第四章 E = mc2
量糸クロスオーバー
「過去にくる際、君以外の物質は排除されたにもかかわらずこのハンカチだけがどうして転移できたのか……フム、非常に不可解だけど、これが奇跡に繋がる鍵になっていることは間違いない」
セミの声が響き渡る、ぱっと見どこかの鉄工所とも思えるような大小様々な機械で溢れかえっている教室内で先生はそう言った。
今しがたおどけてみせたとは思えないようなキリッとした表情で、やさしくハンカチに触れてから足場も覚束ないほどひしめきあっている機材の間を器用に通り抜け、黒板の前に立ってチョークを握り、独自の理論の説明に入る。
「万物の根源である素粒子はみな極小の紐でできている、というのは聞いたことはあるかい? すべての物資の根源は、真っ直ぐの紐、輪ゴムのように開いたり閉じたりする紐、これらのような様々な糸が振動したり回転したりしながらできているといわれている」
「ドク、ちょっとたんま。超弦理論がテレポートとどう繋がンだよ。関係ねー講釈たれンならまた今度にしろよ」
先生は、翔子のせっかちなお叱りを受けて肩をすくめて笑い、
「では質問。このハンカチを構成しているいずれかの粒子から一本の糸が伸びているとしたら、どこにつながっているでしょう?」
「え、まさか俺が住んでた世界とか言うンじゃねえだろうな」
「ご明察。量子エンタングルメントの理論にそれを補う理論、粒子から伸びる糸をつかった量糸論を加えれれば、たとえ多元宇宙の彼方だろうと粒子の相関性は保てると僕はみている」
りょうし……えんたん、グルグルメント!?
なんだろう、翔子が言ってた量子力学とやらの話しをしているのだろうか。
「粒子同士の
「エンタングルというのは、純粋状態を保った量子
先生が説明を補完させる図形と数式を淀みなく黒板に並べ立てていく。
「未来の僕が量子テレポーテーションの研究でどんな袋小路にいたのか想像もつかないけれど、僕もだいぶ苦労したよ。研究に膨大な時間を割いてようやく転送にこぎつけたのがベリリウム原子一粒。こんなんじゃいつまでたっても量子以上の物質なんて転送できない。僕の夢である、映画のような物体テレポートを実現させるなんて一生かかっても不可能だと悟ったんだ。そこで僕は発想を根本的に変えた。相関関係にある一方の量子に情報を伝達し転送させる従来の研究ではなく、僕が導き出したある仮説を元に「相関関係にある粒子はなぜ相関状態にあるのか」この根本的原因の謎を追っていくと、あるとき相関関係にある粒子との間に電線のようにつながっているポテンシャルライン(量糸)の観測に成功してね、超弦理論の予言通りとはいかないけれど、素粒子よりもさらに小さい10のマイナス35乗mに匹敵する細いエネルギーの糸。それらが横一列に連なり、量子同士を相関させていたことをついにつきとめたんだ。その糸で、互いの粒子は相関しあってたんだ」
「そ、それってオメー……その糸を見つけたっつーよりも、超弦理論を解明させたってことなンじゃねーの?」
「ハハ、冗談はよしたまえ翔子くん。厳密にいうと、その糸の大きさは10のマイナス33乗m。予言の糸との差がマイナス2乗m分も違うんだ。それに、そんなたいそれた発見ができるほど僕は才能に恵まれていない。買い被りはよくないよ翔子くん」
「あーいや……俺は別に買いかぶっちゃねーが、発見したその数値のほうが正しいとは考えねえのか?」
「何度も言うようだけど、マイナス2乗m分も違う。これは大きな差なんだ」
僕は依然として話についていけないけれど、先生がとんでもない勘違いをしているのは、翔子の引きつり笑いを見るからに明らかだった。
「ちなみに、その糸を使っての粒子間移動はすでに成功させている。光子の他に、ヘリウム原子、カルシウム原子、あとなんだっけ……」
「ほえーってこたァ、あン時とっさに掴んで正解だったってことか。で、それはわかったけどよォ、俺があっちの世界に帰れる事にどーつながるってンだ。具体的にこれからどーすンだヨ?」
「簡単に説明すると、まずこのハンカチを原子レベルまで分解して、混合状態となった粒子から、時空を超えてつながる量糸をもった粒子を選別して凝縮させる。次に君を同じように量子分解して、時空の架け橋となった量糸にコヒーレントさせ――」
「ブッフウウウウッてちょっと待ったあ! いきなり俺を原子レベルに分解するって何ほざいてンだ! オメーを信じるしヤレっつったら校庭を素っ裸で走ることなんざお茶の子さいさいだが、そりゃいくらなんでも無茶だろ! てかそもそもそんな機械どこにある!」
翔子が苛立たしげに片足を床に叩きつけると、その反動で猿のおもちゃがシンバルを叩いてくるくる回りだし、大きな鳩時計がポッポと鳴きはじめた。翔子がその猿をおもいっきり蹴飛ばして黙らせると、先生が情けない声で「僕の目覚まし猿太郎2号になんてことを」と半壊した猿のおもちゃに駆け寄り涙目になった。
ここは僕の出番だと思う。翔子の気を鎮めるため僕は立ち上がった。
「ねえ翔子、原子ってたしかちっちゃいボールみたいなヤツだよね」
「ウルセーッ。オメーはすっこンでろッ!」
「ムっ、それくらい教えてくれたっていいじゃないか、翔子のバカ!」
「バカはオメーの方だろうが! 原子みてーにそこでジッとしてやがれ!」
気を利かせたはずが、翔子の気を逆撫でる一言で取っ組み合いのケンカとなった。が、まもなく先生に「これ以上物を壊さないでくれたまえ」と言われて僕たちはなんとか収まりをつけた。
「実は物質を量子化する機械はもう作ってある」
先生の話を聞いた翔子は思ったとおり、目が飛び出んばかりに驚くといった反応を示し、
「な、なにィ! ンなことアッチのドクから聞いたこともねーぞ!」
「ああ……多分それは、そのオモチャを禁忌としているからだよ。人智を超えてしまった神殺しの機械。僕の発明した量子分解装置は、使い方を間違えてしまえば戦争を生みだす兵器ともなり得るからね」
大学時代、思いつきで作ったその機械を使って実験していたところ、機械が暴走して研究施設を半分消滅させてしまい、危険人物として大学を追い出される羽目になったと僕たちにその経緯をざっくり説明してくれた。
「そんなぶっ飛んだ機械で俺を量子分解しよーてのか。オメーのサドぶりもいよいよ拍車が掛かってきたな……このサディストが」
「だいぶ前に倉庫に眠らせたままにしてあるけど、ここに持ち帰って一応調整はしたから大丈夫だとは思うよ。あ、一応物体の量子化には成功したんだ……消しゴムだけど」
「うぇっ、心もとねぇ……オーケーもーいいわかった。まあ背に腹はかえらンねー身だかンな。痛ぇのだけは勘弁だが、この際なんだってやってやるサ。つーかここはいつからサーカス小屋になっちまったンだ? まさしく綱渡りだぜ」
「そうだね、もはや量子テレポーテーションといった言葉は当てはまらない。糸を手繰って目的地に量子を移動させるから……」
「フン、とんでもねえ理論ばっか思いつきやがって。糸って言い張るぐれえなら超糸理論でいンじゃねーのか?」
先生は理解を得たように頷いてから黒板に文字を書き込む。
「量糸クロスオーバー。……フム、こう命名しよう」
粒子からのびるエネルギーの糸を使って翔子を未来の世界に帰してやる方法。
「なんか必殺技みたいでカッコイイね」
「ハン、簡単に言ってくれるがその糸渡ンの俺なンだぞ? ドク、ふたつだけ疑問がある。こっちはオメーの言ったとおり量糸の道筋を作れたとしても、アッチ側に置く装置だけはどーにもならねえ。こればっかりはオメーの大それた理論を以ってしてもゼッテー不可能だ」
翔子が粗を見つけたと言わんばかりの意地悪そうな顔で先生を見る。
「必要ないんだよ。量子化された君の身体は、転送先で観測されるのと同時に自動的に再構築されるはずだから」
「はああ? 自動的って、科学的根拠はあンのかよ」
「これも僕の仮説だけど、君の身体は時空連続体を構成するエキゾチック物質の作用に反応して量子化されてこの世界にたどり着いたんだ。着いたばかりの君はまだ重ね合わせの量子状態で、観測されたときに性別が女性の方に確定して再構築された、ということになる」
「なるほど……。これで俺が女になった理由が腑に落ちやがった。あともういっこ、その量糸ってやつは途中で切れたりしねーのか?」
彼らにとっては当たり前のような会話でも僕には到底理解できない話である。女になったことが腑に落ちたってどの辺りか説明してほしい。
先生が少し固い表情でその質問に答える。
「実はそのことなんだけど、糸に関していえばポテンシャルエネルギーの保存則と位相整合さえ保てれば非局所的な場所でも相関状態は持続するから理論上問題ないといえる。でも実際は、量子の純粋状態は距離が伸びれば伸びるほど安定が難しくなるのが数ある実験結果によって証明されているんだ。皮肉にも、その矛盾を解決してしまったのが僕の量糸論なんだけどね」
「そっか、どんな糸でも伸びれば切れちまうもんな。つーか渡ってる途中で切れちまったら……俺は一体どうなっちまう?」
不安げに問いただす彼女に先生は目をそらしながらこう言った。
「量子状態となったまま異次元の時空を彷徨うことになるか、あるいは消滅するか……」
翔子は残酷なその結論に受け入れ難い表情でやおら俯き、言葉の接ぎ穂を完全に失ってしまう。
当然だ。糸が切れてしまうと未来に帰れないどころか自分が消滅してしまうなんて考えるだけでも身の毛がよだつし、僕なら帰らずこの世界にとどまることを選択するだろう。しかし彼女がそれを選択しきれず無言で葛藤しているのは、性格上、先生を信じると言い切った手前今さら後には引けないという男気が邪魔をしているのだろう。誰も責めたりしないのに、そこまで思い悩むのならやめればいいのにって思う。
10秒足らずの沈黙が続いたあと、意気消沈してしまった彼女を見かねて先生がこう言った。
「でも考えてみたまえ、この世は実際的に実証未解決な解釈や理論で成り立っている。僕の尊敬している天才物理学者でさえ、相対性理論という遺産は残してくれたけど光の正体を証明するには至らなかった。けれど、それを根幹とした彼の理論は、後に我々を宇宙の深淵へと導いてくれる結果となった。人が想像できることは必ず実現できるようになると僕は頑なにそう信じている。それに僕は約束した……君を必ず未来に帰すと」
――せ、先生カッコイイ。
ようするに、やればできるということなのだろう。博士の学位に劣らぬ説得力に溢れている言葉だ。
先生の熱い眼差しを感じて面を上げた翔子の表情に輝きが戻っていた。
「ワリィ、ちょっと不安になっちまった。けどまず、お得意の実験ゴッコでそれを証明してくれよ」
「そう言ってくると思ったよ。では今からそれを証明してみせよう。シュレ、おいで」
先生が名前を呼ぶと、背の高い年代物の置時計の影からのっそりと猫が姿を現した。
「オオーッ。シュレーディンガーZ、久しぶりだなオメ~。ほらこっちこいゼット!」
品種は不明。ダッフルコートについた毛皮のような極薄の茶と白色のモフモフ被毛で覆われていて顔がよく見えない気味の悪い猫。僕になついているらしくいつも餌をせがんでくるけど、やっても鳴かないし愛想もないし、正直僕はこの猫にうんざりしてる。悔しいけど単なる餌係りとして認識されているのかもしれない。
翔子がシュレを抱きかかえ、モサモサに生えた体毛に顔をうずめながらはしゃいでいる。
「なんだかぬいぐるみを抱いてる女の子みたいだね」
「ハッ! ば、バカヤロー俺を女呼ばわりすンじゃねえッ! ちょっと旧交を温めあっただけだろーが、オラ、次はオメーの番だ、持ってろ」
「わっ、急に渡さないでよ。ああ、ネコの毛が制服についちゃったじゃないか、もー!」
ところが翔子は、先生がシュレを呼び寄せた意味を理解したらしく、顔色を青くしながらこう言った。
「お、おいドク、まさかオメー、コイツを実験台にしようってンじゃ……」
「フフ、ご明察」
まるで暗がりから獲物を狙う猫の目つきだ。朝中のマッドサイエンティストがとうとう本性を現したのだ!
「やいドクッ、俺のゼットをどーする気だ! いくらオメーでもそれだきゃ勘弁ならねえ!」
「その猫、君のじゃないよね?」
「ウッセー黙りやがれ! コイツにはドクと同じくれーの絆を感じてンだ、オメーみてえに会ってからたったの三日しか経ってねえ薄っぺらい関係じゃねンだよこのとっつあん小僧が!」
「いやあの……君は僕だよね? 僕らには、彼らより深い絆があってもいいはずなんだけど……」
僕が翔子の薄情さに呆れていると、先生がそのやり取りを見て引きつったように笑いながらこう言った。
「冗談だよ。実験はシュレの毛を使うだけから安心してくれたまえ」
「余計な火種撒いてンじゃねえ!」
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