時空の不文律によって生じた軋轢

 PM7:15


 今日の我が家の食事は親父特製のカレーである。


 なんの連絡もなく、頼みもしない食材を買い込み、頼みもしない女物の服を買い込み、頼みもしない化粧品の類を嬉しそうに買って帰り、いきなり「今日の晩飯は私が作る」と言って作りながら今度は、翔子の嫌いな食べ物はなんなのか、辛いものは好きなのか、ドレッシングは胡麻と醤油どちらがいい。そんなどうでもいいうんざりするようなことを根掘り葉掘り聞かれて心底呆れ果て「勝手にしてください」と居間に避難してテレビを見ているところなのよ、とお袋がぼやいている。


 いい年して俺にやきもちを焼いているのだろうのか。


 あとでお礼に親父の肩でも揉んでやるか、と俺はそのままお袋の隣に寝転がり、彼女と一緒に人気男性アイドルグループのリーダーが司会するクイズ番組を見ながら、カレーが出来上がるのを待つことにした。翔は二階にいるとのことだ。


 あの後のことだが、誰が言うでもなく解散となり、萌も戻ってくる気配がなかったので、そのままドクの手伝いに向かった。


 まず乱雑になった部屋の中を片付けるべく、いる物は整理していらない物は隣の部屋に持っていき作業場所を確保した。するとドクが、時空転送ポッドとなる掃除用具入れが必要だと言い出したので、新校舎北棟の東にある物置小屋の中から使わなくなった用具入れの何台かのうち比較的きれいなものを選んで、二人で汗みずくになりながら運びだした。


「どうにかしたいという意思があれば、きっとそこから抜け出せるはずだよ」


 これが今日の出来事に対してのドクの見解だった。

 本人の意思を尊重し、時間を掛け、焦らず慎重に、理解を得る。干渉は最小限度にとどめるようにと言ってるのにまったく君は、と呆れ笑いされてしまった。


 まったくその通りだと思う。しかし、俺には時間がない。


 いつできるかも分からない時空転移装置。最短で約10日、ドクのことだ、長くかかっても二週間ほどで完成にこぎつけるだろう。俺がこの世界に滞在できる期間は最長でも8月31日。夏休みの宿題と同じで、チンタラ鼻くそでもほじっていたらあっという間に過ぎてしまう。それにドクも俺の身を案じて早く帰れと言ってくるだろうし悠長に構えてはいられない。


 とはいえ、どうしたものか……。


「あ、おかえり翔子」


「お、おお……たでーま」


 翔が二階から下りてきた。昼間の件を引きずっているだろうと内心気が気でなかったが、表情に落ち込んでいる様子は見られなかった。時間を置いて冷静になれたのだろうか。とにかく引きずっていないのならそれに越したことはない。畳に寝そべり頬杖していた俺の隣に座ってTVを見はじめた翔が、なにか言いたそうにしながら俺の横顔をじっと見つめてきた。


「な、なんだよ?」


 翔はなぜか目を泳がせ、顔を真っ赤にしながらこんなことを言ってきた。


「あの……パンツ、見えてる」


 顔が畳に向けて落下した。


 ブッフウウウウってなんで今の今まで黙ってンだコノヤロー! て怒鳴り散らしてやりたいのは山々だが、せっかく直った機嫌を台無しにしかねねー。ここは身を切って我慢しか……。


 俺はあえて股開きになっていた体勢を保持しつつ、畳からむしり取るようにして顔を上げ、


「と、特別にオメーに見せてやってンだ。ど、どうだ、もっと見せてやろ――痛ッテー、なにしやがンだお袋!」


「翔にへんな誘惑しないでって言ってるでしょ。そんな汚いもの早くしまいなさい」


 翔はデレっとした顔で俺を見ていたが、お袋に睨まれ慌てて反対を向いた。


「そうだ翔、今日のことはみんなに説明しといらから、あんま気にすることねーぜ」


「……うん」


「あら、どうかしたの?」


「ハン、お袋にはカンケーねえ男同士の話ってやつヨ、なー翔。は? なんでオメーそんなに顔が赤けンだ」


「な、なんでもないよ!」


 そんな他愛のないやり取りをしている間に親父の料理が出来上がったので、俺たちはカレーの芳醇な匂いのするダイニングへと移動した。


 食卓には、カレーの他にサラダや何種類かのおかずが並べられており、お袋が飾る料理と遜色がないほどの出来栄えだった。気になったのは俺の皿だけが新品で皆の1・5倍になっていたこと。親父はお袋のエプロンをしたまま、食ってみろと大盛りについだカレーをさっそく俺に渡し、口をつけるのを待っている。感想が聞きたいらしいが、そんなに見られるといつものようにがっつけない。少しおとなしめに、それでは、とスプーンの上に山盛りに乗せたカレーを口の中に入れる。


「お、うめえ! やるじゃねーか親父。見直したぞ」


「こ、これも食べなさい」


 親父は喜色満面の笑みを浮かべ、今度は蒸し鳥とプチトマトを上に乗せたサラダを小皿に盛って渡してきた。


 冗談抜きで本当にうまかった。お袋のとは違う味付けだが、辛さがガッツリ利いた男ならではの味。サラダに滴らせた醤油ドレッシングも親父の手作りで、即興でこしらえたとはとても思えないほどあっさりとしていて、サラダはもちろん、カレーや惣菜といった味の濃い料理を食べ終えた口の中を見事に中和させる役割を果たしていた。無我夢中で平らげる俺の姿を眺めながら親父はすごく喜んでいる。そこでお袋と翔が、私たちの分はまだなのかと抗議をはじめたので慌てて二人分をよそい、最後に自分の分をよそって席に座り、みんなで食べはじめた。


 久しぶりとなる親父との会話は弾んだ。料理の話、仕事の話、お袋や翔を巻き込みながらの楽しい会話は、笑顔という大きな花を咲かせてくれた。何十年と見ていなかった親父の笑顔に満足しながら、未来に帰ったら土下座してでも関係を修復しようと心に誓う。親父のコップが空になったのでビールを注ぎ足して、缶の底にほんの少しだけ余ったビールをすすり出そうと口に傾けようとしたところでお袋に止められた。和やかな時が流れている。


 早々に大盛り二杯のカレーを平らげてお袋を驚かせ、隣をみると翔はまだ一杯目の途中だった。


「翔、オメー食うのオセーな。てか明日も昼飯食ったら出るゾ」


「え、明日も? でもテスト勉強しなきゃまずいよ」


 翔はそう言って、おずおずとしながら親父やお袋の様子を窺う。


「は? テストって期末か? そんなのいつあンだよ」


「あさって」


「マジか! 俺そんなの聞いてねえっつーの。お袋、俺も受けなきゃなンねえのかよ?」


「当たり前じゃない。赤点取ったら許しませんからね」 


「いきなり転校させられて試験もへったくれもねえだろが。それに俺にとっちゃ16年ぶりの学校なんだ。なんとかなんねえのかよ。なあ頼むよお袋~」


「ダメです。明日は缶詰で翔と一緒に勉強なさい」


「この血も涙もねえ鬼ババアッ! ……あ、ウソウソ今のナシ。ちゃんとします、ちゃんとします」


 一瞬、お袋の目から冷酷な光が放たれたがなんとか切り抜けることができた。


「あーでもどうすっかなぁ。あいつらとも約束しちまったンだよなー」


「だったらなおさら僕は遠慮しとく」


「まあまあ、そうイキりなさんなって。今日の事はぶっちゃけ悪かったと思ってる。そうだな、今度は練習する風景でも眺めつつ、ちょこーっと触る程度からはじめてだなあ」


「あら、また翔子にイジメられたりしたの?」


「なッ、ンなワケねーだろバッ……あ、いや、お母様。サマフェスの件でちょっとよ」


 そこで親父が珍しくそのことについて言及してきた。


「翔が、どうかしたのか?」


「いやべつに大したことねンだけどよ、翔が去年、担任の先公にヒデーこと言われて、それがショックで人前でギター弾けなくなっちまって困ってンだ」


 俺は事のついでだと思い、軽い気持ちで親父に相談を持ちかけた。


 担任に夢をバカにされたこと、それがショックでトラウマになり、人前でギターが弾けなくなったこと。この先に待ち受けている未来のことは口に出さなかったが、思い出せる限り洗いざらいのことを話した。


「もーッ、余計なこと言わないでよ!」


 すると親父は、短くため息をつき、今、もっとも言ってはならないことを、口にした。


「なんだ、そんなことか……」


「え……」


 翔の表情が、まるで余命宣告をされた病人のようにみるみるうちに青ざめていく。


「それで、最近家で練習しなくなっていたのか、翔」


 親父の意図は読めないが、今の翔にとってその言葉はあまりにも辛辣すぎる。


「ちょ親父。いくらなんでもそりゃ言い方がキツいンじゃ……」


「なんて言ったの? よく聞こえなかったよ、パパもう一度言ってよ」


 翔の目は色を失い、おぼつかなく揺れていた。親父は食べるのをやめ、ため息混じりにこう言った。


「くだらない、と言ってるんだ」


「……くだらない?」


 一家団欒の花が咲いていた我が家の食卓は、親父の手厳しい言葉と急降下した翔の落ち込み具合に、見る影もなく散ってしまった。


「親父、落ち着けって。あ、わかった。仕事疲れの体で無理して飯作ったから酔いが回ってンだろ。しゃーねえなあ、あとで肩揉んでやっからとっとと風呂でも入ってこいよ。あ、なんなら俺と一緒に、」


「そんなことで悩むなら、ギターなんぞやめてもっと勉強に励みなさい」


 俺の忠告は親父の耳をかすめるだけで何の効力も発揮しなかった。下を向き、打ち震えることに耐えていた翔が、その言葉を耳にした途端に跳ね返るように面を上げ、両手を机に叩きつけて立ち上がる。


 翔の表情は惨憺極まりたるもので、引き結ばれた口は波打ち、視力が失われた目には今にもこぼれ落ちんばかりの涙が溜っている。


「そんなことって。それができないから困ってるのに……。なんでパパにそんな風に言われなきゃいけないの!」

 

 今の翔にとって、激昂するのに十分過ぎる言葉だ。柔和だった親父の顔も、今では180度変貌を遂げ、理解し難いものでも見るような目つきで翔を見据えている。二人とも一歩も譲らない雰囲気を醸し出している。


 そこでお袋が、自分の過ちを謝罪するかのような表情で割って入る。


「翔、お父さんが言いたいのはね、どんな辛いことでも一度は受け止めて、」


「ママは黙っててよ」


「お袋にそんな言い方はねーだろ。てか親父も言いすぎなンだっつーの。コイツの悩みはもっとこう……あーもう、とにかくもっと翔の立場ってものを考えてやれよ。オイ翔、さっき親父が言ったことを額面どおりに受け取ンな、お袋の言うとおり――」


「翔子もちょっと黙ってよッ!」


 あの日と同じだ。


 名前は度忘れしたが中三のときの女担任に、君の成績ではそこしかないと断言され、誰でも受かる名ばかりの試験に合格して通うことになった高校。私立小久保高等学校。そこで悪さを覚えて不良に染まり、親父と大喧嘩してしまう。


 己の未熟さゆえ、親父の真意を汲み取ることができずに最悪の事態を招いてしまったあの事件。俺のときとは異なるケースとはいえ、親父の憤激ぶりからしてもまさに同じ状況だといえる。


 けどなぜ、俺の過去にもなかったことが起こるのか……。

 そうか、異分子が過去に干渉することで生じる時空の不文律タイムパラドックス。僅かに違った世界でもそれが起こるというのならば、翔だけではなく、アイツラの運命も変えてしまうことに………


「周りからみたらくだらないことかもしれない。けど僕は、そんなくだらないことで一年間も悩まされ続けた! 悩んでも悩んでも全然割り切れなかったことを「そんなこと」の一言で済ますなんて酷いよ! それが父親の言うことなのッ?」


 翔の目蓋がとうとう決壊し、無色純心な涙が滂沱として流れ落ちる。


 せめてもの抵抗なのか、翔は涙を拭わず視力の失われた目でがんとして親父を睨みつけている。それを受けた親父は険しい表情で、翔の意地を真っ向から受け止めていた。


 ――まずい、親父が切れる。


 親父が冷静になるよう努めているのが分かる。実の息子に正論で踏みにじられた父親としての誇りを極限すれすれのところで維持させて、親としての体裁を保とうとしている。


 親父は呼吸を整えたあと、冷たく厳格にこう言った。


「翔、それは親に向かっていう言葉じゃない。謝りなさい」


「な、なんで僕が謝らないといけないの? 謝るのはパパのほうでしょ!?」


「いい加減にしないと、父さんも我慢の限界というものがある」


 お袋と必死になって二人を宥める。


「翔。とりあえず謝ろ、な。とりあえずでいいんだ、な」


「あなたも少し言い過ぎよ。もう少し冷静になって、」


 翔の涙が、カレーや食卓や床の上にぽたぽたとこぼれ落ちる。もはや俺やお袋の言葉など両者の耳には完璧に入っていなかった。嗚咽をもらし、しゃくりあげ、喉を詰まらせながらも翔は必死になって訴えようとした。


「ぼ、僕にだって、あるさ! パパがこんな、分からず屋の頑固親父だって、知らなかった」


「…………」


「親なら、息子の悩みくら、わかって、くれても、いいでしょ。パパのバカアッ!!」


 その瞬間、親父がぶち切れ、全力を込めた片腕を食卓に叩きつけ、翔が椅子を跳ね飛ばして部屋を出た。玄関の扉が激しい音を立てて閉じられたことによって俺の硬直が解けた。親父のカレー皿は無残に砕け散っており、お袋が「アナタ!」と悲鳴を上げ、カレーと米と血が混ざり合った親父の腕をかき抱くようにつかんで、その場にあった布巾で傷口を押さえる。


 迷っている暇などなかった。俺は即刻に立ち上がり、


「翔子どこ行く気なの!」


「お袋! 親父のことは頼んだ。翔のことは俺に任せろ!」


 俺が干渉することによって変わる、この世界の未来。


 元々こうなるはずだったのかもしれないが、それは不確定な問題。量子力学における不確定性原理は、人の、世界の、宇宙の、この世に物質として存在するすべてのものの未来をさす原理ともいえるのではないだろうか。

 かといって、こうなってしまったのは間違いなく俺のせいだ。ドクの忠告を聞いていればこんなことには……いや違う。これが己を信じて得た結果というのなら、絶対に目を背けてはならない。


 裸足のまま家を出た翔の靴を拾い上げ、お袋のつっかけを履いて追いかけようとした、とその時、


「グ……ッ。なんだ、なんでこんなときにッ」


 こめかみを抉り取られるような頭痛の急襲に、思わず片膝をついてしゃがみこむ。ブレる視界の中、その先に見えたのは、


「な、どういうことだ? 今一瞬、手が消えて……ッ」


 翔の靴は物質としての形態を保持していたが、それを持つ手が一瞬だけ透けて見えた。反対の手で触って確かめるが、もうなんともない。


“未知なる事象においてのエントロピー増大は深刻な問題で、この世界、もしくは君自身に何らかの影響が起こるかもしれない”


「まさかこの世界が、異分子である俺を消し去ろうとして……クッ、とにかく今は考えるな。今は翔を追いかけるのが先決だ!」


 痛みを堪えて立ち上がり、翔を追って玄関を出た。

 この世界と、未来の世界に抱く不安を置き去りにして、もうひとりの自分の背中を見失わぬよう、つっかけの甲高い音を響かせながら、有明の月照らす夜の住宅街を切り裂いていった。

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