる。乗れ」
そう言って翔に背を向けて座る。なんだかこうしてると本当の兄弟みたいだ。こういうのも悪くないって思う。ったく世話のやける弟様だ。
「え、これくらい平気だよ、痛っ」
「バカヤロー、無茶して傷にバイキンでも入ったら元も子もねーだろが。ホラさっさと乗れ。あ……オメ-先に言っとくけどよ、どさくさに紛れて乳とか揉んだら承知しねーかンな」
「す、するわけないでしょ! バカ翔子」
そして俺たちは帰路についた。翔の重さにぶつくさ文句を垂れながら、好きなゲームの話をしながら、すっかり暗くなってしまった田舎の住宅街を歩いていく。そういえば今は何時だろう。田んぼの蛙がぎこぎこと鳴いて……
「……ヘイ! ヘイッ! 時生ガール!」
「うわああああああああああああっ」
突然意識に割り込んできた金切り声に飛んで驚いた。
至近距離にある田中の顔。危ない。立ち上がるタイミングが少しでもずれていたら唇を奪われていた。甘ったるいコーヒー臭を漂わせた口の中は粘着質まみれに決まっており、そんなやつに唇を奪われたとこを想像するだけでもゾッとする。
教室中の視線に気まずい笑顔を返しつつ椅子に座る。俺は田中から安全距離を保ちつつ小声でこう言った。
「一体何なんすかセンセー。声デケーっスよ。みんな見てンじゃねっスか」
「オウすまんのー、ッてそれオマエやろが! マーエエ、オマエとっくの昔に試験始まっとんのに何チンタラ船漕いどんネン」
「あ、いや寝てねーッスてば。ちょうどこの問題考えてたとこなんスよ」
「一問も解けてないのにバレバレの嘘こくな。マーエエ、そんなことよりワシなー、オマエに話があんネン」
時計を見ると開始からすでに20分が経過していた。ヤバイ。が、こいつの話って一体なんだろう。口臭がキツイのが気になるが、俺は黙って耳を傾けることにした。
「で、なんスか?」
「オマエの芸名やっとこさ思いついたんや」
「はあ? げ、芸名て」
田中はドヤ顔で丸メガネをクイッと持ち上げながら、
「シャコタン! ドヤ?」
「しゃ、シャコタンてドヤ顔で言われても……せめて俺の名前からしてフツー、ショコタンでしょ。てか芸名て何なんスかいきなり」
「アホ、ショコタンやったら色々とまずいやろが。それに、シャコタンの方がイカツイやろ。これでもワシ、昔大学の頃シャコタンのベンツ乗り回してミュンヘン辺りでブイブイいわしとったんやで」
そう言って、芸名を授けるに至った経緯説明もなされぬまま、田中は自身の武勇伝について一方的に語りはじめる。
クラス連中がこぞって俺たちの会話に衆目している。もはや試験なんてほったらかしの状態で、隣の翔なんか耳に手をかざして聞いているし、廊下側のやつらなんかわざわざ立ち上がって聞こうとしてるし、鳴神がこの隙にとはじめたカンニングに周りが便乗しだしたし、前席の前田なんか答案書くふりして背中で聞いてやがるときた。過去の自慢話を延々と語っている田中の顔は完全に酔っていて、目は遠くを見つめるように細められ、うっとりとした表情はかなりのレベルでキモかった。
ベルリン大学との抗争に明け暮れたこと。ドルトムント、フランクフルト、シュトゥットガルドと連合を組んでどうにかベルリンを手中に収め、ドイツ中の大学を統一させてドイツ連合を結成したこと。栄えある初代特攻隊長に任命されたこと。だがその栄光も長くは続かずやむなし大学卒業と共に解散となったが、連合時代の仲間とは今でも付き合いがある。
まったくもってどうでもいいことばかりだった。最初のうちはみんなも興味津々で耳をダンボにして聞いていたが、途中で飽きてきて、テストを真面目にこなす連中とカンニングする連中に分かれた小競り合いが勃発。バカの翔の答案をバカの鳴神がカンニングするという愚は見るに堪えなかったが、今や、田中の臭い息を我慢している俺のみが、聞きたくもない「俺昔ヤンチャしてたんだぜ」という過去の栄光にしがみつくイタイ話を聞かされるだけとなった。
そこで俺は、やめとけばいいものの、彼の素性の気になる点について質問することにした。
「へー、ミュンヘン大学通ってたんスか。あのマックス・プランクと同じ学校っスね」
そこで田中が驚愕に満ちたりた顔で「ワ、ワレ……マックスプランク知ッとんか!」と両肩をガッシリと掴んできた。
ドイツの物理学者マックス・カール・エルンスト・ルートヴィヒ・プランク。
彼が発見した光の最小単位はプランク定数と名づけられ、物理学における基礎定数の一つとなり、後に、名だたる物理学者たちによって確立された量子力学の基盤を築く事となる。
通称マックス・プランク。
または“量子論の父”とも呼ばれる、まっことやんごとなきお方である。
「そ、それがどーかしたんスか?」
「プップップップランクはワシの、ヒイヒイおじいちゃんヤアッ!」
「どっえええええマジすかあああ!」
再び立ち上がって驚く俺に驚く後ろの席の後藤。脅威過ぎるあまり、我ながらかなりの声量を出してしまった。隣のクラスに聞こえたかもしれない。
「マッマッマジかもヘッタクレもあるかいや。ワシ末っ子なんやけど、兄弟の中でもヒイヒイおじいちゃんの名前受け継いだんワシだけなんやで? 結婚して帰化して田中になってもたから両親ワンワン泣いとったわ。ホンマ婿養子の身はキッツイでー」
両親が涙した理由は他にあると俺は思う。
再び集められたみんなの視線に気まずく手を振って応え、座る。その後、ドクはこのことを知っているのか訊いてみたが「アノ根暗理科教師ワシあんま好きちゃうネン」と言っていた。今度あったら教えてやろう。
兎にも角にもそれがきっかけで田中にますます気に入られ「今度ワシの家遊びにこい。嫁さん紹介したるわ」と言われ、話の引き際を見失ってしまう。
「せ、センセー。あの、もういっすか? そろそろテストに取り掛かンねーとマジでヤバイんで」
「エーとこで話折りよってからにホンマ憎めんやっちゃのうワレ。マーエエわ。ア、そやオマエにエーこと教せーたろ思てたんや」
まだ続くのか。
「いや、もうお腹いっぱいというか……」
「教せーたろかて」
「……あ、はい」
「ワシ正直オマエのこと期待しとんネン。転校初日でイキナリ脱ぎ芸おっぱじめるかと思いきや、ワシのことホッタラカシにしてデブゴリどつき回すし。そんとき思たんや。コイツは10年にひとりの逸材や、天才芸人の卵ちゃうかってな。で、そんときさらに思たんや、コイツを一端の芸人にするんはワシしかおれへん、てな」
芸人になると一言も言ってないのに、勝手に進路を決められようとしている。さらにこんなことまで言い出した。
「ワレ手始めに、このクラスの委員長やってみーひんか?」
俺に何かを教えてくれる話はどうなった。てか話飛んでるし。
「は? しませんよそんなの。鈴木のままでいーじゃねえっスか」
「アカン。あのうらなり瓢箪ワシのこと裏切りよったんヤ。委員長やり始めて2日で芸人ならへん言いよってん。ワシやる前から出来ん言うやつ大ッ嫌いでのう、あんなやつシバキ回して委員長の座から引きずり下ろしたったらエエネン。すぐ音あげよる。オマエさえおったらどないでもなるわ。なあ、アカンか?」
こんなことは口が裂けても言えないが、彼がマックス・プランクの子孫というのがまことに懐疑的である。よしんばそれが本当だとしても、残念な気持ちが否めない。
そこで窓側から三列目、前から二番目の秀才鈴木賢次郎がこちらを向き「いつでも変わってあげるよ翔子くん」と口パクでそう言ってきた。泣いていた。断固拒否した俺に田中は「ワレが委員長やってくれたら朝中で天下取れんネンけどなー」と肩を落とす。何をどうしたいのか。おまけに「ソヤ、今度のサマフェス、ワシとコンビ組んで出場せんか?」とまた突飛なことを言ってきたので、バンドで忙しくなるので絶対無理と断った。
テスト開始から40分が経過。残り10分。本気でヤバイ。
「もうあと10分しかないじゃねーっすか。全然問題解いてねーのに、どうしてくれんすかセンセー!」
「アホ、安心せいシャコタン。ワシの一番弟子に赤点なんか取らせっかいや。今から答え教せーたるわ」
ここで一番弟子の座はお返しすると言えばどうなるのか。
俺は、彼の爆弾発言におののくものの、言い出したら聞かない彼にされるがままの状態で、まず「最初の問題はAや」と記号穴埋め問題からはじまり、多肢選択問題、記述問題、マルバツ問題の回答を言われるがままに記入した。
聖職者にあるまじき行為である。
そして彼は「全部答え合っとったら逆に怪しまれるからな」と言って、渋々ながら教卓へと戻っていった。彼は本当に教師としてセーフなのだろうか、という疑心を抱いてしまう。
この世界で、まったくいらぬ不安を抱える羽目になってしまい、悩みが絶えずに困る俺だった。
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