俺は翔の従姉弟だ

 PM0:10 


 昼休みの教室。


 今日は僕の周囲がやたらとうるさい。理由は、翔子の周りにみんなが集まってきて、弁当を食べながら騒いでいるせいだ。

 後ろの席の鳴神は、今朝の一件で留まりづらかったらしく、昼休みに入ると仲間を連れてさっさと教室から出ていった。目が合うとたまに睨まれたりもしたけれど、あれ以降は、何もされていない。これで本当によかったのかは疑問だが。


 彼女たちに気を遣いながら静かに席を立ち、教室を出ようとした。ところが、


「翔、便所か? だったら俺も行く」


 と、周りを取り囲む女子集団から逃げるように、翔子があとからついてくる。


「えー、男女で連れションなんてやだよ」


「バカ、俺を殺す気か。あんな毒にも薬にもならねー女の話を延々と聞かされる俺の身にもなれっての」


「でも、一応外見は女の子なんだからできるだけ合わせるようにしないと」


「バーカ。俺は俺であり続けンだよ」


 言ったそばからガサツに頭をかきむしり、猫背ガニ股で女子とも思えない姿を晒して、靴底を引きずりながら廊下を歩いている。まったくもって美少女台無しの姿なのに、それでも衆目を集めているところが彼女のすごいところだ。すれ違い様まじまじと見ながら道を空ける者や、美少女転校生の噂を耳にしてひと目見ようと教室から身を乗り出してくる者。あとこれは特殊な例だけど、三組の教室に差しかかったとき、彼女が入口付近で会話をしていたヤンキー風の生徒二人に因縁をつけ「今俺にメンチ切ってきたろヤンのかテメー」と濡れ衣を被せるという加害事件が勃発した。彼らは一寸たりとも彼女を見ていないのにも拘らず、言い訳はおろか抵抗もせず、瞬時に直立不動の姿勢をとって彼女に謝罪した。この件に関しての僕の見解は、ヤンキー社会力学における暗黙の序列が自然発生したとみている。彼女はこの学校をシメるために未来からやってきたのだろうか。僕はまったく罪のない彼らに頭を下げ、フンと息まき先を歩く彼女を追った。


「ねえ翔子、その、今朝の事なんだけど、」


 眠気まなこの者たちまで一気に目覚めさせた今朝の事件。安堵の裏側で今も燻り続けている不安について、言うか言うまいか悩んでいたけれど、思い切って彼女に訊いてみることにした。


「鳴神にあんなことして、後で酷いことされたりしないかな……」


 今回の件で鳴神に逆恨みされるのは間違いないだろう。翔子の目を盗んで、今よりもひどい目に遭わされるかもしれない。これからどのように立ち回ればいいのか不安だった。


「そう心配すンなって。アイツには卒業までたっぷり世話になったからよ。またオメーにちょっかいかけるよーだったら千倍返しにしてやっから安心しろ」


「そっか……僕、卒業するまでイジメられ続けるんだね。気が重いなぁ」


 見通しの暗い未来にため息しか出ない。そもそもなぜ彼にいじめられるようになったのか。玉響に告白しようとしたせいだろうか。いや、玉響は関係ない。鳴神の迫力に負けて怖気づいてしまった自分のせいだ。


 そうこう考えているうちにトイレにたどり着く。


「けどこればっかは俺がどーこーしても意味ねーしなー。オメーをどーにかしねえと……でも俺が覚醒したのは高校入ってからだからしなー。なんてっか、オメーももっとこうビッと気合い入れてだな、」


「ねえ君。心配してくれるのはありがたいんだけどさ……どこまでついてきてるの?」


「はあ? 一緒にしょんべんタレに来たンじゃねーか。何ワケわかんねーこと言って、」


「ここ、男子便所なんですけど」


 翔子は平然と僕の隣に立ってスカートをめくり用を足そうとしていた。ある意味それは間違いではないけれど、今は女子の体だ。彼女は右の小便器の前に立っている男子を見て、僕を見て、下を見た。そこではじめて自分がとろうとしている行動に気づき「間違ったすまねえ」と言いながら男子便所から慌てて出ていった。


 用を足しおえ手を洗い、トイレから出て翔子を待っていると、


「翔くん、こんにちは」


 と、突然耳にした鈴鳴りの声に驚き、思わず悲鳴のような情けない声を漏らしてしまう。


「驚かしちゃった? ご、ごめんなさい」


「いや、玉響が謝ることないよ。その、こんにちは」


 彼女の名前は玉響萌たまゆらもえ。朝永中学カワイイ系のトップに君臨する美少女と言えば彼女のことで、亜麻色の髪をツーサイドアップにした僕の麗しの天使。


 僕を心配した表情から一転して、玉響はもじもじしながらこう言ってきた。


「もうすぐ夏休みだね」


「そ、そうだね」


 いつものことだけど、玉響と話しているとすごく緊張する。言葉が続かない。

 何か喋ろうと咄嗟に出た言葉が、


「あの!」


 と、二人の言葉が重なりあう。玉響に「どうぞ」と言って会話を譲る。彼女は少し迷った後、こう言った。


「翔くん、今年も盆踊りサマフェスでギター弾くのかな……」


 その発言で緊張と会話のネタが脳裏から消えた。

 彼女が言ったのは、僕が最も忌避している言葉だった。朝永学校最大行事サマーフェスティバルのことである。

 もうすぐ夏休みに入るので意識はしていた。僕のせいで活動を休止しているバンドのメンバーからもしつこく説得されているけれど、依然として人前で弾くことがままならず、はぐらかしたまま、ずっと返事を先延ばしにしている。


「実はまだ決めてないんだ。だってホラ、最近部活に行ってないし、練習もあんまりしてないし……」


 この話題になるたびに、粕谷に言われた言葉を思い出す。その都度ヘコんで、また忘れての繰り返し。僕は一生このままなのだろうか。


 人差し指をつついて言いよどむ姿がとてもかわいらしい。玉響が再び勇気を振り絞って何かを言おうとしたその時、


「翔、誰に断ってこんな所でイチャついてんだよ」


 下卑た笑いを引きずり、鼻に大きな絆創膏を貼った鳴神が、四人の取り巻きを連れて現れた。玉響とせっかく二人っきりの会話を楽しんでいたのに、まるで天国から地獄に突き落とされた気分だ。

 壁際に追いやられ、僕らの周りを手下共が取り囲んでいく。鳴神に胸倉を掴み上げられ、こう言われた。


「お前の従姉弟には世話になったな」


 予想していたことが的中した。


「ぼ、僕に言われても……」


「あいつはテメーの身内だろうが! フン、まぁとにかくお前もう用済みだ、痛い目みねえうちにとっとと失せな」


 と無造作に突き飛ばされ、トイレ脇のゴミ箱に当たって中身を派手にぶちまける。

 鳴神は、廊下の壁際に玉響を追いやり、


「さぁ邪魔者は追っ払ってやったぜ。今から俺と真昼のデートしようぜ」


「あなたとなんて絶対いや!」


「オイオイまさか、こんなへなちょこギター小僧がそんなにイイってのか?」


 玉響が一瞬だけ僕を見た気がした。


「そんなこと……あなたが知る権利なんてない!」


「そうか、だったらこいつには用はねぇよな、さぁ屋上行こうぜ」


 鳴神が力任せに玉響の腕を引っ張ったその時、風船が破裂したような音が響いた。その音に辺りの喧騒が消えた。音の正体は、玉響が咄嗟に放ったビンタであった。

 彼女は自分がふるった暴力にショックを受けたのか、両手で口を押さえている。鳴神は真横に向いた顔を戻しつつ、頬に貼りついた赤い紅葉を確かめるかのように触れ、


「今日は女運が悪いな、チッ、二度も殴られるとはついてねえ」


「ご、ごめんなさい。こんな事をするつもりじゃ……」


 鳴神は隙だらけの彼女の右手を奪い、


「言い訳は屋上でたっぷりと聞かせてもらうぜ」


 あの時と同じだった。


 去年のサマフェスのあと、玉響に告白しようとしたところに鳴神が現れ、僕に難癖をつけて彼女を強引に連れていこうとした。玉響を助けたい気持ちは確かにあったけど、見た目のいかつさや手下の多さに怖気づき、結局何もできなかった。騒ぎに駆けつけた先生たちによって玉響に被害はなかったけれど、逆恨みされた僕は、その日を境にイジメられるようになった。本当に情けない。こんなとき、翔子だったら……


 まさにその時だった。


 その思い描いていた人物が僕に背を向けて立ちはだかり、両手を握り締めるように骨を鳴らしたあと、傍若無人を働く巨躯の肩をつかんで振りかぶった右拳を鳴神の顔面に叩き込んだ。


 本日二度目となる彼の転倒は、手下二人を巻き込んで下敷きにするといった苛烈なものだった。


「やっぱこの体じゃキツイな。メリケンサックでも仕込んどくか……イテテ」


 翔子が痛みを払うように手をブラブラとさせていると、


「どうした鳴神、おまえ女にやられたのか?」


「う、うるせぇ」


「どんな状況か知らねぇが、面倒事なら手伝ってやるぜ」


 新たに現れた五人のヤンキーグループが翔子を取り囲んでいく。鳴神とつるんでいるところをよく見かける男子たちだ。

 敵対勢力は、これで10名となった。

 周囲を行き交う生徒が何事かと足を止めてざわめきだち、昼休みに流れる癒し系のBGMが喧噪によって消える。彼らは数の力で威勢を強め、優勢とみた鳴神はやがて起き上がり、翔子の前に立ってこう言った。


「確か翔子って言ったよな、俺を怒らせたらタダで済まねぇぞ」


「調子こいてイキがンじゃねえぞゴラァ! テメーラぶっ殺してやッからまとめてかかってこいや!」


 勇ましく吼える翔子の姿が、取り巻きたちの垣間から見えた。額からゆっくりと流れ落ちる汗。虚勢を張っているに違いなかった。


 ――この状況で僕にできる事……そうだ、先生を呼んでこよう!


 そう思い立ちすぐに駆け出そうとするが、加勢したやつらのひとりに気取られ行く手を阻まれる。下卑た笑みがいかにもといった子分面だ。彼はうれしそうに「お前はここでおとなしくしてろ」と脇役定番セリフを吐いて僕の腹を穿ってきた。体をくの字に折られ、うずくまってやり過ごすという卑劣な考えが脳裏を一瞬かすめるが、


 ――彼女は二度、僕を救ってくれた。


 歯を食いしばり、たたらを踏んで堪える。


「で、できない……ッ」


「は? なんか言ったか?」


 彼女はこんな大勢に囲まれて、圧倒的不利な立場に立たされてもなお、僕らを守ろうとしてくれている。そんな彼女の行為を無碍にすることなんて絶対にできない!


「うおおおおおお!」


 咄嗟に出た行動は、その男子を跳ね飛ばし、気づいた時には鳴神の背中に体当たりして一緒に倒れこんでいた。そして叫ぶ。


「翔子っ、今だ逃げて!」


「ナイスガッツだ翔!」


 翔子はスカートの裾を翻し、唖然としている連中の隙を突いて包囲網を突破した。そして生徒たちに埋め尽くされた廊下の隙間を縫うように駆け抜けていく。鳴神は慌てて僕を押しのけ、取り巻きたちに追えと号令した。彼らは翔子を追って走りだし、僕も続いて立ち上がり、そのあとを追った。


 翔子が廊下を器用にすり抜け逃げ込んだのは二組の教室だった。前を走る一団もそれに続くが、飛んできた小道具の餌食となって足止めを余儀なくされる。


「卑怯だぞ!」


「喧嘩に卑怯もヘッタクレもねえってンだバカヤロー!」


 教室内に罵声と道具が飛び交うなか、翔子は道具で彼らを牽制しつつ窓から脱出を図った。彼らは自分に張り付いたペンやら箸やら定規をむしり取り、怒りをヒートアップさせて廊下へとまろび出た。


「翔くんの知り合いなの?」


 遅ればせながら隣に玉響がいたことに気づく。彼女も一緒になって追ってきていたのだ。


 翔子がピンチの時に不謹慎かもしれないけれど胸が躍る。それは玉響にとっても同じだったらしく、一緒になって破顔した。僕は自分のことを自慢するかのようにこう言った。


「僕の従姉弟なんだ!」


 翔子は教室から盗み取ってきた物を鳴神たちに投げつけながら走り、廊下にいた無関係な生徒までも障害物として利用した。


「おい、あそこを曲がったぞ」


 ちなみにここは新校舎南の棟二階で、校舎のどんつきにあたる一組の隣は階段になっている。

 僕たちは今、彼らから2メートルほど離れたところを走っている。そこで曲がり角の床に濡れて光る透明の液体にいち早く気づき、玉響とともに足を止めた。

 翔子を追いかけるのに夢中の彼らにとって、足元に注意を払うことなんてもってのほかだった。彼らは、廊下を曲がろうとした寸前にその液体に足を取られて滑り、玉突き事故のようになって壁に衝突した。


 翔子が階段の上で踏ん反り返り、手に持ったカラの容器を鳴神たちに投げつける。


「どいつもこいつも出産直後の子馬みてーになりやがって、ガハハ!」


 鳴神たちは、洗剤まみれになって、転んで起きてを繰り返しながらなんとか体勢を整えようとしている。そこに突如として快哉が爆発した。何事かと後ろを振り返えると、いつの間にか大勢の野次馬たちが詰め掛けていた。


「ト・キ・オ! ト・キ・オッ!」


 翔子は声援を送る彼らに手を振って応えたあと、背を向けて階段を駆け上がっていった。鳴神たちが恨み節を口にしながら、その後を追いかける。僕らも野次馬たちと共に追従した。


 三階を経て、中央階段から一階まで下り、北棟へ繋がる渡り廊下へと足を伸ばした。北棟に入って右に曲がると、みっつ目の教室の前で鳴神たちが足止めを食らっていた。理科室の中は、白いカーテンが邪魔して見えなかった。鳴神たちが「出てこい」と怒声を張り上げ、扉を叩いている。


『オーイ、くやしかったら扉こじ開けて中に入ってきやがれ』


 翔子の声だ。

 痺れを切らした鳴神が、手下のひとりにもう一方の入り口に張り込むよう指示を出し、残りの連中と共に扉に向かって体当たりをはじめた。頑丈そうなスチール製の扉は、男子9名の圧力によって激しい打撃音を響かせている。破壊されるのも時間の問題だ。


 綱引きのような掛け声と扉の悲鳴を聞きながら、拳に溜まった汗を強く握り締める。そこでついに扉が突破される時が訪れた。鳴神たちが破砕音を撒き散らしながら教室へ雪崩れ込む。


 静かになったのを見計らい、僕たちは様子を見ようと恐る恐る入口に近づいていったその時、


「痴漢よ! 者どもやっておしまい!」


 と、男勝りの女子の声が上がり「おー」という無数の黄色い声がそれに続いた。理科室のあらゆる物が飛び交う音や殴りつける生々しい音が、土煙と共に教室の外へと排出される。廊下に飛んできたスカートを見たとき、僕は理解した。


 翔子は、着替え中の女子がいた教室に潜り込んだのだ。


 鳴神たちの断末魔の悲鳴を聞いて恐れをなしたのか、奥の扉で待機していた取り巻きの一人が、こけつまろびつ逃走していった。はたして中はどんな状況になっているのだろうか。しかしそれを眺めるのは不可能といえよう。ひとたびでも覗けば、鳴神たちの二の舞になってしまうのだから。


 やがて騒乱が収束し、中にいた女子たちが、ジャージ姿で何事もなかったように僕らの脇を通り抜けグランドに足を運んだ。すべてが出払ったのを確認し、こぞって中の様子を覗きこむ。


 最初に目に飛び込んできたのは、実験台の上に重なりあってくたばっている鳴神たちの姿だ。そしてその上に、英姿颯爽と勝ち誇る翔子が立っている。


 彼女は、白目をむいてくたばる鳴神に向けてこう言った。


「おうデブゴリ、トンネル効果ていう量子の振る舞いのこと、知ってっか?」


 ――りょうし。


 聞いたこともない言葉だった。

 翔子は「まァ、通常はありえねーことだが」と言葉を繋げ、


「ミクロの世界じゃ粒子は波の性質も合わせもっててよ、粒子のやつがたまに波の性質を使って壁をすり抜けたりするンだよな」


 彼女の言っていることがまったく理解できない。


「あー、なにもミジンコ並の頭しかねえオメーに理解を求めてンじゃねえ。こりゃあくまでもたとえ話ヨ。ようするに、そのドアを使っての古典的人体実験でその効果を巨視的に証明しようとしたって言やぁ、先公も多少は免じてくれンじゃねーかと思ってヨ」


「お、お前は、一体、何者なんだ……」


「アン、俺か?」


 最後の力を振り絞るようにして発した鳴神の言葉に対し、彼女は一瞬だけ僕に視線を向けて男勝りな態度で腕を組み、力強くこう断言した。


「俺の名は時生翔子。ただの……翔の従姉弟だ!」


 翔子がそう締めくくると、周りがポップコーンのように弾け飛び、喜びの声が教室中に響き渡る。翔子は駆け寄ってきたみんなと嬉しそうにハイタッチを交わしている。自分事のように感じて嬉しくなる。そこで隣にいた玉響がこんなことを言ってきた。


「翔くんのお姉さん、翔子ちゃんっていうんだね」


「へ? いや、なんていうか、お姉ちゃんじゃないんだけど……どうかしたの?」


 玉響は、なぜか人差し指をつつきながら照れていた。


 とてもいやな予感がする。


「翔子ちゃんのこと、好きになったかも……」


 この間、時が止まっていたとしたら多分10秒である。なぜ分かるのかと言うと、冷めやらぬ喧騒の中、こつこつと進む秒針の音だけが、僕の耳に入ってきたからだ。


 精神崩壊寸前の僕の叫びが、昼休み終了10分前の予鈴の音と共に響き渡る。

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