絆を繋ぐ白いハンカチ

 1999年7月8日 木曜日 PM7:00


 一階のリビングキッチンにて――


 長方形の木製テーブルの上には、色彩豊かなサラダ。具沢山の肉じゃが。きんぴら。酢蛸のワカメ和え。白身魚の天ぷらといった、食欲をそそるお袋自慢の手料理が所狭しと並べられており、空っぽだった胃袋に二日分の食料を詰め込むように、それらを平げていった。


「女の子なのに立派な食べ方するわねぇ」


 元は男だけどな。とは言わず、聞かないフリをして濃い目に淹れてくれた緑茶を一気に飲み下す。


 お袋たちを改めて見るとやはり二人とも若かった。この時代だとたしか二人ともまだ40手前のはずだ。


 まずお袋は、スタイルのいい痩せ型タイプで、肩まで伸ばしたボブカットのせいで年齢より若く見える。性格はおっとりしてるようにみえるが、実は目端の利くシッカリ者であり、超がつくほどの過保護なのを除いては、できた母親だといえる。


 そしてさっきから俺の方をチラ見しながらゆっくり箸を進めている親父の方は、年相応の渋みのある縦長の顔で男前であり、体型は中肉中背、身長は今の時代だと高い方で175くらいで髪は短めの七三分け、性格は基本温厚だが、一旦キレると手のつけられないほどの暴れ者になってしまう。


 この頃はまだ普通に話せていたのだが、俺が高校に上がってグレてケンカしてからは、ほとんど会話をしなくなった。失敗だらけの人生だったが、親父の信頼を裏切ってしまった事で、完全に取り返しがつかなくなってしまった。修復するには、あまりにも時間が経ちすぎている。もう、どうしようもないことなのだ。


 ――過去にきて過去の過ちを反省、か。なんだか酔いたくなってきたぜ。


 からっぽになった湯のみをお袋に向け、


「よし、しみったれた人生に乾杯といくか。お袋、俺にもビールくれ」


「ブッッ……ゴホッゴホッ」


 親父がビールを吐いてむせている。お袋が長い溜息をつき、


「何言ってるの。子供には出せません」


「はあ?」


 ――そういえば、俺は今何歳なんだ? 身長は過去の俺と同じぐれえだが、まさか同じ14ってことはねえよな。


 チッ、ガキじゃあるめーし、と目の前に座るお袋に悪態をつき、小声で親父に、


「なぁ親父、お袋はああ言ってンがチョットだけ分けてくれよ」


「あ、ああ……」


「おおーッ、ありがてえ! ったくアッチの親父に爪の垢飲ましてやりてえ、お、サンキュー」


 目尻を下げて喜ぶ親父を見たのは何年ぶりのことだろうか。親父が緊張気味に瓶ビールを差し出してきたので、空いた湯飲みを傾けた。するとお袋が親父の手を叩き、


「あなたッ! 若い子にほだされちゃダメじゃない」


「あ、ああ……申し訳ない」


 と親父が名残惜しそうな顔で瓶を引き下げる。そこでお袋に異議を唱えようとしたところ、翔がこちらを見ながらブツブツと呟いているのが気になった。


「ひょっとしてまださっきのこと根に持ってンのか? 萌に嫌われても知らねーぞ」


 翔が顔を真っ赤にして俺を睨み、


「ここでそーいうこと言わないでよ! マッ……か、母さん。僕この子キライッ」

 

 やがてみんなの箸が落ち着き、頃合を見計らったお袋がこんな質問を投げかけてきた。


「そういえば貴女、名前は何て言うのかしら?」


 皆の視線が俺に向けられる。

 この場に呼ばれた時点で、そうくることは予測していた。荒唐無稽な絵空事のように思われるかもしれないが、事実をそのまま伝えようと心に決めていた。


「……翔」


「そう。で、どこから来たの?」


「い、言っても信じねーとは思うけど、その…16年後の、未来なんだ」


 お袋は今度こそ言葉の接ぎ穂を失い、翔はハラハラと事の成り行きを見守っており、親父は概ねお袋と同じ反応を見せた。


「本当なんだ。親父やお袋のこともよく知ってる。翔は過去の俺で、こっちに着いたらなぜか女になってて……俺も来たばっかでよく分ンねぇが、つまりはそういうことなんだ」


 言い終えてみて、もっと気の利いた言葉が他にあるだろうと内心後悔した。過去の人間に、未来からきたことを理解してもらうことが、こんなに大変な事だとは思わなかった。翔のように強引に信じさせる手もあるが、相手は俺より大人だ。どうせ信じないに決まっている。


 お袋たちは依然として沈黙していた。これ以上説明を加えたところで、状況をさらに拗らせるだけだ。もう何も言わず、この家から消え去ろう。と、思って席を立とうとしたところ、翔が先に立ち上がってこう言った。


「未来からきた僕だとか、女になったとか、昔話とか、この先何が起きるのか。言ってることがまるで夢物語で、とても信じられない……て、僕も聞かされた時そう思ってた。けど、なぜだか分かんないけど、僕には、この子が嘘をついてるようには思えないんだ!」


「……オ、オメー……」


 翔が俺を見て、すぐに視線をそらし、


「僕がこの子と逆の立場だったらどうしよう、て。パパもママも信じてくれない、友達も先生も信じてくれない、これからどうしたらいいんだろ……て。もしそうなったら……寂しすぎるよ。きっと、寂しくて寂しくて死んじゃうかもしれないよ!」


 まるで我が身に起きた事のように訴える翔を、真剣な眼差しで皆が見守る。

 有難いことなのだが、他人事なのに、どうしてそこまで、必死でいられるのだろうか。


「この子が言ってることを無理に信じなくてもいい。けど、……。パパ、ママ、この子は、嘘なんか言ってない」


 そうか、こいつは俺だ。

 俺の話を全て信じたとか、そういうことではない。

 自分の事のようにしか思えないのだ。

 翔はそれを、本能的に感じているのだ。


 お袋が、やがて口を開いてこう言った。


「じゃあ、翔子しょうこで決まりね」


 ――ッ!?


 その言葉に一瞬耳を疑った。なぜなら、その名に含まれた意味を感じ取ることが出来たからだ。すがるような気持ちでお袋を見つめる。


「実はお父さんと決めてたの。貴女が未来から来たという問題はともかく、あの縫い癖は間違いなく私の手によるものよ。二つも作った覚えはないけれど、貴女が持ってたハンカチは間違いなく翔にあげた物と同じ物だわ。……不思議ね。これって運命なのかしら。ねぇあなた」


「ああ、そうだな」


 寝巻きのポケットに入っていたハンカチをギュッと握り締める。


 ――こいつが、この家族との絆を、繋いでくれた。


 二人は互いの意思を疎通させるかのように見合い、翔を見て、そして俺を見る。


「それに行くとこなんてないんでしょう? 色々ハッキリするまで、貴女をこの家の娘として、暮らすといいわ。ね、あなた」


「ああ!」


 と、親父が力強い相槌で応えてくれる。俺は嬉しさのあまり、彼らの言ってることが信じきれず、


「こんな世迷言みてえな話、信じてくれンのか?」


「翔も信じているみたいだし、それに正直、貴女を見てると、もうずっと昔からこの家にいるみたい、て。そう感じるの。不思議よね」


 お袋が陽だまりのような笑顔を向けてくれた。


 ――未来では、つっぱって、わがままばっか言って困らせたのに、まさかこんな俺を受け入れてくれるなんて。


 この時代の彼らには到底理解できないことだが「この二人の息子で本当によかった」と心からそう思える。ここに来てはじめての笑顔を振りまいた。もちろん、最初は


「あんがとな翔。オメーが言ってくれなきゃ俺はこの世界でずっとぼっちだった」


 翔がそっぽを向いて、赤く染まった顔を隠した。次に親父を見て、


「今女だから感謝ついでに「お父様大好きー」って抱きついてやってもいンだゼ、親父」


「ぶっ……」


 と、俺のウィンクをまともに食らって飲みかけた茶を吐きこぼした。そして照れ隠しのつもりか、真っ赤になりながら逆さになった新聞を読みはじめる。


「あら、私にはしてくれないの?」


「ばっ、バカヤロー! 大の大人がテメーの母親なんか抱けるかっての! ……ん、待てよ? だったら親父に抱きついたら俺はホモになンじゃねーか」


 みんなが笑ってくれた。


 俺はこの世界では異分子で、この親子にとっては仮初めの家族なのかもしれない。けど、ここに加えられたことで、この夫婦がかつて夢に描いていた光景に昇華させることができた。世界が五分前に始まったという仮説が本当なら、あの朝、目覚める五分前に、少女として生まれ変わった俺が、この未来を創り出したということだ。


 やがて笑いも収まり、なおも和やかなムードが続いている中、お袋が何かを思い出したかのようにこんなことを言ってきた。


「そうそう言うの忘れてたけど。翔子、貴女


「……ファッ?」


 その聞き捨てならない言葉を耳に入れた瞬間、世界が止まったような感覚を覚えた。お袋の言葉が脳裏で何度も再生され、湯呑みを持つ手が震えて、茶を飲むができない。


「お……お袋。今なんか変なことを耳にしたが……き、気のせいだよな?」


 硬直が解け、震える手を抑えながらなんとか湯呑みを口にするが、お袋はさも当たり前のような顔で、


「なんとなくこうなる気がしてたから、鳥野先生のコネ使って校長先生に直談判したら快諾してくれたの。学校関係者の知り合い持つと色々と便利ね。翔が鳥野先生と仲良くて本当助かったわ」


 茶を一息で飲み干し、空になった湯呑みを割れんばかりに食卓に叩きつけ、


「なんでとんとん拍子で俺の人生勝手に決めつけンだよ! 今すぐ校長ンとこ行って取り消してきやがれッ!」


「入学手続きを含めて全て手配済みよ。建前上、翔の従姉弟ってことにしてあるから、安心して通いなさい」


「安心なんてできるか! 大体なァ翔子っていうダセー名前をガッコで――」


「あら、未来からきたのにこのことは予測つかなかったのかしら?」


 すかさず揚げ足を取られてしまう。お袋の見透かした目が気に入らない。


「ババァの分際でいらねえ知恵つけやがってえ……」


「今日から家族の一員なんだから、私の方針には従ってもらいます。ねぇあなた」


「あ、ああ……そうだな」


「コラ親父! さっきからあーあーテキトーぶっこいてババァに合わせてンじゃねーよ! このままカカー天下になっちまってもいーのか?」


 お袋が俺の頭に拳骨を落としてこう言った。


「さっきから気になってたんだけど、貴女口の利き方がなってないわね。お袋はまァ許すとして、今度ババァって言ったら承知しないから」


「イテテ……なにも叩くことねーだろがチクショー」


 翔が隣で素知らぬ顔で残りの料理に箸をつけようとしたのが気に食わず、皿ごと奪い取って惣菜を平らげ、


「おい穀潰し! テメーも食ってばっかねえでさっきみてーに俺を弁護しやがれ!」


「ああ、僕のおかずが……ママ、僕やっぱりこの子キライ!」


「あらダメよ翔。今日から一緒の部屋で寝るんだから仲良くしないと」


「はァー? なんじゃそりゃあ? なんで俺がコイツと一緒に寝なきゃならねンだよ!」


「それはこっちのセリフだよバカー!」


 親父がひとり呑気に笑っている。


「言っとくが俺は今レディーなンだぞ? コイツを二階から追っぽり出してオメーラの愛の巣で三人仲良く川の字で寝りゃ済む話じゃねーか! あ、隣の部屋はよ」


「隣の部屋は物置で使ってます。あ、そうそう、翔に色目使っちゃダメよ? 翔もヘンな気を起こさないでね」


「そ、そんな気起きるワケないし!」


「ブッフウウウウッてそりゃ俺のセリフだっつンだバカヤロー! やいクソババァ、俺はこんなしょんべん臭えガキとゼッテー寝ねえかンな! て、痛ってー」


 脳天を突き刺さすような衝撃に顔をしかめながら面を上げると、そこには、未来でも見ることはなかった毘沙門天を彷彿とさせるお袋の顔があった。


「あ……俺、そろそろ寝よっかな……に、二階のベッドで」


「ババァ禁止だって言ってンだろがこの小娘!」


 今思えば、叩かれるのも、ここまでキレられるのも生まれて初めてのことだ。お袋は元ヤンということを隠していたのだろうか。


 それとも……


 そのとき感じた僅かな引っ掛かりは、お袋の凶悪面を前にかき消され、俺は思わず、自分の不甲斐なさを決定付ける言葉を漏らしてしまった。


「ごめんなさい……

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