未来を標す方程式
PM7:40
あれから片付けとかでだいぶ遅くなったが、ようやく帰路につくことができた。翔と共に、血を求めて寄ってくる蚊にうんざりしながら、藍色に染まる田舎道を歩いていく。
あの球体に無理やり連れてこられたのが癪で、ついあのように見栄を切ってしまったが、冷静になって考えてみると、実際俺がここに来た意味とは一体なんだろう。
――後悔しても納得のいく選択をする? 生き方を示してやる?
自信ありげに言ってはみたが、正直どれも違う気がする。どうも説得力に欠けているような気がしてならない。
本来は、同じ時間軸上の過去に戻って人生をもう一度やり直す、というのが俺の願いであり、似てはいるけれど別世界の過去にたどり着いた時点でその意義は失われてしまった。存在意義にこだわる理由は正にそこで、他人ではなく自分のためになって返ってくるものでなければ、自らの意思で選択してこの世界に来たという意味は繋がらない。極論を言えば、選択の岐路に立ったあのとき、舌を噛んで死ぬ、という選択肢も俺の中にはあったのだ。
――しかし、なぜ、
そしてまたふりだしに戻る。思考がその先に及ぼうとしない。なんだか面倒くさくなってきた。いっそこのまま未来に帰っても何ら問題ないのではないか。いや、むしろそうしたほうがいいのかもしれない。この世界で余計な面倒を起こさずに済むし、なんといっても気が楽だ。ドクもそれを推奨している。
――よし、いっちょドクに言って、やっぱなかったことにしてくれって頼むか! ってダメだダメだ。何も解決しないまま未来に帰ってどうする。それをよしとしないから俺は悩んでるのだろうが。
隣を歩く翔の視線が気になりはじめる。
――もっとよく考えろ。過去に戻るとか時空を超えるとか普通に考えてありえない。が、事実俺はそのような通常ありえない過程を経由してここにいる。約70億いる人類の中でなんで俺だけ……
「そうか、俺は神に選ばれて……!」
急にがばっと顔を上げたので、翔が情けない声を出して驚いた。
再び黙考を再開する。
――フフなるほど、ついに神も俺を認めやがったか。
「痛って」
額に昆虫がぶつかってきた。硬さ的にカナブン的な何かだ。左を見ると小さな公園があり、電灯にわらわらと羽虫が飛び交っている。どうやらあそこから飛んで来たようだが、あらゆる物質は引き寄せ合う力を持っているというあれが原因かもしれない。髪に引っ付いてたら嫌なので手櫛でガサガサとやっていたときに、
――ッ!
「……ひ、閃いた」
もうこれ以上出せない、というところまで絞り出した言葉とある数式が融合する。
残りの人生…… 〝エネルギー〟 ……イコール
これまでの人生…… 〝質量〟 ……かけることの、
今を全力で生きるから…… 〝光速〟 ……の二乗。
「これだああああああああ!」
と星の見えはじめた空に向かって叫んだ。どこかの民家で皿が割れる音が聞こえてきた。
「ヤベェ、大発見だ。あの天才ですら気づかなかった数式の真の意味を、ものの数分で解明してしまった。ククク……、おい喜べ翔! 俺はあの天才を凌駕してしまった! これまでの人生をかけ、立ち止まり過去を振り返りながらも前を向いて現在を生き未来へと進む。ちげぇねー、絶対これだッ! これこそが俺が求めていた未来を標す方程式。そうか、神はこの数式の持つ真の意味 に気づかせようとわざわざ俺をこの世界に遣わせて。ククク、ふはははははは――」
「ねえっ!」
翔が突然、表情を険しくして俺の演説を遮断してきた。
「なに怒ってンだよ、今までしゃべンなかったから寂しくなったってのか?」
「違うって、ホラ」
翔が指差す方へ顔を向けると、民家の窓から髪にスポンジカーラーを巻きつけたおばさんが、鬱陶しそうな目つきで俺を見ていた。表札は黒岩。この地域に割りと多い名である。
「あ、あの……すみま、」
ピシャン。
おばさんは俺に謝罪の余地も与えず窓を閉め切り、暖光色の向こう側へと消えていく。
翔が、怒られたと俺を茶化したあと、こんな事を言ってきた。
「今日、先生と話してた量子力学って、どんな学問なの?」
「あーなんつっか……オメー、ダニとか見たことねーだろ。てか見えねーだろ? 量子力学ってのは、そのダニの視界ですら見ることのできねー物質の最小単位の学問だ。ま、これ以上はおつむの足ンねえオメーに言っても無理だからやめとけ」
気を悪くすると思いきや、翔は下を向き、
「そ、それでも、教えてほしいんだけど……」
「いや実を言うとな、俺もそんな詳しくねンだ。つーか俺よりもドクに教えてもらったほうがオメーにとっても、」
「あ、あの! 僕は、しょ、しょ……」
「はあ? しょの次はなんだよ」
「違っ、あの……僕は翔子に教えてほしいんだ!」
暗がりの中に響き渡る翔の声に反応して、民家のあかりがぽつぽつと灯りだし、どこかの犬が遠吠えをはじめる。気がつけば、辺りはすっかり闇色に染められていた。
「バカ、声がでけンだよ! て、ナニ赤くなってンだオメー」
「うわあっ、あ、赤くなってなんかないよ!」
翔が、装いを正すようにワタワタとしながら、
「へ、ヘンな意味じゃないから勘違いしないで。その……先生だと専門用語が多いし、翔子だったら、僕が理解できそうに噛み砕いて教えてくれるかなって……別に翔子だから特別だとかそんなんじゃないんだから!」
「でーたー、そういうの未来でツンデレって言うんだぞ」
「は? やめてよそういうの」
とにかくアレだ。せっかくこのバカが興味を持って勉強したいと言ってきたのだ。ここで突き返せば二度と勉強しなくなるのはこの俺が一番よく知っている。だが、いきなり量子力学は難易度が高すぎる。俺なんかは最初、量子とは波と粒の重ね合わせの状態だとドクに説明されたとき、頭が混乱して理解するまでに二週間くらいかかった。それをどのように教えてやるかが問題なわけで……
――翔を導くまで俺は帰れない。
自分で言った言葉を思い出す。
そうだ、俺のようにならないよう、翔を導いてやるのが俺の使命だ。教える前からこんな弱気では、翔だって不安になる。ここは俺がシッカリして、翔の未来を俺の何倍も輝くものにしてやらなければならない。
それが、俺がこの世界に来た意味のひとつ。結果的に自分のためになるはずだ。そう信じて、今を生きる。それが、輝く未来にするための神の数式“E=mc2”の真の意味を知る者の、存在意義なのである。
「フハハ、やはり俺は真の天才。アインシュタインなんて屁でもねえ」
「わ、また壊れた。気持ちわるー」
「ウルセー! フン、とにかくオメーの望み通り物理学と人生についてのイロハってやつを教えてやる。だから、たった今から俺のことを師匠と呼べ。わかったな?」
「余計なこと付け足さないでよ、量子力学のことだけでいいよ」
「ダァメだ。オメーには俺と同じ
「ヤダッ! 僕を翔子みたいな不良少女にさせよう、たってそうはいかないんだから!」
「ブッフウウウウウッて何度も俺を女扱いしやがってぇ! 減らず口叩いてっと三途の川犬掻きで渡らせっゾ」
「ベーだ。やれるもんならやってみれば。お家に着いたらママにイジメられたって言いつけてやる」
「はーッ? ババァはカンケーねえだろ! つかママって言うなって何度言えばわかンだッ」
「あ、ババァって言った。帰ってママに言ってやろっと」
翔が笑いながら走り出す。
「コラ逃げンな、待ちやがれーッ!」
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