第五章 不確定性原理

仲間との再会

 7月10日 土曜日 PM12:30


「いーか、この地球を照らしつけてるお日さんの光だって量子の仲間なんだぞ。てかほんとにアッチーなァおい」


 コーヒー味のパペコを口にくわえ、汗でしっとりと濡れた額を右手で扇ぎながら翔子がそう言った。


 僕の意思をまったく無視した速度で推し進められていく量子力学の教示は、昨日の夜からずっとこんな感じで続いており、真夏の体感温度を上げるのに一役買っていた。こういうのをありがた迷惑という。


 先ほどコンビニへ寄ったときのエピソード。


 先生の差し入れを買うために、レジにおにぎりとお茶を持ち寄ったところ、翔子が嬉しそうに「アイツも溜まってるだろ」と言って、彼女似の女性が全裸にガーターベルトといったいやらしい格好で表紙を飾る雑誌を買い物かごに捻じ込んできた。当然のごとく店員に止められ、翔子はふてくされながら今度はクールというメンソールの煙草を彼に申し付けるが、案の定それも却下された直後、彼女の怒りが爆発した。


 いちバイトとして条例に従った行動をとるのは当たり前のことだし、まじめなメガネ店員佐々木くん推定年齢16才(名札を見た)にまったくもって悪気はない。それなのに翔子ときたら「俺を何歳だと思ってやがる!」と自分の身なり(制服姿)もそっちのけで、逆恨みも甚だしく彼の胸倉を掴んで殴りかかろうとしたところで慌てて止めに入り、代金を支払って気が治まらない彼女を引きずりながら店を出た、という事件があった。


 近くにあるコンビニはあそこだけなのに、もう二度とあそこに行けないと思うと頭痛がする。そんなひと騒動があっての今、翔子の身勝手さに呆れつつものらりくらりと量子力学の話をしながら、民家の間を縫うように伸びる坂道を下り、学校へと向かっている。


 うだる暑さの中、町道の先に見える逃げ水をぼんやりと眺めながら聞いていた光の量子性。せっかく機嫌を良くした彼女に忍びない気もして、質問をしてみることにした。


「光が量子って……波じゃなかったの?」


「オオッ! オメーにしてはまともな質問じゃねーか。コリャー俺の教えがキいてきた証拠だな……翔子だけに。て違うか」


 翔子の外見はたしかに美少女だけど、中身は完全におっさんだ。本人に言ったら殺されるので言わないけれど、ギャグセンスがアレだし、ウケてると勘違いして得意げになってるところがおっさんそのものである。


 ――まぁ、そこがカワイかったりするんだけどね。うわあッ、僕なに言ってんだろう。最近なんか感覚がおかしくなってきた気が。


 翔子はおどけてみせたあと、パペコをひとくち頬張り、かぐわしい匂いが嗅ぎとれるくらいの距離に顔を近づけてこう言った。


「今からおよそ100年前。当時ひかりは波とされてたンだが、かの有名なアインシュタインが光の量子性を証明する光電効果っつーのを唱えちまったモンだから、波だ、いや粒だ、つって業界はニュートン以来てんやわんやの大騒ぎ。量子力学が大きく発展を遂げるきっかけとなった、ブッとんだ仮説を世に知ら示したってなワケヨ」


 いい匂いがした。僕と同じシャンプー使ってるのになんでこうも違うのか。


「光がつねに真っ直ぐ進むという直進性。鏡などで反射する性質。あと、影がクッキリ映るのは、光の粒子が物体に綺麗に遮られるから起こるンだぞ」


 濡れたくちびるが妙に色っぽい。


「ま、一般的には波と言い切っても問題ねーし間違いではねえ。ただし、ミクロの世界になると話は別なンだなこれが。……オイ、どこ見てンだ。ちゃんと聞いてっか?」


「ほへ? き、聞いてるよ! へえー、波が粒だとかいまいちわかんな……あ、粒々オレンジみたいってこと?」


 僕の答えに翔子が口から粒子を飛ばして笑った。彼女は「わりぃツバ飛んじまった」と言って口元を拭いながら、唾液のついた僕の顔を乱暴にこする。


 ――く、口に翔子の粒子が……これって間接キスになるのでは。


 おかしい。翔子が来てから僕の感覚がだんだんとおかしくなっている。舞い上がるこの気持ちは夏休み前の高揚のせいではなく、ふとした時に感じる彼女の色香のせい……いや、違う。普段女の子とこんな距離で話すことがないから少し緊張しただけだ。それに僕には玉響がいる。けど、玉響でもこんなにときめいた事……


「うめーこと言うじゃねーか。ま、たしかに一理あるがちょっと違う。けど、もし誰かに「光ってなんなの?」って聞かれたらこう言ってやりゃいい「光は波動性をもった粒である」ってな。お、そうだ萌に言ってやれよ。そんなこと言った日にゃアイツ一発でオメーに惚れンぞ。俺が保証してやる。てオイ、なんなんださっきから。今日のオメーちょっとおかしいぞ。熱でもあンのか?」


 と翔子が額と額をつけようとしてきたので慌てて距離をとり、


「熱なんかないよ! ていうか玉響とそんな話しないし、そんなので惚れるわけないじゃないか」


 二人でそんなやり取りをしていたらいつの間にか学校にたどり着いていた。


 正門を抜け、仰々しい校是が書かれた石碑と、観葉樹にとまったアブラゼミの猛烈な歓迎に辟易しながら、昇降口を横切りグランドに差し掛かったところ、顔見知りの男子三人組が前から歩いてきた。


 休みの日に学校にいるって事は十中八九サマフェスの練習で来ている。意識的に避けているせいか、めちゃくちゃ気まずい。


 お互いの事をよく知りつくした旧知の友。小四の頃に結成したバンドメンバーたちとの久々のご対面である。


「あ、ブラックヘッド」


「ぽ、ポッキー。……それにみんな。久しぶり」


 僕をあだ名で呼んだのは、背が高く今にもポッキと折れそうな体型からついたあだ名を持つ男。本名は鈴木力男りきおだ。

 髪をスプレーで逆立てるのと、夜店で買った出目金にエサをやるのが日課の彼の性格は、ツンツンしているけど根はやさしくて頼りがいがあり、バンド運営をキチンとこなしてくれるシッカリ者である。楽器はベースを担当。


 僕が、挨拶も程々にして足早に去ろうとしたら、翔子が僕の前に躍り出て、


「よー名前と真逆男ポキポキポッキー! 久しぶッ――」


 仲間内ではその事には触れないという暗黙の了解があるのにも関わらず、彼女がお構いなしに爆弾を投下しかけたので咄嗟に背後から口を押さえた。そして小声で、


「こら~ッ。それが禁句なのは未来の君なら知ってるでしょ!」


「はあ? 別にいいだろこンくらい」


「よくないの! それに今は女の子なんだからもっと慎みってものを、」


「わーかったわかった、ほんっとメンドクセーやつだなオメーは」


 他のメンバーがいるのもお構いなしに言い合っていると、丸々と太ったもうひとりメンバーが、メロイックサインを僕に向けてこう言った。


「ビバ、ブラックヘッド」


「あ、ビバトゥ……タマゴッチ」


 僕らが交わした挨拶は仲間内だけのサインで、海外のデスメタル系のバンドがやってるのを見てカッコよかったからはじめたのが切っ掛けだ。


 そんな彼の名前は佐藤ふとしと言って、読んで字の如くかなり肥え太っており、昔流行ったナマタマゴッチと体型が似ているという単純な理由でそう呼ばれている。人懐っこく垂れ目で坊主頭の彼の楽器担当はドラム。ハードロック系の曲が好きだとは想像し難い癒し系である。


 そこで翔子はタマゴッチに標的を変え、彼のお腹を無遠慮にムニムニと弄りはじめ、


「やいタマゴッチ、久しぶりじゃねーか。てかオメーまた太ったンじゃねーのか? もっと野菜食え野菜」


「えへ、野菜も同じくらい食べるよ。てゆーか女の子にお腹触られるのはじめてだ。気持ちいい~」


 そこにポッキーが寄ってきて、


「なぁブラックヘッド。なんでこの子が俺たちのこと知ってんだよ。お前なんか言ったの? てかなんでお前女子といるの」


「いやまぁ……元々知ってるというか、なんというか……」


 僕が説明に困っていると、翔子が僕らの間に割り込んで図々しく肩に寄っかかり、


「俺をそっちのけで内緒話したァどーいう了見でィ――うおっと」


 彼女のあまりの馴れ馴れしさに、普段女子と面識がないポッキーは驚愕の声を上げて後ずさる。けれどすぐに落ち着きを取り戻し、なぜか真顔になって僕にこう言ってきた。


「翔、お前サマフェスどうするんだよ」


 サマーフェスティバル1999IN朝永中学。


 夏休み入って最初の日曜日。朝永市の名物とも云われるそのお祭りは、各種様々な催し物が地元有志と学生たちによって執り行われ、各地方々から大勢の客で賑わいをみせる盆踊り大会のことである。


 催し物の中でもバンド演奏は、祭りの最後に打ち上げられる花火と一二を争う盛況ぶりで、三年生を除く学年で一組ずつ、計2組のバンドが出場できるようになっている。


 その出場の有無を、僕は考えるふりをして先延ばしにしている。


「今日も練習がてらどうするか話し合ってたところだ。みんな心配してんだからいつまでもブーたれてないで早く戻ってこいよ!」


 とは言うものの、僕の中では出ないと決めている。熱心に説得を試みる仲間の気持を無下にするのはしのびないけれど、心の整理なんてこれっぽっちもついてないし、何より人前で弾ける状態ではない。あんな事さえなければ絶対に出場していたのに。おかげで、僕たちの仲も次第に薄れつつある。


「別にブーたれてなんか。き、君たちにはわかんないんだよ……」


 何度こう言ったことか。人前で弾こうとすると震えが止まらなくなってからもうすぐ一年が経過する。ひょっとして僕はこれから先もずっとそうなのだろうか。


 僕が言葉に詰まっていると、翔子がわざとらしくおどけながらもう一人を探すふりをしだした。


「オイそーいや栗ボーのやつ見かけねーな。みんな知らなねーか? ったくアイツどこに隠れてやがんだ。栗ボー出てこーい」


「くっ、貴様の目は節穴か!」


 彼はずっとここにいた。極端に背が小さいのをからかうつもりで翔子がわざとそう言ったのだ。


 彼の名前は山田京介。頭の形が栗の形に似てるので、みんなからは栗ボーと呼ばれている。チビで生意気でダミ声だけれど、歌いだすと美声に変わるヘンな声帯の持ち主だ。時折変なことを言ってはみんなを凍えさすバンドのムードメーカーでもある彼の担当ボーカル。


「ぶわははッ、知ってるっつーの! 相変わらずちっちぇーなオメー」


「フン、無礼な女め。俺様の背丈は暫定的に少し低いだけで、あと一年もすればこいつら凡愚共の身長を遥かに超える予定だ。って貴様は一体何者だ!」


 僕は彼らの疑問に応えるべく改めて彼女を従姉弟として紹介した。しかしポッキーは心ここにあらずといった様子で、周りの会話を断ち切り、


「一年が辞退した。ドラムの宇賀神が骨折で入院したのが理由だ。メンバーが揃わないって点ではこっちも同じだが、お前、知ってたか?」


「……知ってる」


「なッ、お前知っといてそれはねえだろ!」


「だ、だって」


「だってもクソもねえ!」


 ポッキーの一喝で、穏やかだった雰囲気が一気に殺伐とした雰囲気に切り替わる。


「祭りで一番盛り上がる出し物だってのはお前も知っての通りだろ。それにこれは朝中だけに許された伝統だ、去年あれだけ観客を沸かしといて出ねえとなればブーイングもんだし、俺たちがでねえと今年はライブ自体がなくなっちまうんだぜ? ただでさえ毎年南部中のやつらが出演させろってうるさいのに、そんなことしたら、絶対あいつら出るって言い出すに決まってんだ! うちの教師がそれを受けたところ想像してみろよ……チッ、考えたくもねえ、俺たちの代で朝中の名折ることなんてできっかよ!」


 彼の言ったとおり、バンド演奏は朝永中学だけに許された伝統的な出し物だ。それを自分たちの代で空白を空けることは、メンツを気にする彼にとって最も許しがたい行為となる。


「先生や周りのやつらだってこの時期ばかりは俺たちに期待してくれてるってのに、楽器しか取り柄のない俺たちが唯一脚光を浴びるチャンスをお前は棒に振る気かよ? たとえようのないあの感動を忘れちまったとでも言うのかよ!」


 熱帯夜に昼間の太陽のごとく照りつける無数のスポットライトが煌めく幻想的な舞台。使い古しのエフェクターボードやシールドに躓かないように気をつけ、汗まみれになった指からつま弾き出されるサウンドは、夏の夜の耳障りな虫の声と蒸し暑さをかき消し、校庭にびっしり埋め尽くされた観客を熱狂の渦に巻き込んでいく。期待に応えようと調子に乗って刻みつけるエモーショナルビート。観客と共に歌詞を口ずさむあの一体感。これまでの研鑽を積み重ねてきた手応えを感じる最高の瞬間。


 忘れられるわけがない。


 本当はもう一度……いや、何度だってステージに立ちたい。出ないと決めているけれど、心にいつも引っ掛かるのは、目を閉じても思い起こせるほどの光景に胸を焦がされるからだ。答えは出てるはずなのに、当時の担任粕谷明精神年齢14才が言ったあの言葉のせいで、いまだ心を解き放つことができないでいる。とはいえ、仲間の後押しを袖にしてまで拒む理由は、果たして本当にそれだけなのか。


 ――いや、それだけではない。


 ほおって置いても背中を押してくれる仲間の説得を拒み続けることで、いつの間にか引っ込みがつかなくなってしまったのも、理由のひとつかもしれない。


 ――自覚していることなのに、なんて僕はバカなんだろう……


 ポッキーは語気を落とし、


「それでもお前が出ないって言うなら……、一年のギターをコンバートして迎え入れるつもりだ」


 体温を根こそぎ奪いとられるような悪寒が背中を走り抜ける。


「本当はそんな事したくねえ。けど、俺たちにとってこれが最後の祭りなんだ」


 言われるまでもなかった。


 しかし彼の言い方だと、まるで僕らの友情もそこで終わってしまうかのように聞こえる。ひょっとしてウジウジ考えてる僕に嫌気が差したのだろうか。


「あの夢を、お前は嘘にでもする気なのか?」


 色褪せた写真のようなぼんやりとした僕らの、幼い頃にはまったミュージシャンをきっかけにはじめた音楽で、この先もやっていこうと誓いあった僕らの、夢。


 まだスタートラインすら立てていないのに、僕はこのまま嘘にしてしまうのだろうか。彼らは僕を待っている。だのになんで僕はトラウマを乗り越えようとしないのだろう。僕一人の問題が、いつの間にかバンド全体の問題にまで発展してしまった。このままだと僕個人のわがままで、バンド自体を消滅させてしまうかもしれない。


 ――けど……。けどってなんだ。


「栗ボーもなんか言ってやれよ。なんやかんや言ってお前が一番心配してんだから」


 今までこんなに責められたことはなかった。サマフェス開催の日も迫ってきたし、事実上、これが最後通告なのかもしれない。


「フッ、案じてなどいない。ただ、翔が帰ってくるまでの間、俺様がギターを……」


「ぶわははッ、コードもろくに押さえらンねーヤツがゆー言葉かよ」


 翔子が大声で笑いながら僕たちの間に割り込んでくる。


「貴様、女の分際で馴れ馴れしいぞ! 痛っ、き、貴様殴りやがったな!」


「オウ、それが人生の先輩に対する言葉かヨ、あー?」


 栗ボーが翔子にゲンコツを入れられ凄まれる。正直、話題が逸れたことにほっとした。


「栗ボー気の毒だけど、人生の先輩ってある意味本当だし、彼女に逆らうとあとで酷い目に遭うから止めといたほうがいいよ」


「へ、まぁそーいうこった」


 翔子はそう言って、差し入れの入ったコンビニ袋を僕に渡し、


「翔、オメーちょっと先にドクの所に行ってろよ」


「え、君はどうするの?」


「俺は今からコイツラに用事があンだよ。な」


 と、彼らに同意を求めるが、彼らは一様にして無言でかぶりを振っている。


「ま、まさかシメるとかじゃないよね?」


「ダチにンなことしねーっての。オラさっさと行けよ」


 翔子は粗暴な子だけど嘘をつくような子ではなかった。僕は怯えているみんなを安心させ、黄金色のグランドを後にした。

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