第三章 トンネル効果
再中学デビュー
1999年7月9日 金曜日 AM8:30
学校のチャイムが鳴り、朝礼当番のやる気のない号令とともに椅子が引きずられて礼、まとまりのない着席の擦過音が校内中に響き渡る。
この瞬間、世界中の誰もがもう家に帰りたいと思っているはず、と決めつけるのはよくないことだが少なくともここにひとり。目の前にあるスチール製の扉はこうしてよく見ると無数の擦り傷と打痕があり、右斜め上には2-5と書かれた年季の入ったクラス札、数々の黒歴史を生み落とさんとする胎動が、扉越しにひっしりと伝わってくる。
そう俺はいま、
「エ~今日からこのクラスに新しい仲間が増えまス。でわ時生ガール、入ってきたまえ見たまえ板前ラッシャーイ!」
片言の日本語で俺を呼んだのは、担任の田中・カール・エルンスト・ルートヴィヒ・
耳から上がハゲており、黒丸メガネとどじょう髭が目印の、ちょっと変わった帰化済元ドイツ人35才既婚担当科目は英語。この教師との思い出はあまりないが、癖の強い関西弁は記憶の中に残されている。
深呼吸を数回繰り返して気持ちを落ち着かせる。
「フン、やってやるぜ。時空を超えての再中学デビューだ!」
勢いよくドアを開け、颯爽と教卓に向かって歩いていく。喧騒がいつの間にか消え、クラス中の視線が俺に向けられる。田中の隣で正面を向き、堂々たる態度で腕を組む。
「やるやないかいワレ。全部持っていきやがったナ」
「は?」
「ま、まーええ、とりあえず一通り紹介や。エ~この時生ガールは言わずもがな時生ボーイの従姉弟にアタリ……――
改めてクラスの連中を見渡してみるが、懐かしくは感じるものの、覚えているやつがほとんどいない。特に俺の前に座っているこいつとは割と仲が良かった気もするが、いかんせん名前が出てこない。名札を見る。
――三木。そうだコイツ、ミキティーだ!
30年間生きてきてはじめて名札の物質効果を目の当たりにした瞬間だった。こいつに借りパチされたマンガ本を16年ぶりに思い出し、あとで取り立ててやろうと考えていたところ、彼を含めた男子の熱視線が俺に集中していることに気づいた。
短い鼠色のチェックスカート、胸が窮屈な半袖のカッターシャツに赤いリボン。今朝、鏡で見て正直自分でもエロいと思ったほどだ。自分で言うのもあれだが、性の対象に見られているに違いない。
――……ヘイッ! ワレさっきから呼んどるのに無視ってどういうこっチャ。まさかワシが担任なんが気に食わんのか、ハン?」
日本女性を娶り帰化してから10数年が経つというのになぜいまだに片言なのか。
「それはそうと、さっきからなにソワソワしてんネン? ア、ひょっとしてワレ、ナメられたらアカン思て初日に一発芸ぶちかましたろ思とんちゃうけ」
「は? いやいやなんでそーなるんスか」
「エーぞエーぞワシそういうやつ好ッきゃネン。ほな思い切ってやってみい。オドレが一端の芸人としてやってけるかどうかこのワシが見極めたる」
「えー登校初日に無茶ぶりとか勘弁してくださいよ!」
とはいえ、田中は言い出したら人の話を聞かない性格だ。どうする? そうだ、自己紹介を派手にキメるだけならなんとかなるかもしれない。よし、それに決めた。田中が言うように、学校なんてのはナメられたら終りだ。勝手を知らなかった頃とは一味違う、16年間熟成してきた
覚悟を決め、足を踏ん張って思いっきり息を吸いこみ、
「俺の名前は
クラス中の目が点になった。
しまった、外したか。こうなれば、会社の忘年会で会得したとびっきりの変顔芸を披露して……とそこで、唖然とする雰囲気の中ある一角に目がいった。窓際から二列目の一番後ろの席と前席とのやり取り。俺にトラウマを刻みつけたあの豚野郎が、我が分身をここぞとばかりに痛めつけている。
「痛いよ、もぅ、やめてってばー」
「お前が無視してっからだろ」
目蓋の上にみりみりと怒りがこもりはじめる。
我に帰った時にはすでに時生翔子と書かれた黒板と「ワレこの後スッポンポンなってワシと裸踊りするんちゃうんケ!」と引き止めにかかってきた田中に別れを告げていた。翔が背を丸め縮こまっている。16年前のあの光景が去来し怒りの炎に包まれる。翔が俺の接近に気づいて視線をそらす。見られたくなかったのだろう。それがわかりすぎるからどうしようもなく胸が痛い。あの頃ほんの一握りの勇気があればどうにかできたかもしれなかったのに。だが今の俺は、何もできなかったあの頃の俺ではない。復讐を体に、恐怖を心に刻みつけれる程度には成長している。
今日から世話になる相合傘の彫られた机が通学鞄の餌食となって悲痛を上げ、後席の後藤と前席の前田が「ヒ」と短い悲鳴を上げた。弁解するのはあとにして、そのまま首だけを後ろに向けて鳴神を睨みつける。それに気づいて睨み返してきたが一寸たりとも目を逸らすことなく鳴神の席に辿り着き、今度は上から押さえつけるように睨みつける。
「誰だお前?」
「ヘッ、俺はオメーのこと知ってンのに随分とつれねえ言い方すンじゃねーかぁ、アン? デブゴリラ」
髪は黒に黄色のメッシュを入れた短髪。ニキビ面の不細工顔。身長は170cmと高く、縦にも長いが横にも長いといったいわゆるデブ体型そのもの。生意気にも学校指定のネクタイをずり下げスラックスは腰履きで、寒くもないのにシャツを襟立てるといった、まさに田舎中坊ヤンキー丸出しの格好だ。朝永中学二年のボス的存在、
あの頃はこの凶悪面に臆して抵抗すらできなかったが、酸いも甘いも経験済みの今となってはまったくと言っていいほど恐怖を覚えない。
「で、デブゴリ……俺に喧嘩売ってんのか!」
「まーそういきり立つなって、ンなことよりもよう、オメーの足元にエロ本落っこちてンぞ?」
「えっ!」
そのハッタリにまんまと食らいつき、足元を見ようと身を屈めた鳴神のニキビ面目掛けて、すかさず右ひざ蹴りを叩きこむ。
――喧嘩必勝法その一、考える隙をわざと与えて先手を取る。
鳴神はぺたんこになった鼻を押さえながら涙目になって後ろによろめき、自分の椅子に足を引っ掛けて派手な音を立てて転んだ。
「ぶわははッ、ンなのハッタリに決まってンだろーが、てかガチでエロ本なんか持ってきてンのかオメー? バカじゃねえの」
と、なんでもないように笑い飛ばすが、実のところものすごく痛いのを我慢していた。
――っ、女だってことを忘れてたぜ。
平静を装いつつも内心であまり無理できないと考えていると、鳴神がへしゃげた鼻から血を垂れ流しながら立ち上がり、俺の胸倉を掴んでこう言った。
「俺は女だからって容赦しねえからな、覚悟できてんだろうな!」
――喧嘩必勝法その二、不利な状況でも絶対に引くべからず。
「上等だ、てめえが二度とナメた口叩けねえように一生癒えねー傷刻ンでやるヨ」
鳴神が弱い者いじめをしているところは散々見てきたつもりだが、こいつが喧嘩をしているところを俺は一度たりとも見たことがない。裏で何をしているかなんてまったく興味はないが、この目で見ない限りこいつの強さを絶対に認めてはならないのだ。
片腕を振り上げ鼻をすんすん鳴らしながら凄む鳴神に負けじと胸倉を掴み返し臨戦態勢をとる。拭きもらした鼻血が頬の縁から垂れてシャツに赤い染みを作った。俺たちをはさんで田中・カール・エルンスト・ルートヴィヒ・計画久の顔。鳴神が一向に右腕を振り下ろしてこない。俺が女だからといって躊躇っているのだろうか、それともいざガチの喧嘩になって怖気づいてしまったのか。もし後者なら彼の強さは見せかけだけと証明されたも同然。俺たちをはさんで田中・カール・エルンスト・ルートヴィヒ・計画久の顔。しかし俺は待った。相手の出方を見るという必然的待機。あえて次手を誘いどこに攻撃してくるかを予測して攻撃を防ぎきることに集中する。さすればその瞬間彼は目を丸くして思うだろう。ひょっとして俺の攻撃は通じないのではないか、と。戦意を喪失させれば喧嘩は勝ち。今更ながら俺たちをはさんで田中・カール・エルンスト・ルートヴィヒ・計画久の顔が間近にある事に気がついた。
「わああああああッ」
「キエエエエッ、オドレラいきなり何さらしてけつかんネン!」
田中が俺たちの驚きの上をいく叫びで教室中の音という音を消し去った。そして掴みあっていた胸倉を強引に引き離し、派手に地団駄を踏みながら金切り声と唾を撒き散らし、
「オドレラひょっとしてワシのことドイツ人やおもて舐めとんやろ? ハン? 毎日毎日ソーセージばっか食うとると思とんやろ? ソーセージあったらご飯3杯は余裕でイケるや思とんやろ? ハン? すべからくその通りジャイーッ!」
田中のテールランプのように赤くなった頭頂部に、白い湯気が立っていた。
「こんなとこ校長にバレたらワシ一発で首飛ぶやんケ! もしそーなったらワシの家族どないしてくれんねん? うっとこ子供三人おるから最低でも手取り30は下らんゾ。なに? オドレラが養うてくれるんか? それやったら話は別や、ワシも教師生活いい加減飽き飽きしとったからな、早々に校長のハゲ面に退職届け叩きつけて引退の花道飾たろやないけ、てどこまで引っ張らすきヤ! せめて校長のところで「お前もハゲとるやんけ!」てツッコミ入れんのが普通やろ! ナニ、二人ともボケ担当ってか。こりゃどーも失礼しましたーてナンデヤネン!」
鳴神との衝突でヒートアップしていた教室内が、田中の一人舞台によって凍りついた。やがて気が済んだのか、田中は鳴神の頭を引っ叩き「ワレ転校生に何ナメられとんネン。今から説教したるから職員室に集合ヤ」と言って、彼の腕を引っ張り教室を出ていった。俺はお咎めなしのようだ。そこで快哉を叫ぶ声が上がり、クラスの連中が俺を取り囲んで、歓迎の意を示してくれた。鳴神派のやつらが離れた所で恨めしそうに俺を見ている。いい気味だ。
「ねえ君って、ほんとに僕なの?」
翔だった。
ここが未来とか過去だとかは少し置いといて、とにかく俺がこの世界にいる以上、翔は俺が守ってやろう。もしかすると、俺はこのためにこの世界に辿り着いたのかもしれない。
すっかり縮こまってしまった翔の背中を叩き、隣の席に足を組んで座りこう言った。
「たりめーよ。30の俺があんなガキ相手にビビってたまるかってンだ」
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