俺がここに存在する意義
「どうかな? 今そのモニターに映っているのが、量子化されたシュレの毛だよ」
高周波レーザー発生装置、ビームスプリッター、光子検出器、PPKTP結晶、ミラー、レンズ、干渉計、共振器、磁気光学トラップといった何種類もの装置を所狭しと並べた古い卓球台のかたわらで、先生が調整盤を操作しながら緑色のモニターを指したときの一言。
画面には白い羽虫のように猫の毛を細分化した気持ち悪い粒子たちが飛び交っている。
「この状態だとまだド・ブロイ波長が一定していないから、20ミリケルビンまで温度を下げて……と」
先生が次に操作をはじめたのは、家電製品の面影がわずかに残っている二層式の古ぼけた冷蔵庫で、レーザー光で原子核の周りを周回する電子を励起させ、原子を冷却できるように先生が改造を施した逸品だ。
中の様子は、ペアになった粒子が冷蔵庫の中で別々に分けられていて、一方の温度を摂氏マイナス273度まで温度を下げて粒子の運動を止めるのだ、と先生が教えてくれた。もちろん意味はまったく理解できない。そこで今度は、別のモニター画面に黄緑青の色層に分けられた山のような形をした画像が映りはじめたので、聞いてみる。
「先生、なんかこっちの画面に山ができたよ? ひょっとしてシュレ毛ん子が変形しちゃったっとか……痛っ」
「せんせーこれひょっとしてシュレ原子ですかーてクッッソクッダラネエ。ガキの遊びじゃねーつってンだろーが!」
僕の頭を容赦なく小突き中指を立てて睨む口さがない黒髪の美少女。
美少女らしからぬ横暴なその態度に、いつかやり返してやると誓いを立てながら頭をさすっていると、先生が耐レーザー用のゴーグルを外して山の画像について解説を加えた。
「これはボースアインシュタイン凝縮といってね、粒子の運動が冷却作用で弱まり波形をかたどる量子現象のひとつで、粒子の波動性を示す証拠なんだ。翔くんにはまだ早いかな」
「そ、そんなことないよ。僕もようやく理解しはじめたところなんだ」
「オメーのその二枚舌を引っこ抜いてゼットのエサにでもしてやるか」
「ウソじゃないもん!」
「うそつけッ!」
せめて彼女の容姿が不細工だったら僕も容赦しないのに。と小声でそんなことを呟きながら再び画面を見ると、いつの間にかもう一方の原子たちも同じ形をとっていることに気づいた。
これは量子現象の特徴的効果、いわゆるエンタングルメントの作用で、一方の粒子の状態を観測することによってもう一方の粒子の状態が決まる現象だ、と今度は翔子が嫌味たっぷりに教えてくれた。
「さて準備は整ったね。ではこれからペアになったシュレ原子の間にできた量糸に電子を渡らせてみよう」
僕たちは専用ゴーグルを渡されたあと、指示通りに遮光カーテンを閉じにいった。足元が心許なくなった部屋の中を機材に蹴躓きながら冷蔵庫まで戻り、レーザー冷却装置の横に、手芸部のお下がりでもらった年代物のジャノメミシンを改造して作った、先生力作の電子銃の挿入を手伝う。この針の先端から荷電粒子を発射させて量糸を渡らせるのだ。
先生は手動ハンドルを握りしめ、各種モニター見ながら計器類の微調整に入った。銃の先端を量糸の入射角へと慎重に合わせていくにつれ、重たい電子音がお腹の底にずしりと響いてきた。数値調整のレベルを上げていくたびに機械が唸るように振動し、耳鳴りがするような甲高い音が室内を駆け巡る。やがてその音が鳴り潜みはじめたころ、
「一瞬だからよく見てて」
それは、本当に瞬く間の出来事だった。
きゅん、と短い発射音が鳴り、親指と人差し指でも摘めるかどうかの白い粒子が箱の端から射出され、青白い燐光を纏いながら一瞬で反対側へと渡りきった。
先生によると、電子の入射速度と質量を高めるのには訳があり、量糸を渡るにたる重さに加重し、且つ、光速にもっとも近いスピードが出るよう電子を発射しなければ量糸は渡れないとのことだ。電子が量糸を渡るときに生じる摩擦。故に電子は青白い軌跡を量糸に残すのである。
すごい……と、束の間の余韻に浸っていると、カーテンレールが走る音が聴こえ、傾きかけた西日が教室内の闇を一掃する。思わずそのまぶしさに顔をしかめる。
「青白い奇跡。これが、量糸クロスオーバーだ」
先生が指をさす先にはモニターがあり、そこには、波形をかたどった一方の凝縮体の周りを、電子が一定の速度を保ったまま公転している。
実験は成功したのである。
「まずはじめに、例のハンカチを量子分解機にかけ、未来の世界に繋がっている量子を選別して凝縮体を作る。凝縮する理由は、万が一のことを考えて糸の強度を高めるためだ。そして、翔子くんを量糸クロスオーバー装置にセットして量子分解を開始。ハンカチ粒子の凝縮体が完成すれば、向こうの世界までの距離、日時、時刻が割りだされる仕組みだ。計算によって量糸を渡りきるための量子入射速度を算出して入力すると、装置の中で量子となった翔子くんの加速が始まり、加速器を経由して規定速度に達した時点で量糸接合面に自動装填され、未来に向けて一気に発射。これが、おおまかな時空転移の流れだ」
「か、加速器って……オメーそんなモンまで自作したってのか? あっちのドクはンな物騒なモン作ってねえぞ。つーかやっぱ微妙に違うんだなこの世界。いやこれって微妙か?」
「知り合いに医者がいてね。古くなった医療用の小型サイクロトンを特別に卸してもらったのをちょっと改良したんだ。見てみるかい?」
先生はそう言いながら教室の後ろまで行き、壁前面を覆っている黒い布に手を掛ける。
「ではご覧あれ」
と手品師もかくやと思わせる素振りで、黒い布切れを大げさに取り外した。
――ッ!
目の中に飛びこんできたのは、銀色の宇宙船だった。
払い下げ品に少し手を加えただけという言葉が額面通りでないことは誰が見ても明らかである。巨大円形加速器は、人目に触れることを待ち望んでいたかのように煌めきを放っていた。
「で……ッ、でっっけえ!」
後ろの壁全面を支配するそれは、荘厳な円形フォルムの中心部から銀色の極太配管を八方に伸ばし、赤青黄色のおびただしい数の配線がその周りを蔦のように巡らせている。まるで映画のスクリーンから巨大戦艦が飛び出してきたかのような錯覚を覚える。
「もはや原型すらとどめてねーな」
「ま、まあね。ほんの少しいじっただけなんだけど……」
「ほんのチョックラいじっただけでこんなモンに化けンのか? ハッ、なワケねーだろこのマッドサイエンティスト。てかオメー、この校舎、市の重要文化財に指定されてたンじゃなかったのか?」
「ははは、つい、ね。できればこのことは内密に」
「俺しーらね」
ちなみにこの加速器を使って、陽電子を光の速度の99.9%まで加速させることに成功したらしい。
「きっと君を未来へ帰してみせるよ。他に何か質問は?」
「イヤ、もう腹いっぱいだ。つーかオメーこんなところで燻ってる場合じゃねーだろ。量糸論をどこぞの学会誌に論文だしてノーベル賞狙えンじゃねーのか?」
先生は肩を竦め、
「まだ趣味の延長線上ってところだよ。それに学会に入会するのがどうも面倒でね」
「ハッ、まぁとにかく頑張るしかねーな。未来に帰っても応援してっからヨ」
と、いつの間にか抱いたシュレに頬ずりしながら翔子がそう言って締めくくる。
実験はこれにて終了となり、僕たちは先生の指示に従って、使った機械や道具を元の場所に片付けていった。
「さっそく明日から量糸クロスオーバー装置……いや、時空転移装置の作成に取り掛かろう。これから忙しくなるけど凄く楽しみだよ。まるで子供の頃に戻った気分だ。あ、そうか、明日といわず今からでも……」
「先生言っときますけど、僕はこれ以上遅くなっちゃうとママが心配するから帰るからね」
僕が電子銃のカバーを掛けながら先生を横目で牽制していると、片付けもせず壊れかけの猿太郎を使ってシュレと遊んでいた翔子が、急に思い出したかのように立ち上がり、
「そういやドク、それって大体どれくらいでできンだよ?」
「ふむ。今ある分解器と凝縮体トラップ、加速器などもろもろ翔子くん用に改造するのに5日。機器の調整と量糸解析に5日。まぁ10日もあればできると、」
――ガシャン。
翔子の手から猿太郎がこぼれ落ちる。
「そ、そんなに早ぇのか……?」
「まぁ、君の身を考慮しての10日だけど、どうかしたのかい?」
「……これからって時に水差すようでワリィんだが、もうちっとだけ、帰るの伸ばすことできねえかな……」
先生は少し困惑しながらもこう答える。
「冷たいことを言うようだけど、君はこの世界にとって異分子的存在だということを忘れてないだろうか」
翔子はその言葉に弾かれたように面を上げ、そんな彼女を冷静に見つめながら先生はこう語りはじめる。
「君がここに居続けることは、この世界の秩序を乱し、宇宙全体の流れにねじれを生じさせる、時空破壊を引き起こす可能性があると言っても過言ではないだろう。つまり、君が元の世界に帰れなくなるどころか、この世界が消滅することもなきにしもあらずといったところだ。だから余程の理由がない限り、おいそれと承認するわけには――」
「わかってるッ! ……ンなこたぁわかってンよ。どうせ帰れねえ状況でもなんとなくヤバいことになンだろなって予想もしてた。けどよ……」
鳩時計を見ると、時刻はいつの間にか午後6時を回っていた。まだ日の入りには遠いけれど、オレンジ色に染まりゆく教室内に夕暮れ時を示すセミの声が響きわたっている。
「それじゃこの世界に来た意味がねえ。ヘンな事に巻き込まれもしたが、結局それって切っ掛けだったンだ。俺は、自ら選んで」この世界にやってきた。たった今だが、そう思えるようになった」
この世界に来ることを自ら選んだ? 科学的説明が不可能な事故にまきこまれたのが単なる切っ掛けに過ぎないって一体どういうことだろう。
「じゃあなんでここに来たんだって言われると身もふたもねーが……実を言うと俺って人間はよ、これまで周りに都合のいいことばっか言って、同調しながらのんべんだらりとズリィ生き方してきたンだよな。言いたいことは山ほどあンのによ、自分に嘘ついてまで本音隠して、困難からすぐトンズラこいちまうような、そんなカッコワリィ人間なンだよ俺は」
僕よりも男らしく傍若無人に振舞う君が他人に合わせて生きてきた? そんなバカな。
「ところがここに来て翔と会って、親父お袋、クラスメイト、そしてドク。そりゃ別世界だから違うことだって多少あったけどよ、それでも当時の事を思い出して、今の自分と比較してみて気づいたンだよ……テメえだけが空回る結果の未来に進ンじまったことになあ!」
彼女と共通する心に傷を負わされた一年前のあの事件。僕はあの日を境に、できるだけ自分を出さないように変わっていった。どうせ何をやっても後ろ指を刺され、誰も僕のことを認めてくれるわけがないと勝手に決めつけるようになってしまった。彼女は僕と同じように、そのことを後悔している。
16年経った今でも、後悔し続けている。
「最初はコイツに干渉することで俺の過去が変われば未来も変わンじゃねえかなって甘ぇ期待もあったが、こうなりゃもう俺のことなんてどうだっていい。けど、コイツだけはよ、周りに翻弄されることなく、まっすぐ進んでいける道を選択させてやりてえ。たとえ後悔したとしても、それを選択した自分に納得できるようなカッケー生き方を、そんな、一本筋の通った生き方をコイツに示してやりてえンだ!」
固い決意が翔子の顔に滲み出ている。
「それが俺がこの世界にきた意味であり、ここに存在する意義だとすれば……、俺の未来が砕け散り、たとえ陽炎のようにこの身が消える運命であっても翔を導くまでは帰れねえ!」
――翔子……。
翔子は僕にシュレを放り投げ、先生の胸ぐらを掴んで訴える。
「なあ頼むドクッ! 俺が16年間迷い続けてやっとこさ気づいた答えをコイツに教えンのには10日じゃ短すぎる! あと一週間、いや3日でいい。このままなにも成さずに帰っちまえばコイツも俺も後悔だけが残っちまう! それともなにか? この世界に未練を残したまま帰れってのか? そんな殺生な道理を俺に飲めってのかヨ? なあ、答えろよ、なあ!」
先生は翔子の気迫漲る訴えを無言で受け止めている。
「これ以上は何も望まねえし面倒もかけねえ、だから後生だ! 未来の親友に免じてこの通り、一生一度こっきりの俺の頼みをどうか聞いてやってくれ!」
――後悔してもその道を選択した自分に納得する。
未来の世界でどんなことがあったのか知らないけれど、この世界にたどり着き、過去を顧みることができて、どうにか自分を納得させる答えを見つけることができたということなのか。同じ悩みの原因を持つ者として、それがどんなに凄い事なのか僕にはほんの少しだけど分かる気がする。けれど……
――今の僕は、今の君みたいに強くなんかなれない。
一年前のあの事件。あんなに恥ずかしい思いをするくらいなら、僕は、自分が本当にしたいことを我慢する。だって後悔なんてしたくない。後悔しても納得ができる強さなんて想像もつかないし聞いたこともない。それに結局後悔するなら意味のないことではないか。
事故に遭ってこの世界にたどり着いただけなのに、それを自分の責任にしてしまうなんて、君は本当に強い子だね。君が僕のたどる未来の結果だとしたら、僕もいずれはそうなるのかな。でも今の僕には無理だ。君の気持ちも分からないわけではないけれど、正直その言葉は、今の僕には重すぎるよ。
情けないと自覚しても、あきらめの方が勝ってしまう。
――こんな自分が、死ぬほど嫌いだ……。
ほどなくして先生が、短くため息をつき、
「君の存在理由、か。……なるほど。君がここ来た意味があるのは、たしかかもしれないね」
翔子の顔に快活な笑みが戻る。普段は大人びた顔をしているのに、笑ったときだけは幼い少女のそれだ。
「ただし先ほども言ったように、時空を超えてやってきた外来生物ともいえる君がこの世界に及ぼす影響は、正直言って僕の予想を遥かに超える代物だ。未知なる事象においてのエントロピー増大は深刻な問題で、この世界、もしくは君自身に何らかの影響が……いや、それを今どうこう考えても何もはじまらないか。とにかく、その影響を抑えるために、他人への干渉事は最小限に頼むよ。あと、滞在期間は最大でも夏休みが終わるまでが限界だ、いいね?」
「ああ、願ってもねえ。約束だ!」
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