第三・五章 光速度不変の原理

未来に帰ることは不可能

 相手は行く末に天才物理学者と呼ばれる存在。根拠のない俺の話など額面どおりに受けとめてくれるなんてもっての外だ。だが、この話をどうにか理解してもらわないことには始まらない。この世界で俺は、路頭に迷うことになる。


 ここに俺が存在している理由。それを解明できるのはこの世でたったひとり。世界唯一の理論物理兼実験物理学者である、


 ――ドク、それはアンタだけだ。


 俺はありったけの勇気を搾り出し、


「その、俺が未来からきた翔だってのは本当で、これはアンタしか理解できねえと思って、ここにきた」


 ドクが見定めるように俺を見てきた。あまりの緊張で言葉が上手く紡ぎだせない。震えを抑えるために胸のリボンをぎゅっと握った。


「信じれねーかもしンねえが本当なんだ! 16年後の未来から俺は来たンだ。そ、それを証明することはできねえけど……頼むッ、後生だッ。疑念の一切合財はこの際抜きにして、長年付き合いのある俺に免じて――」


 これほど自分を呪ったこともなかった。この世に理由もなく信じるバカがどこにいるというのか。それなのに信じろの一点張りの言葉しかでてこない自分に腹が立った。


 ところが、


「やあ、久しぶり。と言ったほうがこの場合相応しいのかな? 未来の翔くん」


 量子力学を教えてくれた俺の恩師、鳥野流二。


 彼との出会いは中一の夏休み明けだ。粕谷事件で何もかもが嫌になり自宅にも帰らず途方に暮れていた放課後、誰も寄り付かない旧校舎にふと足を踏み入れたのがきっかけだった。


 ここで夜な夜な怪しげな物を作っている姿を誰かが見て、いつしか彼は、朝中のマッドサイエンティストと呼ばれるようになり、皆に恐れられていた。


 説得に時間が掛かると踏んでいた俺は、思いもよらぬ反応に戸惑い、


「じ、自分で言っておいてアレだが、こんなでっち上げのSFみてーな話を信じてくれンのか?」


「名だたる物理学者たちが将来、時空間のタイムトラベルというのものを科学的見地から見て可能だと明言している。まぁそれには色々と解決しなければならない問題もあるけれど、ここよりも先の未来なら、それもあり得ることなのかなと思ってね」


「タイムトラベルか。そんなおもしろ半分でここにきた訳でじゃねぇンだけどな……」


「ただひとつ言えるのは、タイムトラベルが可能な何らかのデバイスやマシンが出来たとしても、時間遡行は不可能。すなわち、というのが僕の見解だ」


「てことはつまり、やっぱ俺の言ったことは信じられねえ、ってことか?」


 ドクはやさしく微笑みながら、再び黒板の前に立ってチョークをつまみ取り、


「光の速度を超えられるモノを作りだすのはいかなる未来であっても不可能だ。それでも何とか未来の技術を使って光と等価速度を出せる乗り物を作り出せたとしても、行けるのはその先の未来だけ」


 黒板の数式を惜しげもなく消しとり、空いたスペースに図を書きながら説明を加える。


「物理の世界では静止しているモノも含め全ての物体は時間を光速で進んでいるものと考えられている。不思議な話だよね。すなわち、同じ時空間である過去に行くためには、宇宙の制限速度を超える時速21億6000万キロを出すことが前提条件となる。世の中のあらゆる物質は光の速度を超えることができない。光速度不変の原理は、この先の未来でも変わることのない絶対不変の理論だと僕は定義している」


「まわりくでーよ! もっと簡単に説明してくれよ」


「君は異系列の時間軸。すなわち、から、何らかの形を利用して時空転移してきたものと推測できる」


「ってことはつまり、別世界に着いちまったってことか」


「正解。それを決定付ける項目が二つある」


「な、なんだよ」


「ひとつは、君が女の子ということ。ふたつめは、すごく口が悪い」


「クッ……」


 俺の不安を和らげる彼なりの配慮なのだろう。隣で翔が笑いをこらえている。あとでぶっ殺してやる。


「君の様子から類推すると、その点以外の事は大きく違わないみたいだし、どうやらこの世界は、君がいた未来の世界と微妙にズレた過去の世界ということになるね」


「パラレルワールドか……なるほど、だから翔が存在しているのか。けどなんで俺は女に、」


 ドクは急に思いたったように俺の両肩を掴み、


「君を研究すれば多世界解釈を解明できるかもしれない! ぜひ僕の研究対象になってくれたまえ!」


 言い寄ってきたドクを突き飛ばし、胸を庇うようにして半身になり、


「ばっ、バカヤロー、俺はそんなことしにここに来たンじゃねえ! ンなことより、この世界が元の世界と違うって事は、帰れねーってことになンじゃねえのか?」


「フム、どうやって来たかにもよるけど、気づいたら過去でしたというパターンであれば……今のところ、元いた世界に帰ることは不可能だろうね」


「やっぱ、そうなるか……」


 元の世界に帰ることは不可能。


 この世で最も信頼のおける天才物理学者からそう断言されてしまった。彼の解釈における見解はほぼ正しいとみて間違いないだろう。とはいえ、別に元の世界に未練などないし、帰りたいと思っているわけでもない。なんの取り柄もなくこの歳まで独身で、長年勤めた会社や家族にも愛想を尽かされた挙げ句の果てにひきこもり。そんなウダツの上がらない自分に嫌気がさしていたのが現状だ。帰れる可能性がほんの少しでもあるというよりかは、むしろこの方が良かったとも思える。


 ――そう、これでよかったのだ。


 覚悟もないままこんな事態に陥ってしまったのは存外ではあるが、俺は心のどこかでこのような展開になることを待ち望んでいた気がする。それにドクに会いに来たのは未来に帰るためではなく、これからどうすればいいのか知りたかっただけで……


 心に小さな穴が空いた。


 ――本当に、これでよかったのかな。


 たとえようのない感情にぎゅっと胸が締めつけられる。未来に残してきた数少ない俺の宝物。家族や仲間との思い出。


 普段そんなやつらのことなんてこれっぽっちも思ってないクセに失ったとたんにこれか。どれだけ自分勝手なんだ俺は。


 頭に去来する思い出や喪失感を振り払い、


「へへ、まさか俺がこんな目に遭うなんて思いもしなかったぜ……ま、こーなっちまったモンはしゃーねえ。これからこの世界でどうやってエンジョイして生きてくか考えるか」


「本気でそう言っているのかい?」


 ドクが悲しそうな目で俺を見る。


「あ、あったりめーじゃねえか! 未来の俺がどんなものだったかオメーに言ってもピンとこねえと思うがよ、俺の人生はサイテーだった。ダチからも見捨てられ、親からも疎まれ、社会に出りゃ不要な人間だとレッテル貼られ、どこに行っても俺の居場所なんてなかった。あんな世界なんてぶっ壊ればいいのにってずっと思ってた。何かの間違いでここに来らされたときは流石にまいっちまったが、よくよく考えてみりゃ俺はこうなることを元から望んでた。帰れねえってわかって逆にせいせいすンぜ」


「僕には未練があるように見えるけど……それは違うと?」


「そ、そうだって、言ってるじゃねーか……」


 未練などあるわけがない、と心にそう言いきかせる。


 この世界にきてなぜか女になってしまったが、人生をやり直せる意味では願ったり叶ったりといったところだ。けどさっきから胸が疼くのはなぜだ。この痛み。認めたくはないが、これが未練だというのか……


 俺が下を向いて悩んでいると、


「少し質問を変えよう。世界は違うけど、君は過去に戻ってきたということになる。未来に向かって生きているという点では僕たちと同じだ。君には選択肢が二つある。奇跡など起きないと信じて生きるのか、奇跡を信じて生きるのか」


「奇跡、つってもピンとこねーよ。こ、こんなこと初めてなンだ、この先どうすりゃいいかわかンねえからここに来たンじゃねーか!」


「失礼、どうやら不安を煽ってしまったようだね。とりあえず君がここに来た経緯をできるだけ詳しく説明してくれるかな」


「……ああ、わかった」


 落ち着きを取り戻したあと、事の成り行きについて説明した。


 神社で地震が起きたこと、謎の光球が現れ、身包みを剥ぎ取られて吸い込まれたこと、球体の中が真っ白で目が覚めるとこの世界にたどり着いていたこと、そして、なぜか女になっていたこと。とにかく思い出せる限り、あの時の様子をこと細かく説明した。


 俺の拙い説明を聞いたドクは、自分なりにまとめるように独り言を呟きながら黒板に戻り、数式を書きはじめる。


「地震と謎の発光体。それは地中奥深くで発生した地震波が地面を通り抜けて岩層に当たり、大量の正と負のプラズマを発生させる現象だと推測する。発生確率は非常に低く稀な現象だけど、目撃例は意外にも沢山あるんだ。空が赤く光ったり、遠くの地表から光が漏れているように見えたり、決まった形状や色あったりなかったりの状態でね。話の内容からすると、どうやら君は震央上にいて、その現象に至近距離で遭遇したことになる。ちなみにその確率を数式で表すとこうなる……なるほど、これは奇跡に等しい数字だ」


 ドクの手によって黒板に数式の羅列が次々と生み出されていく。ところがドクは何かを思いついたのか、途中まで書いていた数式をかき消し、異なる新たな数式を書きなぐっていく。


「まず発光体の正体をブラックホールと仮定しよう。中で形成されたワームホールはこの数式で成り立っている。けれどその状態を保たせるには中性子星中心級の高密度の負のエネルギーの存在が必要不可欠となるのだが、未だかつて存在の確認されていない未知の物質が地震による発光現象の中に存在するとは到底思えない……いや。この世界の常識に囚われてはダメだ。こうして多世界からきた存在を認める以上、多次元的思考で物事を考えなければ……」


 やがて彼は手を止めて腕を組み、自分の書いた数式をまじまじと見つめながらこう結論づけた。


「……フム、発光体の正体は多分、時空震によって生じた空間の裂け目だ。その中は時空連続体四次元空間が海のように広がっていて、無限大にも及ぶ無数の泡のような宇宙が存在している。時空震が発生した原因は、一般的に起こる地震の中心点にが加わることで説明できるのだが、いかんせんそれはまだ観測すらされていない時空の……そうだ、そういえばどうして君だけがその発光体に吸い込まれたんだろう」


「オメーが言うように、もしあれがブラックホールだとしたら、俺はおろか地球がヤベエ状況になるじゃねえか。そもそもなんで俺は無事なんだ……あ!」


 俺は思い当たり、胸ポケットからハンカチを取り出してドクに見せた。


「言うの忘れてたぜ、あの忌々しい球ッコロん中に吸い込まれる時、このハンカチだけ持って――」


 俺が言い終える前に、ドクがチョークを投げ捨て、ピンセットでハンカチを奪い取り、首に下げていたルーペをかざして慎重に観察をはじめた。


 彼は十分過ぎるぐらいにそれを観察したあとこう言った。


「君はここに来る前、説明のつかない力によって服は全部剥ぎ取られてしまったと、そう言ったよね?」


「ああ、そうだが……」


「これでひとつ可能性をみつけることができた」


 湧き上がってきた希望にドクが不敵に目を光らせる。


 だが彼は、先ほど未来に戻るのは不可能だと明言した。別に疑っている訳ではないが、突如として可能に変わるなんて俺の性格上おいそれと信じることができない。


「でもさっき戻れねえって言ったばっかなのにそんなのどうやって……ッ。ひょっとしてオメー、プルトニウム積んで時空をおっ走る車作り始めよーって気じゃねえだろうなァ? ここのガラクタで140キロ超える装置は作りだせても光速超えるモンなんて到底無理な話だ。それはオメーも言ってたろ。他にどんな方法で元の世界に帰れるって――」


「テレポートだよ」


「テレポートお? そ、それって……それってひょっとして、おおオメーのお家芸でもある研究の……」


「おや、さすが未来からやって来ただけに、察しがついたようだね。そう……量子テレポーテーションのことだ」


 ――ッ!?


 常人を遥かに超える彼の発想はいつも驚きに満ち溢れている。


 量子テレポーテーションとは、この先俺が何度も手伝うことになるドクが長年研究している量子力学の案件のひとつで、人間の目にはけして見ることができない原子や電子といった物質の量子の性質を利用して、情報を伝達する科学的技術のことだ。


 全世界のやんごとなき物理学者たちがこぞってその成功率を競いあい、今だその道は険しく100%の確率で成功させるには、まだまだ発展途上の研究課題であった。

 文字通りの意味とは異なり単に物質をテレポートさせるものではなく、絡みあった粒子AとBを分離させたあと、粒子Aに別の粒子Xを干渉させる。すると、粒子AはXの状態に変換され、離したもう一方の粒子Bも瞬時にXの状態をとるといった、量子の相関性質を利用した転送方法のことである。

 理論上、ペアになった粒子は距離に関係なく絡みあっているので、ここから月へ瞬時に情報を送ることだって可能になるのだ。


 だが、現実はそう簡単にはいかない。


 理論上では、絡み合った粒子は距離に関係なく相関関係は持続するが、実際は距離が伸びれば伸びるほど成功確率が低下し、現状は学者たちが血眼になって、やっとのことでわずか数メートルの距離を転送させることができるといった状態だ。そればかりか、転送させることができるのは情報保存に適合した原子と光子のみで、物体の転送なんてものは現代物理学の最先端技術を以ってしても不可能とされている。


 そしてここは16年前の過去の世界。俺がやってきた世界と微妙に違う世界とはいえ、この時代は量子テレポートの黎明期にあたる時代だ。技術なんてほとんど発展していないし、たかが光子といえど、テレポートを成功させることなんて皆無に等しいといえる。そんな状況で、一体誰がどうやって俺をテレポートさせるというのか。もちろんそれはドクに決まっているが、この時代の彼の技術なり量子論の知識は、俺が元いた世界のドクの過去と同じだとするならば不透明な部分が多すぎる。これは信用する以前の問題で、俺が帰るところは歩いて片道15分の自宅ではなく、時空を超えた先の世界だ。


 はっきり言おう。この時代の彼では、どう足掻こうが絶対に無理だ。


 頭がそのように結論を下した途端、怒りが沸々とこみ上げてきた。


「たしかに未来のオメーは、その研究で世界最高峰の権威ある賞にノミネートされるが受賞は逃したンだぞ! ソレを可能とさせる仮説と実証可能範囲内における多くの実験でも平行線を辿って、他のやつらも追い越すことなんてできなかった! 俺とやったときだって光子しか転送できなかったクセに、なんでそんな余裕ぶっこいた顔してンだよ!」


 血相を変え、怒りあらわにまくし立てる俺を見たふたりの表情に、驚きと困惑の色がさす。どうせ、適当を言って後でやっぱりできませんでしたという結果になるのは目に見えている。


「たったひとりの親友だって思ってたのに、なンも知らねーと思って俺をバカにしやがって……さらに先の未来でもなあッ、オメーがやろうと考えてることは不可能だとされ――」


 ドクの手は一見手弱女のようにか細くて白い。だが間近で見ると、爪はボロボロで逆むけができており、指や手の平はガサガサで荒れ放題だ。身を酷使して研究に明け暮れている証といえるだろう。


 そんな彼の人差し指が、壊れた爆音スピーカーのように叫びだした俺の口を塞いだ。


「それ以上は、言いっこなしだよ……未来の翔くん」


 ――し、しまった。頭に血が上ってつい余計なことを……


 ドクは明らかに影を落とし、色のない目で空虚な笑みを浮かべる。子供をあやすような口調で俺にこう言った。


「未来の事を知りすぎると、けしてロクなことにならない。……なぜならそれは、未来の出来事に重大な影響を及ぼす事になり得るからだ」


 ドクは俺にこう言った。この世界は、俺の住む世界に非常に似ていると、そう言っていた。ようするに、時間の逆説タイムパラドックスが起きてもおかしくはないということだ。


「とはいえここは別の世界だ。君が言った通りの未来になるのか、そうならないのかは、現段階では未知数だといえる。……ただね、僕が最も懸念しているのは、知ってしまったことによって創造することをやめてしまうことなんだ」


 ドクはこの俺に量子力学という摩訶不思議な世界を教えてくれた師匠であり、たったひとりの親友だ。そんな類い稀な属性を持つ彼に仁義にもとる行為をしてしまった。一時の感情に支配され、被害妄想が膨らみ、彼の自尊心に唾棄してしまった。仲間を失ったときと同じ、俺はこの世界で過去と同じことを繰り返してしまったのだ。


 ――メデてえ……メデたすぎる。俺はサイテーの大バカ野郎だ。歯止めがきかねえバカさ加減は過去に戻っても同じかよこのクソッタレがあッッ!


 グランドから発せられるの慌しい掛け声が、北棟から流れる管楽器のロングトーンの音が、裏山のセミの合唱がかき消えるほどの重たい空気が、研究機材だらけの教室に立ち込める。


 これでふたつの世界の友を、失ってしまった……。

 もう、ここにはいられない。


 目蓋の奥から滲み出ようとしている奔流が今にもこぼれ落ちそうになっているのが分かる。悟られないように下を向き、


「悪ィなドク。その、せっかく相談にのってくれたのに、余計な事まで言っちまった。関係ねえ過去のオメーにまでおんぶにだっこで、ほんとどうしようもねークズだよ俺は……。ゆ、許してなんか言わねえが、その、悪かった。本っとに悪かった」


 ぽた。


「この世界でどーやって生きてくかは自分で考えるわ。今度は後悔しねえようちったぁ勉強して、親に恨まれねぇよういいガッコ入ンねーとな。じゃあ俺消えるわ、邪魔したな」


 踵を返そうとして翔に止められる。


「ちょっと待ってよ翔子! 先生は何もそこまで――」


「いいんだッ! いンだよ翔……これは俺とドクの問題だ。そこ、どいてくれ」


 翔を払いのけ、視界が滲むなか、機材に足をぶつけながらゆっくりと歩いていく。やがてガラス戸の前にたどり着き、後ろ髪を引かれる思いに震えながら引手に手を伸ばした。


「けれど……知って良いことも、あるみたいだね」


 ――ッ!


 予想だにしなかった言葉に手を止めるが、その声は明らかに気落ちしているものだった。これが最後だと、これみよがしにあてつけられるのだろうか。それが、言いたいことだけ言って逃げようとした報いというのならば、俺は甘んじて受け入れるべきだ。


 俺は姿勢を保ったままそう覚悟して、次にくるであろう戒めの言葉を待った。ところがドクは、


「ノーベル賞を逃してしまう、か。こんな僕がそんな大それた賞を獲れる位置にいること自体、なんだかあまりピンとこないけれど、研究をこれまで以上に頑張れば、それを確実に手に入れることができるかもしれない」


 俺は幻聴を聞いているのだろうか。


「最初言われたときはさすがにショックを隠せなかったけど今は違う。心の底から希望が湧いてきたよ。量子テレポートは、僕の未来で100%の確率で成功させてみせる」


 ぽた、ぽた。


 すがる気持ちで振り返る。


「君は信用を失ったと言ったね。僕は実感できないのだけれど、未来の僕と築き上げた16年間もの深い友誼を、その比類なき絆を、時空を超えたこの友情を……ここで終わらせる気がないのは、僕だけなのかい?」


 ぽたぽた、ぽた……


「っ、なワケねーだろうが、ばかやろう……」


 ――俺は未来からきた翔だ。


 常人ならこんな奇天烈な話聞いてくれもしないだろう。それなのに彼は、量子レベルの疑いもせず、俺の話に耳を傾けてくれた。


 鳥野流二という存在の有り難みが、心の底に染み渡っていく。


「けどオメーは、ひとつ間違ってる。出会ってもう17年だろ、が……」


 してやられたと、まともに綴れない言葉で言い返してみる。こんな状況にもかかわらず当てこすろうとする嫌味な性格は一生直らない気がする。


 ドクはそれにこう答えた。


「フム。では厳密に言わせてもらうと、出会ったのは9月3日だから……まだ16年と309日だね」


 予想を超えたその言の矢が、俺の心の壁を突き貫いた。


 ――そんなことまで覚えてくれて。


「ご、ごめんな、ドグ。ごめ、」


 溢れ出した感情を拭い取るのに必死で謝ることもままならない。男同士だというのに、馴れ初めの日取りを鮮明に覚えてるなんて一体誰が思うのだろう。俺からしてみるとその言葉の意味するところは、掛け値のない友情の証明であり、絶対不変の絆であり、親友と呼べるに値する言葉に他ならない。


 そこで不意に肩を叩かれたので面を上げた。


「翔子はやっぱり翔子だね」


 翔がのんきにそう言って、同じイニシャルが刺繍されたハンカチを差し出してきた。俺はその余裕ぶった態度が癪で殴るように奪い取り、


「いい気になってンじゃねぇぞ。こりぇでハナをかまれたくなきゃったらあっちいけばか」


「フフフかわい……よしよし」


 喉が痙攣を起こして発声もままならない。くやしくて翔の胸を何度も叩いた。


「なでンな。カワヒーとかゆーなぼけ。おりぇの手を血で洗わせるつもりきゃ」


 振り払っても何度も頭をなでようとしてくる翔とのやり取りが続いたあと、ドクが遠慮がちに咳払い、いつもの元気な声でこう言ってきた。


「さて、未来の翔くん。いや、今は翔子くんだったね。では改めて君に問おう。君は奇跡を――」


 俺はドクの言葉を先読み、光速を超えるかくやの速度で涙を拭ってこう叫ぶ。


「信じるのは奇跡なンかじゃねえ! 信じるのはこの世でたったひとり。ドク、オメーだけだッ!」


 顔がよじれ鼻水も垂れ流しの状態でとても見せられるものではなかったが、気にせずむしろ見せつけるかのように友に向かって本当の笑顔を振りまいた。


 俺が言うのもあれだが、せっかくの美人が台無しだった。


「フム。ではこれから僕の量子転送理論について説明しよう。いや違うな。僕たちのだね。なんたって君が僕の仮説を補ってくれたのだから。……感謝しないと」


 俺の言動が彼の理論立てにどう役立てたのかこの段階では知る由もないが、時空を超えてようやく彼の一助と成れたことに胸が小さくときめいた。先の未来でも不可能とされる物体転送。彼独自の理論を基に、何をどのようにしてテレポートさせるのか想像もできないけれど、彼を信じていよう。この先もずっと。


 ドクが俺に向かっておもむろに指をさし、


「万が一それが成功すれば……いや、成功させるとここに明言しよう」


 そして白衣の裾を大きくはためかせながらぐるりと回り、


「僕は未来を超越して、かならず量子転送理論を完成してみせる。そして必ず君を未来に帰してみせるッ!」


 虚空を突いてビシッとキメたのは、彼なりに考えた感動を湧きたてるための演出なのだろう。どこかで観たワンシーンだが、完全に外している。それを見た俺と翔が、


「ドクッ! オメーのギャグは昔っから笑えねンだよ! すべりまくりでこっちが恥ずかしいっての」


「指なんかさしちゃってさー、先生そこでカッコよくキメるのって必要なの?」


 ドクが照れくさそうに頭をかく。


 それは未来でも変わらないドクの仕草だった。実はそれ以外にも、彼には変わらないモノが沢山ある。


 クセのある銀髪に、着古して裾のほつれが目立つ薄汚れた白衣。くだらないギャグセンスとひたむきな情熱。胸躍らせる想像力と熱狂的な飽くなき好奇心。そして、今日確信させてくれた友情。


 それらは、この先何があっても変わらない、俺が提唱する絶対不変の理論。


 ドク不変の原理である。


 俺のセンスもいよいよオヤジがかってきたな、と自嘲気味にそう呟いた。

 ドクは照れ隠しに頭をかいたあと、不変の笑顔でこう言った。


「な~に。これは、ほんのお約束ってやつだよ」

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